今日は、明治時代後期の1908年(明治41)に、日本画家・著述家東山魁夷が生まれた日です。
東山魁夷(ひがしやま かいい)は、神奈川県横浜市で船具商を営んでいた父・東山浩介と妻・くにの次男として生まれましたが、本名は新吉(しんきち)と言いました。1911年(明治44)に父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居し、兵庫県立第二神戸中学校(現在の兵庫高校)を経て、1926年(大正15)に東京美術学校日本画科に入学します。
結城素明に師事し、在学中の1929年(昭和4)に第10回帝展で『山国の秋』が初入選、1931年(昭和6)に東京美術学校を卒業後、研究科へ進みました。1933年(昭和8)東京美術学校研究科を修了し、ドイツへ留学、翌年にベルリン大学哲学科美術史部に入学、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史、日本美術史の講座を聴講しましたが、1935年(昭和10) 父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国します。
1936年(昭和11)に帝展に出品し落選したものの、第1回新文展に『高原秋色』が入選、1939年(昭和14)には、第1回日本画院展に『冬日(三部作)』を出品して日本画院賞第一席を受賞、以後3年連続の同賞受賞となりました。1943年(昭和18)に国土会を結成、北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国しましたが、翌年太平洋戦争の激化により、山梨県、岐阜県、長野県などに疎開します。
1945年(昭和20)に召集をうけ、配属された熊本で阿蘇の雄大な景観に触れて画心を確立、戦後は千葉県市川市に居を定めました。1947年(昭和22)の第2回日展に出品した『残照』が特選となり、1950年(昭和25)の第6回日展に出品した『道』により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まります。
1955年(昭和30)の第11回日展に『光昏』を出品、翌年この作品で、第12回日本芸術院賞を受賞、1959年(昭和34)に宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼され翌年に壁画『日月四季図』を完成、1961年(昭和36)には、吹上御所御用命画『万緑新』を完成させました。1965年(昭和40)に日本芸術院会員、1969年(昭和44)に毎日芸術大賞受賞、1969年(昭和44)に文化勲章受章など数々の栄誉にも輝きます。
1974年(昭和49)に日展理事長となり、1975年(昭和50)に唐招提寺障壁画を完成、1977年(昭和52にパリで唐招提寺展が開催、1981年(昭和56)には国内で、1989年(平成元)にはベルリンで東山魁夷展が開催されました。一方、文章もよくし、『わが遍歴の山河』(1986年)、『白夜の旅』(1963年)、『風景との対話』(1967年)、『唐招提寺への道』(1975年)、『東山魁夷画文集』全10巻(1978~79年)などを著しましたが、1999年(平成11)5月6日に、東京都中央区の聖路加国際病院において90歳で亡くなっています。
〇東山魁夷の主要な作品
・『山国の秋』(1929年)第10回帝展入選
・『夏日』(1931年)第11回帝展入選
・『高原秋色』(1936年)第1回新文展入選
・『冬日(三部作)』(1939年)第1回日本画院展で日本画院賞第一席受賞
・『水辺放牧』(1946年)第2回日展入選
・『残照』(1947年)第2回日展特選 東京国立近代美術館蔵
・『道』(1950年)第6回日展出品 東京国立近代美術館蔵
・『光昏』(1955年)第11回日展出品 日本美術院蔵
・『秋翳』(1958年)第1回新日展出品 東京国立近代美術館蔵
・『青響』(1960年)東京国立近代美術館蔵
・『万緑新』(1961年)吹上御所御用命画
・『白夜』(1963年)北澤美術館蔵
・『白夜光』(1965年)東京国立近代美術館蔵
・『曙』(1968年)北澤美術館蔵
・『朝明けの潮』(1968年)皇居新宮殿壁画
・『年暮る』(1968年)山種美術館蔵
・『花明り』(1968年)個人蔵
・『白馬の森』(1972年)長野県信濃美術館・東山魁夷館蔵
・『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年)唐招提寺障壁画
・『夕星』絶筆(1999年)長野県信濃美術館東山魁夷館蔵
☆東山魁夷関係略年表
・1908年(明治41)7月8日 神奈川県横浜市で船具商を営んでいた父・東山浩介と妻・くにの次男として生まれる
・1911年(明治44) 父が船具商鈴木商店横浜支店長を退職し、神戸に移住したのに伴い転居する
・1926年(大正15) 東京美術学校日本画科に入学する
・1929年(昭和4) 第10回帝展に「山国の秋」で初入選する
・1931年(昭和6) 東京美術学校を卒業、第11回帝展に「夏日」で入選する
・1933年(昭和8) 東京美術学校研究科を修了し、ドイツへ留学する
・1934年(昭和9) ベルリン大学哲学科美術史部に入学し、ドイツ・イタリア中世からルネサンスの美術史、日本美術史の講座を聴講する
・1935年(昭和10) 父危篤の報を受け、1年間残っている留学を断念して帰国する
・1936年(昭和11) 帝展に出品するが落選、第1回新文展に「高原秋色」で入選する
・1939年(昭和14) 第1回日本画院展に「冬日(三部作)」を出品して日本画院賞第一席を受賞する
・1940年(昭和15) 第2回日本画院展に出品して日本画院賞第一席を受賞する
・1940年(昭和15)11月 日本画家川崎小虎の長女すみと結婚する
・1941年(昭和16) 第2回日本画院展に出品して日本画院賞第一席を受賞、3年連続受賞となる
・1943年(昭和18)3月 国土会を結成する
・1943年(昭和18) 北京にいる友人の勧めにより奉天、承徳を経て北京へ旅行し、京城を経由して帰国する
・1944~45年(昭和19-20) 山梨県、岐阜県、長野県などに疎開する
・1945年(昭和20) 召集をうけ、配属された熊本で阿蘇の雄大な景観に触れて画心を確立する
・1945年(昭和20) 戦後千葉県市川市に居を定める
・1946年(昭和21) 第1回日展に出品するが落選し、同年の第2回日展に「水辺放牧」で入選を果たす
・1947年(昭和22) 第2回日展に「残照」を出品して特選となる
・1950年(昭和25) 第6回日展に出品した「道」により、画壇における地位を確立するとともに、社会的知名度も高まる
・1955年(昭和30) 第11回日展に「光昏」を出品する
・1956年(昭和31) 「光昏」で、第12回日本芸術院賞を受賞する
・1958年(昭和33) 第1回新日展に「秋翳」を出品する
・1959年(昭和34) 宮内庁から東宮御所の壁画制作を依頼される
・1960年(昭和35) 東宮御所の壁画「日月四季図」を完成する
・1961年(昭和36) 吹上御所御用命画「万緑新」を完成する
・1962年(昭和37)4月~7月 デンマーク、スウェーデン、ノルウェ一、フィンランドを写生旅行する
・1965年(昭和40) 日本芸術院会員となる
・1968年(昭和43) 皇居新宮殿壁画「朝明けの潮」を完成する
・1969年(昭和44)1月 毎日芸術大賞を受賞する
・1969年(昭和44)11月 文化勲章を受章する
・1974年(昭和49) 日展理事長となる
・1975年(昭和50)6月 唐招提寺障壁画を完成する
・1976年(昭和51) 西ドイツ功労大十字勲章を受章する
・1977年(昭和52)4月 パリで唐招提寺展が開催される
・1981年(昭和56)8月 東山魁夷展が開催される
・1987年(昭和62) 所蔵していた自作を長野県に寄贈する
・1989年(平成元)2月 ベルリンで東山魁夷展が開催される
・1989年(平成元) オーストリア芸術家協会名誉会員となる
・1990年(平成2) 長野県長野市の信濃美術館内に東山魁夷館が開館する
・1994年(平成6) 第1回信毎賞を受賞する
・1995年(平成7) 山口村名誉村民となる
・1999年(平成11)5月6日 東京都中央区の聖路加国際病院において90歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1588年(天正16) | 豊臣秀吉が「刀狩り令」を布告する(新暦8月29日) | 詳細 |
1783年(天明3) | 浅間山天明大噴火が起きる(新暦8月5日) | 詳細 |
1939年(昭和14) | 「国民徴用令」(勅令第451号)が公布される | 詳細 |