今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、大正から昭和時代に活躍した詩人金子光晴の亡くなった日です。
金子 光晴(かねこ みつはる)は、1895年(明治28)12月25日に、愛知県海東郡越治村(現在の津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれましたが、本名は安和(やすかず)と言いました。1897年(明治30)に、父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現在の中区錦三丁目)に転居、土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となります。
養父の転勤により、京都、東京と移り住み、暁星中学校を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科文科に入学しました。しかし、翌年中退し、その後、東京美術学校、慶應義塾と入退学を繰り返します。
1915年(大正4)に、肺尖カタルを患い、詩作を始め、翌年に石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)、同年養父の荘太郎が死去したため、遺産を手にして放蕩生活を続けました。残った金で、1919年(大正8)から2年間、ヨーロッパへ留学、帰国後の1923年(大正12)に、フランスの象徴派や高踏派の影響を消化した華麗な作風の詩集『こがね虫』を刊行して、詩壇に登場します。
しかし、同年9月の関東大震災で家を失い、各地を放浪したものの、東京へ戻って、1924年(大正13)に森三千代と室生犀星の仲人により結婚しました。1928年(昭和3)に妻とともに日本を脱出し、5年間の放浪を経て帰国、1937年(昭和12)に日本の現実を風刺し、戦争を痛烈に否定した詩集『鮫』を出して注目されます。
1940年(昭和15)に、紀行文『マレー蘭印紀行』を刊行、戦時中は、抵抗の詩をひそかに書き続けました。太平洋戦争後、書き溜めたものを詩集『落下傘』、『蛾』(ともに1948年)、『鬼の児の唄』(1949年)として刊行、耳目を集めます。
1954年(昭和29)に詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞、1965年(昭和49)に詩集『IL(イル)』で第3回歴程賞、1971年(昭和46)に小説『風流尸解記』で第22回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しました。その一方で、ボードレール「悪の華」やランボオ、アラゴンの詩集などを翻訳しましたが、1975年(昭和50)6月30日に、東京都武蔵野市の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなっています。
〇金子光晴の主要な著作
・処女詩集『赤土(あかつち)の家』(1919年)
・詩集『こがね虫』(1923年)
・詩集『水の流浪』(1926年)
・詩集『鮫(さめ)』(1937年)
・紀行文『マレー蘭印紀行』(1940年)
・詩集『落下傘』(1948年)
・詩集『蛾(が)』(1948年)
・詩集『女たちへのエレジー』(1949年)
・詩集『鬼の児の唄(うた)』(1949年)
・翻訳『ランボオ詩集』アルチュール・ランボー作(1951年)
・翻訳『アラゴン詩集』ルイ・アラゴン作(1951年)
・詩集『人間の悲劇』(1953年)読売文学賞受賞
・詩集『水勢』(1956年)
・詩集『IL(イル)』(1965年)第3回歴程賞受賞
・自伝小説『どくろ杯』(1971年)
・小説『風流尸解記』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞受賞
☆金子光晴関係略年表
・1895年(明治28)12月25日 愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれる
・1897年(明治30) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる
・1900年(明治33) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居する
・1902年(明治35)4月 銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する
・1906年(明治39) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学する
・1907年(明治40)6月 牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する
・1908年(明治41)4月、暁星中学校に入学する
・1914年(大正3)4月 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1915年(大正4)2月 早稲田大学を中退する
・1915年(大正4)4月 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学する
・1915年(大正4)8月 東京美術学校を退学する
・1915年(大正4)9月 慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1916年(大正5)6月 慶應義塾大学を中退する
・1916年(大正5)7月 石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)する
・1916年(大正5)10月 養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける
・1917年(大正6) 牛込区赤城元町に転居、中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)する
・1918年(大正7)12月 養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ
・1919年(大正8)1月 金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行する
・1920年(大正9)12月 ロンドンで帰国の船に乗る
・1921年(大正10)1月 ヨーロッパ旅行から帰国、同人誌『人間』等に詩を発表する
・1922年(大正11) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる
・1923年(大正12)9月 関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる
・1924年(大正13)1月 東京に戻る
・1924年(大正13)7月 森三千代と室生犀星の仲人により結婚する
・1925年(大正14)3月 長男・乾が誕生する
・1926年(大正15)3月 夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす
・1927年(昭和2) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヶ月ほど滞在、横光利一とも合流して交流を深める
・1928年(昭和3) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる
・1928年(昭和3)9月 アジア・ヨーロッパの旅に出発する
・1929年(昭和4) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る
・1930年(昭和5)1月 パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ
・1931年(昭和6) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる
・1932年(昭和7) 4ヶ月ほどマレー半島を旅行する
・1935年(昭和10)9月 『文藝』に「鮫」を発表する
・1937年(昭和12)12月 三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする
・1938年(昭和13)11月中旬 中国より帰国する
・1940年(昭和15)10月 『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行する
・1943年(昭和18)12月 『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行する
・1946年(昭和21)3月、疎開先より吉祥寺に戻る、『コスモス』の同人となる
・1948年(昭和23) 詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、詩集『蛾』(北斗書院)を刊行する
・1949年(昭和24) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る
・1950年(昭和25)6月 『かえれ湖』(文林社)を刊行する
・1951年(昭和26)6月 詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行する
・1952年(昭和27)12月 詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行する
・1954年(昭和29)1月 『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する
・1956年(昭和31)5月 詩集『水勢』(東京創元社)を刊行する
・1957年(昭和32)8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『日本人について』(春秋社)、『日本の芸術について』(春秋社)を刊行する
・1960年(昭和35)7月 書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の刊行が始まる
・1962年(昭和37)7月 『屁のような歌』(思潮社)を刊行する
・1964年(昭和39) 同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる
・1965年(昭和49) 詩集『IL』(勁草書房)、『絶望の精神史』(光文社)を刊行する
・1967年(昭和42) 『日本人の悲劇』(富士書院)、詩集『若葉のうた』(勁草書房)、『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行する
・1968年(昭和43) 評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、詩集『愛情69』(筑摩書房)、『作詩法入門』(久保書店)を刊行する
・1969年(昭和44)5月 軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヶ月ほど河北病院に入院する
・1971年(昭和46) 詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、『どくろ杯』(中央公論社)、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、『風流尸解記』(青娥書房)を刊行する
・1972年(昭和47) 3月 『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1975年(昭和50) 6月30日 武蔵野市吉祥寺本町の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1944年(昭和19) | 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定する(集団疎開の日) | 詳細 |
1978年(昭和53) | 小説家・中国文学者柴田錬三郎の命日 | 詳細 |