ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年06月

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 今日は、昭和時代後期の1975年(昭和50)に、大正から昭和時代に活躍した詩人金子光晴の亡くなった日です。
 金子 光晴(かねこ みつはる)は、1895年(明治28)12月25日に、愛知県海東郡越治村(現在の津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれましたが、本名は安和(やすかず)と言いました。1897年(明治30)に、父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現在の中区錦三丁目)に転居、土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となります。
 養父の転勤により、京都、東京と移り住み、暁星中学校を経て、1914年(大正3)に早稲田大学高等予科文科に入学しました。しかし、翌年中退し、その後、東京美術学校、慶應義塾と入退学を繰り返します。
 1915年(大正4)に、肺尖カタルを患い、詩作を始め、翌年に石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)、同年養父の荘太郎が死去したため、遺産を手にして放蕩生活を続けました。残った金で、1919年(大正8)から2年間、ヨーロッパへ留学、帰国後の1923年(大正12)に、フランスの象徴派や高踏派の影響を消化した華麗な作風の詩集『こがね虫』を刊行して、詩壇に登場します。
 しかし、同年9月の関東大震災で家を失い、各地を放浪したものの、東京へ戻って、1924年(大正13)に森三千代と室生犀星の仲人により結婚しました。1928年(昭和3)に妻とともに日本を脱出し、5年間の放浪を経て帰国、1937年(昭和12)に日本の現実を風刺し、戦争を痛烈に否定した詩集『鮫』を出して注目されます。
 1940年(昭和15)に、紀行文『マレー蘭印紀行』を刊行、戦時中は、抵抗の詩をひそかに書き続けました。太平洋戦争後、書き溜めたものを詩集『落下傘』、『蛾』(ともに1948年)、『鬼の児の唄』(1949年)として刊行、耳目を集めます。
 1954年(昭和29)に詩集『人間の悲劇』で第5回読売文学賞、1965年(昭和49)に詩集『IL(イル)』で第3回歴程賞、1971年(昭和46)に小説『風流尸解記』で第22回芸術選奨文部大臣賞受賞を受賞しました。その一方で、ボードレール「悪の華」やランボオ、アラゴンの詩集などを翻訳しましたが、1975年(昭和50)6月30日に、東京都武蔵野市の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなっています。

〇金子光晴の主要な著作

・処女詩集『赤土(あかつち)の家』(1919年)
・詩集『こがね虫』(1923年)
・詩集『水の流浪』(1926年)
・詩集『鮫(さめ)』(1937年)
・紀行文『マレー蘭印紀行』(1940年)
・詩集『落下傘』(1948年)
・詩集『蛾(が)』(1948年)
・詩集『女たちへのエレジー』(1949年)
・詩集『鬼の児の唄(うた)』(1949年)
・翻訳『ランボオ詩集』アルチュール・ランボー作(1951年)
・翻訳『アラゴン詩集』ルイ・アラゴン作(1951年)
・詩集『人間の悲劇』(1953年)読売文学賞受賞
・詩集『水勢』(1956年)
・詩集『IL(イル)』(1965年)第3回歴程賞受賞
・自伝小説『どくろ杯』(1971年)
・小説『風流尸解記』(1971年)第22回芸術選奨文部大臣賞受賞

☆金子光晴関係略年表

・1895年(明治28)12月25日 愛知県海東郡越治村(現:津島市下切町)の酒商だった父・大鹿和吉、母・里やうの三男として生まれる
・1897年(明治30) 父が事業に失敗し、名古屋市小市場町(現:中区錦三丁目)に転居する。土建業の清水組名古屋出張所主任だった金子荘太郎の養子となる
・1900年(明治33) 養父が京都出張所主任となったため、京都市上京区に転居する
・1902年(明治35)4月 銅駝尋常高等小学校尋常科に入学する
・1906年(明治39) 養父の東京本店転任にともない、一家は銀座の祖父宅に転居、泰明尋常高等小学校(現:中央区立泰明小学校)高等科に入学する
・1907年(明治40)6月 牛込新小川町に転居し、津久戸尋常小学校(現・新宿区立津久戸小学校に転校する
・1908年(明治41)4月、暁星中学校に入学する
・1914年(大正3)4月 早稲田大学高等予科文科に入学する
・1915年(大正4)2月 早稲田大学を中退する
・1915年(大正4)4月 東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科に入学する
・1915年(大正4)8月 東京美術学校を退学する
・1915年(大正4)9月 慶應義塾大学文学部予科に入学する
・1916年(大正5)6月 慶應義塾大学を中退する
・1916年(大正5)7月 石井有二、小山哲之輔らと同人誌『構図』を発行(2号で休刊)する
・1916年(大正5)10月 養父の荘太郎が死去したため、養父と財産を折半し放蕩生活を続ける
・1917年(大正6)  牛込区赤城元町に転居、中条辰夫と雑誌『魂の家』を発行(5号で休刊)する
・1918年(大正7)12月 養父の友人とともにヨーロッパ遊学に旅立つ
・1919年(大正8)1月 金子保和の名で処女詩集『赤土の家』(麗文社)を刊行する
・1920年(大正9)12月 ロンドンで帰国の船に乗る
・1921年(大正10)1月 ヨーロッパ旅行から帰国、同人誌『人間』等に詩を発表する
・1922年(大正11) 詩誌『楽園』(3号で休刊)の編集に携わる
・1923年(大正12)9月 関東大震災に遭い、名古屋の友人の実家に身を寄せる
・1924年(大正13)1月 東京に戻る
・1924年(大正13)7月 森三千代と室生犀星の仲人により結婚する
・1925年(大正14)3月 長男・乾が誕生する
・1926年(大正15)3月 夫婦で上海に1ヵ月ほど滞在し、魯迅らと親交をかわす
・1927年(昭和2) 国木田虎雄夫妻と上海に行き3ヶ月ほど滞在、横光利一とも合流して交流を深める
・1928年(昭和3) 小説『芳蘭』を第1回改造懸賞小説に応募したが、横光利一の支持を得たものの次点となり、これを機に小説から離れる
・1928年(昭和3)9月 アジア・ヨーロッパの旅に出発する
・1929年(昭和4) 上海で風俗画の展覧会を開いて旅費を調達し、香港へ渡る
・1930年(昭和5)1月 パリで三千代と合流し、額縁造り、旅客の荷箱作り、行商等で生計をつなぐ
・1931年(昭和6) パリを離れ、ブリュッセルのイヴァン・ルパージュのもとへ身を寄せる
・1932年(昭和7) 4ヶ月ほどマレー半島を旅行する
・1935年(昭和10)9月 『文藝』に「鮫」を発表する
・1937年(昭和12)12月 三千代と中国北部を旅行し、日本軍の大陸進出に対する認識を深くする
・1938年(昭和13)11月中旬 中国より帰国する
・1940年(昭和15)10月 『マレー蘭印紀行』(山雅房)を刊行する
・1943年(昭和18)12月 『マライの健ちゃん』(中村書店)を刊行する
・1946年(昭和21)3月、疎開先より吉祥寺に戻る、『コスモス』の同人となる
・1948年(昭和23) 詩集『落下傘』(日本未来派発行所)、詩集『蛾』(北斗書院)を刊行する
・1949年(昭和24) 三千代が関節リウマチに罹り、闘病生活を送る
・1950年(昭和25)6月 『かえれ湖』(文林社)を刊行する
・1951年(昭和26)6月 詩集『アラゴン詩集』訳(創元社)を刊行する
・1952年(昭和27)12月 詩集『人間の悲劇』(創元社)を刊行する
・1954年(昭和29)1月 『人間の悲劇』で第5回読売文学賞を受賞する
・1956年(昭和31)5月 詩集『水勢』(東京創元社)を刊行する
・1957年(昭和32)8月、自伝『詩人』(平凡社)を刊行する
・1959年(昭和34) 『日本人について』(春秋社)、『日本の芸術について』(春秋社)を刊行する
・1960年(昭和35)7月 書肆ユリイカより『金子光晴全集(全5巻)』の刊行が始まる
・1962年(昭和37)7月 『屁のような歌』(思潮社)を刊行する
・1964年(昭和39) 同人雑誌『あいなめ』に参加し、中心的存在となる 
・1965年(昭和49) 詩集『IL』(勁草書房)、『絶望の精神史』(光文社)を刊行する
・1967年(昭和42)  『日本人の悲劇』(富士書院)、詩集『若葉のうた』(勁草書房)、『定本金子光晴詩集』(筑摩書房)、『ランボオ詩集』(角川書店)を刊行する
・1968年(昭和43) 評論・随筆集『残酷と非情』(川島書店)、詩集『愛情69』(筑摩書房)、『作詩法入門』(久保書店)を刊行する
・1969年(昭和44)5月 軽い脳溢血により片腕が利かなくなり、2ヶ月ほど河北病院に入院する
・1971年(昭和46) 詩集『桜桃梅李』(虎見書房)、『どくろ杯』(中央公論社)、『新雑事秘辛』(濤書房)、『人非人伝』(大光社)、『風流尸解記』(青娥書房)を刊行する
・1972年(昭和47) 3月 『風流尸解記』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1975年(昭和50) 6月30日 武蔵野市吉祥寺本町の自宅で、気管支喘息による急性心不全により79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)の太平洋戦争後の占領下において、連合国最高司令官指令(SCAPIN)として、日本国政府に対して「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令された日です。
 「地理授業再開に関する覚書(ちりじゅぎょうさいかいにかんするおぼえがき)」は、連合国最高司令官指令(SCAPIN)として日本国政府に対して発せられた基本的施策を定める指示・訓令の一つでした。戦前の皇国史観が色濃い地理の教科書には、台湾や朝鮮、満州などの記載があり、当初はそのような記述のある箇所を黒く墨塗りにして削除させていましたが、1945年(昭和20)12月31日に指令された「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)で、授業そのものを停止させられ、教科書も回収させられています。
 それを修正し、この指令によって、文部省が作成し、連合国最高司令官が承認した教科書で、まず地理授業を再開するように指示したものでした。これに基づいて、文部省で新たに編集した暫定教科書によって、同年7月から国民学校(小学校)における地理授業は再開されています。
 しかし、修身については、公民という全く新しい科目が設置され、同年9月から公民科が課されることとなりました。また、同年10月12日には、「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)も出されて、同じ条件で日本史の授業の再開も許可され、同年10月から、文部省が作成した暫定教科書「くにのあゆみ」を使用して授業が再開されています。
 以下に、「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)の全文(英語)と日本語訳を掲載して得おきます。また、参考までに「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)の解説と日本語訳も付しておきます。

〇地理授業再開に関する覚書 (全文) (SCAPIN-1046) 1946年(昭和21)6月29日  

   AG 000.5 (29 June. 46) CIB          APO 500
   (SCAPIN-1046)                    29 June 1946

   MEMORANDUM FOR : IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT.
   THROUGH    : Central Liaison Office, Tokyo
   SUBJECT    : Reopening of School Courses in Geography.

1. Reference letter Imperial Japanese Government, Central Liaison office, C.L.O. No. 2833(PE), dated 12 June 1946, Subject:“Reoperening of School Courses in Geography”.

2. Permission is granted for the reopening of courses in Jeography in all educational institutions, including government, public and private schools, for which textbooks are published or sanctioned by the Ministry of Education, provided that in such courses only those textbooks prepared by the Ministry of Education and approved by General Headquarters, Supreme Commander for the Allied Powers, are used.

     FOR THE SUPREME COMMANDER:
                    /s/ JOHN b. COOLEY
                    JOHN b. COOLEY,
                    Colonel, AGD,
                    Adjutant General.

  「国立国会図書館デジタルコレクション」より
 
<日本語訳>

    AG 000.5(1946年6月29日)CIB            APO 500
    (SCAPIN-1046)                   1946年6月29日

    覚書:日本帝国政府
    経由:中央連絡事務所、東京。
    件名:地理学授業の再開。

1. 参照文書は日本帝国政府への中央連絡事務所(C.L.O)No.2833(PE)、1946年6月12日付け、件名:「地理学授業の再運営」。

2. 文部省によって発行または認可され、連合軍の最高司令官である総司令部によって承認された教科書によって、官立、公立および私立学校を含むすべての教育機関で、地理授業の再開が許可されます。

       最高司令官に代り
                  JOHN b. COOLEY (署名)
                  JOHN b. COOLEY
                  アメリカ合衆国海軍 大佐
                  総務

 ※英語の原文から訳しました。

☆「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)とは?

 太平洋戦争後の連合軍占領下において、1945年(昭和20)12月31日に、連合国軍最高司令部(GHQ)が出した指令(SCAPIN)で、正式には、「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)といい、といい、GHQ教育四大指令の一つとされています。が出されます。文部省に対し、すべてのコースおよび教育機関で使用されている終身科、国史科、地理科に関する教科書および教師用マニュアルをすべてを使用中止とするよう指示し、指令部の許可あるまで再開しないようにしたものでした。そして、代替用教科書の改定案を準備し、連合国最高司令官に提出することとしています。その後、翌年6月29日の「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-519)で地理科の再開を許可、10月12日の「日本史授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1266)で国史科の再開を許可していますが、文部省が作成し、連合国最高司令官が承認した教科書を使用することが条件とされました。

☆(参考)「修身、日本歴史及び地理停止に関する件」(SCAPIN-519)の日本語訳

(昭和二十年十二月三十一日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官第八号民間情報教育部ヨリ終戦連絡中央事務局経由日本帝国政府宛覚書)

一 昭和二十年十二月十五日附指令第三号国家神道及ビ教義ニ対スル政府ノ保障ト支援ノ撤廃ニ関スル民間情報教育部ノ基本的指令ニ基キ且日本政府ガ軍国主義的及ビ極端ナ国家主義的観念ヲ或ル種ノ教科書ニ執拗ニ織込ンデ生徒ニ課シカカル観念ヲ生徒ノ頭脳ニ植込マソガ為メニ教育ヲ利用セルニ鑑ミ茲ニ左ノ如キ指令ヲ発スル

(イ)文部省ハ曩ニ官公私立学校ヲ含ム一切ノ教育施設ニ於イテ使用スベキ修身日本歴史及ビ地理ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ発行シ又ハ認可セルモコレラ修身、日本歴史及ビ地理ノ総テノ課程ヲ直チニ中止シ司令部ノ許可アル迄再ビ開始セザルコト

(ロ)文部省ハ修身、日本歴史及ビ地理夫々特定ノ学科ノ教授法ヲ指令スル所ノ一切ノ法令、規則又ハ訓令ヲ直チニ停止スルコト

(ハ)文部省ハ本覚書附則(イ)ニ摘要セル方法ニ依リテ設置スル為メニ(一)(イ)ニ依リ影響ヲ受クベキアラユル課程及ビ教育機関ニ於テ用ヒル一切ノ教科書及ビ教師用参考書ヲ蒐集スルコト

(ニ)文部省ハ本覚書附則(ロ)ニ摘要セル措置ニ依リテ本覚書ニ依リ影響ヲ受クベキ課程ニ代リテ挿入セラルベキ代行計画案ヲ立テ之ヲ当司令部ニ提出スルコト之等代行計画ハ茲ニ停止セラレタル課程ノ再開ヲ当司令部ガ許可スル迄続イテ実施セラルベキコト

(ホ)文部省ハ本覚書附則(ハ)ニ摘要セル措置ニ依リ修身、日本歴史及ビ地理ニ用フベキ教科書ノ改訂案ヲ立テ当司令部ニ提出スベキコト

二 本指令ノ条項ニ依リ影響ヲ受クベキ日本政府ノ総テノ官吏、下僚、傭員及ビ公私立学校ノ総テノ教職員ハ本指令ノ条項ノ精神並ニ字句ヲ遵守スル責任ヲ自ラ負フベキコト

三 附則略

  「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日)詳細
1903年(明治36)作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌)詳細
1945年(昭和20)岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」に基づいて砲撃した、モリソン号事件が起きた日ですが、新暦では7月30日となります。
 モリソン号事件(モリソンごうじけん)は、日本人漂流民(音吉ら7人)を伴い、通商を求めて、マカオから浦賀沖に来航したアメリカ合衆国の商船モリソン(Morrison)号が、「異国船打払令」に従った浦賀奉行の砲撃を受け、さらに鹿児島湾に入港しようとして砲撃された事件でした。1837年(天保8)に、中国の広東のアメリカ商社オリファント商会は社船モリソン(Morrison)号で、日本人の海難船員のの7名(岩吉、久吉、音吉、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松)を日本に送還し、それを契機に日本との貿易とアメリカ海外宣教団の日本布教の端緒を開こうとします。マカオを出帆し、浦賀沖に至りましたが、「異国船打払令」に基づいて6月28、29日と砲撃され、やむなく鹿児島湾へ回航したものの、再び砲撃を受けて、引き返すことになりました。
 これに関わって、幕府の対外政策を批判して、渡辺崋山は『慎機論(しんきろん)』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語)』を著し、蛮社の獄を引き起こす原因となります。

〇蛮社の獄とは?

 江戸時代後期の1839年(天保10)に、江戸幕府により渡辺崋山、高野長英ら尚歯会の洋学者グループに加えられた言論弾圧事件でした。1837年(天保8)に、米船モリソン号が日本漂流民返還のため浦賀に来航した際、幕府が「異国船打払令」によって撃退した事件(モリソン号事件)に関わって、渡辺崋山は『慎機論』、高野長英は『夢物語 (戊戌夢物語) 』を書いて幕府の政策を批判します。これに対して、幕府は目付鳥居耀蔵らに命じて洋学者を弾圧し、無人島(小笠原島)密航を企てているとの理由で、渡辺崋山、高野長英らを逮捕したのですが、小関三英は逮捕の際に自殺しました。そして、幕政批判の罪により、同年12月、渡辺崋山には国許蟄居 (のち自殺) 、高野長英は永牢 (のち脱牢、自殺) などの判決が下されます。これによって、その後の洋学のあり方に大きな影響を与えることになりました。尚、「蛮社」は洋学仲間の意味である「蛮学社中」の略として使われていたものです。
<蛮社の獄で逮捕された主要な人物>
・渡辺崋山(田原藩年寄)47歳
・高野長英(町医者)36歳
・順宣(無量寿寺住職)50歳
・順道(順宣の息子)25歳
・山口屋金次郎(旅籠の後見人)39歳
・山崎秀三郎(蒔絵師)40歳
・本岐道平(御徒隠居)46歳
・斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣)66歳

☆渡辺崋山著『慎機論』とは?

 渡辺崋山が、1838年(天保9)10月15日に参加した、尚歯会の席上で近く漂流民を護送して渡来する英船モリソン号に対し、幕府が撃攘策をもって対応するといううわさを耳にし、これに反対して著したものです。しかし、途中で筆を折り、公開しなかったのですが、蛮社の獄の際、幕吏が渡辺崋山の自宅を捜索して発見し、断罪の根拠とされました。その内容は、頑迷な鎖国封建体制に対して、遠州大洋中に突き出した海浜小藩たる田原藩の藩政改革に関与する現実的政治家としての批判を中心にし、一方で海防の不備を憂えるなどしていたものです。

<『慎機論』抜粋>
 「我が田原は、三州渥美郡の南隅に在て、遠州大洋中に迸出し、荒井より伊良虞に至る海浜、凡そ十三里の間、佃戸農家のみにて、我が田原の外、城地なければ、元文四年の令ありしよりは、海防の制、尤も厳ならずんば有るべからず。然りといへども、兵備は敵情を審にせざれば、策謀のよって生ずる所なきを以て、地理・制度・風俗・事実は勿論、里港猥談・戯劇、瑣屑の事に至り、其の浮設信ずべからざる事といへども、聞見の及ぶ所、記録致し措ざる事なし。近くは好事浮躁の士、喋々息まざる者、本年七月、和蘭甲此丹莫利宋なるもの、交易を乞はむため、我が漂流の民七人を護送して、江戸近海に至ると聞けり。(中略)今天下五大州中、亜墨利加・亜弗利加・亜烏斯太羅利三州は、既に欧羅巴諸国の有と成る。亜斉亜州といへども、僅に我が国・唐山・百爾西亜の三国のみ。其の三国の中、西人と通信せざるものは、唯、我が邦存するのみ。万々恐れ多き事なれども、実に杞憂に堪ず。論ずべきは、西人より一視せば、我が邦は途上の遺肉の如し。餓虎渇狼の顧ざる事を得んや。もし英吉利斯交販の行はれざる事を以て、我に説て云はんは、『貴国永世の禁固く、侵すべからず。されども、我が邦始め海外諸国航海のもの、或ひは漂蕩し、或ひは薪水を欠き、或ひは疾病ある者、地方を求め、急を救はんとせんに、貴国海岸厳備にして、航海に害有る事、一国の故を以て、地球諸国に害あり。同じく天地を載踏して、類を以て類を害ふ、豈これを人と謂べけんや。貴国に於てはよく此の大道を解して、我が天下に於て望む所の趣を聞かん』と申せし時、彼が従来疑ふべき事実を挙て、通信すべからざる故を諭さんより外あるべからず。斯て瑣屑の論に落ちて、究する所、彼が貪□の名目生ずべし。西洋戎狄といへども、無名の兵を挙る事なければ、実に鄂羅斯・英吉利斯二国、驕横の端となるべし。」

☆高野長英著『夢物語 (戊戌夢物語)』とは?

 高野長英が1838年(天保9)に、夢に託して江戸幕府を批判した書物で、「戊戌夢物語」とも呼ばれています。同年10月15日に尚歯会の例会の席上で、勘定所に勤務する幕臣・芳賀市三郎が、評定所において進行中のモリソン号再来に関する答申案をひそかに聞き及び、このモリソン号事件を憂えて書かれ、夢の中で討議を聞いた婉曲な形式をとりました。内容は、イギリスの国勢の情報で、とくにアジア、中国への交易進出問題を取り上げ、鎖国下にある日本に対して漂流民送還を口実に開国を迫っている現状を述べて、これを撃退しようととする打払令がいかに無謀なものであるかを警告したものです。しかし、幕政批判の書として蘭学者弾圧の口実とされ、蛮社の獄の起因となりました。

<『夢物語 (戊戌夢物語)』抜粋>
「冬ノ夜ノ更行マゝニ、人語モ漸ク聞ヘ、履声モ稀ニ響キ、妻戸ニ響ク風ノ音スサマシク最物凄サニ、物思フ身ハ殊更眠リモヤラレス、独リ机ニ倚テ燈ヲ掲テ書ヲ讀ケルニ、夜イタク更ヌレハ、イツシカ眠ヲ催シ気モツカレ夢トナク幻トナク恍惚タル折節、或方ヘ招カレイト、廣キ座敷ニイタリケレハ、碩学鴻儒ト覚シキ人々数十人集會メイロイロ物語シ待ケル。
 其方中ニ甲ノ人乙ノ人ニ向テ云ケルハ。
 近来珍ラシキ噂ヲ聞ニ、英吉利国ノモリソント云モノ頭ト成テ、船ヲ仕出シ日本漂流人七人乗セ、江戸近海ニ船ヲ寄セ、是ヲ餌トシテ交易ヲ願フ由和蘭陀ヨリ申出ントナシ、抑英吉利国ト云フハ如何ナル国ニ候ヤ。
 乙ノ人答ケルハ、
 英吉利国ト申ス国ハ、阿蘭陀国王都アハステルタシムト申所ヨリ百八十里許モ隔リ、順風ノ時ハ一日夜位ニテモ通船イタス所ニテ、国之大サハ日本ホトモコレ有ヨシニ候ヘトモ、寒国ニテ人数ハ日本ヨリ少ク、總括シテ人口一千七百七十萬六千人ト申候。国人敏掟ニシテ事ヲ勉強シ怠惰セス、文学ヲ勤メ工技ヲ研究シ、武術ヲ練磨シ、民ヲ富シ、国ヲ彊クスルヲ先務ト仕候。海濱浅灘礁多ク、外冦入カタク候ニ付、近来歐羅巴大乱ノ時モ、英吉利ハ孤立シテ国民干戈ノ災ヲ免レ申候。
 国都ロンドント申所ハ、至テ繁昌ノ所ニテ、待坊美麗人戸稠蜜ニシテ、人口ノ凡百萬許モ居リ候。由海運ノ都合宜シキ所ニテ、専ラ諸方交易ヲ改メ諸国ニ航海仕リ不毛ヲ開キ人民ヲ蕃殖シ夷人ヲ教導シテ服従セシメ此節ニ至リテハ外国領分ノ人数ハ七千四百廿四萬人ト申候左候得ハ本国四倍ニモ至リ申候。其国々ノ名ハ、一ツハ北アメリカ南アメリカ西側ニ候。二ハ西印度ト名付テ南北アメリカノ間ノ嶋也。三ハアフリカ州ノ内ニテ天竺ノ西南ニ当ル。四ハ新阿蘭陀ト申テ日本極南ニアタリ。五ハアメリカト申候テフラシリト国名コイ子ア并カリホルニア邊ニテ、日本ノ東ニ当ル所也。六ハ又天竺ノ内モコル抔唱候国中ニテ、雲南邏羅ノ南ニテ、天竺ノ地ニ候。七ハ東天竺ト申テ、日本ノ近海南洋ノ諸嶌無人近所ヨリ南ノ嶌ニテ候。
 以上国々夫々役人共ヲ差向ケ支配イタサセ候故其者共ノ乗候船ハ軍船ニテ一船ニ石火矢四五十門モ備ヘ差ツカハシ候由ニテ、其船ノ数ハ二萬五千八百六十艘ト申候。其船ニノリ候上役人ハ、都合十七萬八千六百二拾人、下役人ハ四十萬六千人、水主コンロン等取集括百萬程モコレ有リ。誠ニ廣大ノ事ニ相聞申候。
 右故自然航海ノ術并水軍ニハ殊ノ外熟練仕リ、外国出張次第ニ廣大ニ相成、交易ノ道モ漸々旺盛ニ相成、五大州比駢無之様ニ相成候ニ付、諸方ノ者共是ヲ恐羨ミ申候由。
 支那ニモ前々ヨリ交易仕候ニ付、廣東側ニ地所ヲ給リ、商館ヲ営シ、總督并偖役人ヲ差遣シ置、年々南海諸島并アメリカ産物ヲ数十艘ニ積廣東ヘ輸送イタシ、専ラ茶ト交易仕候、右ヲ本国ヘ送リ候。事ニナシ然ル處イキリスハ雲南邏羅辺ニ領分所有リテ支那ノ属国ニ界ヲ接シ候ニ付、邊民共擾乱仕リ堺ヲ越互ニ闘争接戰仕事時々有之候。故支那人イギリス人ヲ疎ミ申候。
 加フルニホルトカル即日本ノ南蛮ト唱ル国ナリ、阿蘭人廣東ヘ同様交易仕候ニ付、イキリスノ交易盛ニ相成候ヘハ、自然ト自己ノ衰微ニモ相成候。故イロイロ讒言ヲ搆種々誹謗仕候ニ付、元ヨリホルカル和蘭陀ハ、清朝革命ノ此大功モコレ有リ、夫ニ廣ク地面ヲ給リ外ナラヌ親愛ヲ受候モノ儀ニ付、右讒ヲ信シ猶々イキリスハ忌憚ラレ、交易物取捌キ方モ不宜、既ニ乾隆年中ノ比ハ貸ノミ日ニ増シ、崇ク相成交易方立行不申候。ヤウニ至リ候依之本国ニテモイロイロ評議イタシ、以来廣東交易方相休メ候方可然抔申候説モ有之候処、近来イキリスニテ茶殊ノ外流行仕人々相用候儀ニ付支那交易相休メ候得ハ人々迷惑ニ相成、且又イキリス領南海諸嶌天竺及アメリカ辺茶モ多クコレ有レトモ其品支那ニハ遥ニ劣リ其上沢山ニハ産シ不申候、交易相休候事何ハ成カタク、尚亦評議致候處右交易方不取捌儀ハ廣東下役人ノ所為ニテ全ク支那ノ意ニ出ルニハコレ無キヤウ存シシラレ候ニ付、其時嘉慶帝誕生有之間右誕生ヲ賀シ貢物ヲ数多北京ニ呈シ候ヲ名トシテ使節ヲ遣シ直ニ帝ヘ愁訴仕候方可然ト申事ニ一決シ、本国ヨリ人物ヲ撰シコルトマカルテ子リト申者其撰ニ当ル正使ニ仕リ、天文地理医術物産ハ未熟ノ由ニ存、右熟練仕候者ヲ撰ミ同船為仕、右ニ関係仕ル書籍ハ勿論諸器諸物ニ至ルマテ一切相整、其餘支那通用ノ者モ相撰ミ、正使副使ノ船各一艘、兵船案内船一艘、都合四艘ニテ本国ヨリ乗出シ、其序日本朝鮮ヘモ交ヲ結度、国王ノ書簡ヲ相遣候由。右ニテ廣東交易ノ儀宜シク相成候。ヤヤ近来ニテハ、廣東ニ有之候西洋諸国ノ商館ノ内、イキリス尤大ニ相聞ヘ申候。(後略)」

    ※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1875年(明治8)新聞紙条例」と「讒謗律」が発布される詳細
1948年(昭和23)福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出す 詳細
1951年(昭和26)小説家林芙美子の命日(芙美子忌)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1936年(昭和11)に、小説家・児童文学者鈴木三重吉の亡くなった日です。
 鈴木三重吉(すずき みえきち)は、1882年(明治15)9月29日 に、広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町)で、父・鈴木悦二、母・ふさの三男として生まれました。1891年(明治24)の9歳の時に、母・ふさが亡くなり、1896年(明治29)に広島県広島尋常中学校(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)に入学、1897年(明治30)の15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号に掲載されます。
 第三高等学校を経て、1901年(明治34)に東京帝国大学文科大学英文学科に入学、夏目漱石の講義を受けましたが、1905年(明治38)の23歳の時、神経衰弱を煩って休学し、静養のため広島県佐伯郡能美島(現在の江田島市)で過ごしました。1906年(明治39)に短編小説『千鳥』を完成させ、夏目漱石の推薦を得て、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載され、上京して大学に復学し、漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」にも参加します。
 1907年(明治40)に小説『山彦』が「ホトトギス」1月号に掲載され、小説『千代紙』を出版、1908年(明治41)には、東京帝国大学文科大学文学科を卒業しました。1908年(明治41)に成田中学校の教頭として赴任、英語を担当、1910年(明治43)に「国民新聞」で、長編小説『小鳥の巣』の連載を開始、翌年には、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となります。
 その後、活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や『返らぬ日』、『お三津さん』などを出版、1913年(大正2)には、中央大学の講師となりました。1913年(大正2)に「国民新聞」に長編小説『桑の実』の連載を開始、1915年(大正4)には、『三重吉全作集』の刊行を始めましたが、1915年(大正4)の「中央公論」への『八の馬鹿』の発表後、行き詰まりを自覚し、小説の筆を折ります。
 1916年(大正5)の長女すずの誕生を契機に、児童文学作品を手掛けるようになり、翌年から『世界童話集』の刊行を開始しました。1918年(大正7)に児童文学誌『赤い鳥』を創刊、海城中学を辞職、中央大学を休職し、本格的に児童文学に力を入れ始め、泉鏡花、小山内薫、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、徳田秋声、野上弥生子、小川未明、有島武郎ら当時を代表する文学者の参加を得、北原白秋、西条八十、野口雨情の詩の作曲を山田耕筰に依頼、坪田譲治、新美南吉、与田準一、山本鼎を世に送り出すなど、童話、童謡、童画、綴方運動を展開します。
 1935年(昭和10)に『綴方読本』を刊行しましたが、1936年(昭和11)に病状が悪化し、東京帝国大学附属病院へ入院、6月27日には、肺がんのため、53歳で亡くなりました。尚、同年10月に、『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』が刊行されています。

〇「赤い鳥」とは?

 大正時代の1918年(大正7)7月1日に、児童文化運動を展開すべく鈴木三重吉が創刊・主宰した子供向け文芸月刊誌(赤い鳥社発行)で、芸術性豊かな童話、童謡の創造を目指していました。泉鏡花、小山内薫、芥川龍之介、北原白秋、島崎藤村、徳田秋声、野上弥生子、小川未明、有島武郎ら当時を代表する文学者の参加を得て、大正以後の児童文学発展に貢献し、1920年(大正9)には、最大発行部数3万部に及びます。その中で、坪田譲治、新美南吉、与田準一らの童話・童謡作家も育てます。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』『杜子春』、有島武郎の『一房の葡萄』、宇野浩二の『蕗の下の神様』、小川未明の『月夜と眼鏡』などの創作童話、日本初の童謡「かなりや」(西條八十作詩・成田為三作曲)や「からたちの花」(北原白秋作詞・山田耕筰作曲)などの童謡、清水良雄、鈴木淳、深沢省三などの童画、久保田万太郎、秋田雨雀らの童話劇が掲載されて、大きな影響を与えました。また、鈴木三重吉、北原白秋、山本鼎が綴方(つづりかた)、児童自由詩、児童画を指導し、子供たち自身の作り出す創作文化としての発展を見て、昭和時代には、「生活綴方運動」を生み出す基盤となります。しかし、1936年(昭和11)6月27日の鈴木三重吉の死後、同年10月の「三重吉追悼号」まで、創刊から196冊の発行を以って、廃刊となりました。尚、1984年(昭和59)に日本童謡協会は『赤い鳥』が創刊された7月1日を「童謡の日」と定めています。
<主要な掲載作品>
[童話]
・「蜘蛛の糸」(芥川龍之介)
・「杜子春」(芥川龍之介)
・「犬と笛」(芥川龍之介)
・「魔術」(芥川龍之介)
・「アグニの神」(芥川龍之介)
・「一房の葡萄」(有島武郎)
・「河童の話」(坪田譲治)
・「いたずら人形の冒険」(佐藤春夫)
・「実さんの胡弓」(佐藤春夫)
・「月夜と眼鏡」(小川未明)
・「天下一の馬」(豊島与志雄)
・「天狗笑」(豊島与志雄)
・「蕗の下の神様」(宇野浩二)
・「お馬」(鈴木三重吉)
・「ぽっぽのお手帳」(鈴木三重吉)
・「ごん狐」(新美南吉)
・「正坊とクロ」(新美南吉)
[童謡]
・「からたちの花」(北原白秋作詞・山田耕筰作曲)
・「赤い鳥小鳥」(北原白秋作詞・成田為三作曲)
・「あわて床屋」(北原白秋作詞・山田耕筰作曲)
・「かなりや」(西條八十作詞・成田為三作曲)

〇鈴木三重吉の主要な著作

・短編小説『千鳥』(1906年)
・小説『山彦』(1907年)
・小説『お三津さん』(1907年)
・長編小説『瓦』(1911年)
・長編小説『桑の実』(1913年)
・小説『八の馬鹿』(1915年)
・童話集『湖水の女』(1916年)
・『世界童話集』(1917~26年)
・再話『古事記物語』(1920年)

☆鈴木三重吉関係略年表

・1882年(明治15)9月29日 広島県広島市猿楽町(現、中区紙屋町)で、父・鈴木悦二、母・ふさの三男として生まれる
・1889年(明治22) 本川小学校に入学する
・1891年(明治24) 9歳の時に、母・ふさが亡くなる
・1893年(明治26) 11歳の時に、第一高等小学校に入学する
・1896年(明治29) 広島県広島尋常中学校(現在の広島県立広島国泰寺高等学校)に入学する
・1897年(明治30) 15歳の時に書いた『亡母を慕ふ』が、「少年倶楽部」4月号に、『天長節の記』が「小国民」9年2号に掲載される
・1901年(明治34) 第三高等学校を経て、東京帝国大学文科大学英文学科に入学する
・1905年(明治38) 23歳の時、神経衰弱を煩って休学し、静養のため広島県佐伯郡能美島(現在の江田島市)で過ごす
・1906年(明治39)3月 短編小説『千鳥』を完成させ、夏目漱石の推薦を得て、雑誌「ホトトギス」5月号に掲載される
・1906年(明治39)4月~7月頃 広島市内の私立中学の講師となる
・1906年(明治39)9月 上京して大学に復学し、漱石門下となり、漱石宅での「木曜会」に参加する
・1907年(明治40)1月 小説『山彦』が「ホトトギス」1月号に掲載される
・1907年(明治40)4月 小説『千代紙』を俳書堂より出版する
・1908年(明治41) 東京帝国大学文科大学文学科を卒業する
・1908年(明治41)7月 父・悦二が亡くなる
・1908年(明治41)10月 成田中学校の教頭として赴任、英語を担当する
・1910年(明治43)3月 「国民新聞」で、長編小説『小鳥の巣』の連載を開始する
・1911年(明治44) 29歳の時、成田中学校を退職し上京、海城中学校の講師となる
・1911年(明治44)5月 ふぢと結婚する
・1912年(明治45) 活発な創作活動により、雑誌への作品掲載や、『返らぬ日』『お三津さん』などを出版する
・1913年(大正2)4月 中央大学の講師となる
・1913年(大正2)7月 「国民新聞」に長編小説『桑の実』の連載を開始する
・1915年(大正4)3月 『三重吉全作集』の刊行を始める
・1915年(大正4)4月 「中央公論」へ『八の馬鹿』を発表する
・1916年(大正5) 34歳の時、河上らくとの間に、長女すずが生まれる
・1916年(大正5)7月 妻ふぢが亡くなる
・1917年(大正6)4月 『世界童話集』の刊行を開始する
・1918年(大正7)1月 長男珊吉が生まれる
・1918年(大正7)6月 児童文学誌『赤い鳥』(7月号)を創刊する
・1918年(大正7)9月 海城中学を辞職、中央大学を休職し、本格的に児童文学誌『赤い鳥』に力を入れ始める
・1921年(大正10)10月 39歳の時に、小泉はま(濱)と再婚する
・1928年(昭和3) 46歳の時、乗馬による少年の精神教育を主旨とした騎道少年団を設立する
・1929年(昭和4)3月 児童文学誌『赤い鳥』を休刊する
・1931年(昭和6)1月 児童文学誌『赤い鳥』を復刊する
・1935年(昭和10) 53歳の時、山梨県小淵沢にて『綴方読本』の執筆にとりかかる
・1935年(昭和10)10月頃 喘息のため病床に臥す
・1935年(昭和10)12月 『綴方読本』を刊行する
・1936年(昭和11)6月24日 病状が悪化し、東京帝国大学附属病院真鍋内科へ入院する
・1936年(昭和11)6月27日 肺がんのため、53歳で亡くなる
・1936年(昭和11)10月 『赤い鳥 鈴木三重吉追悼号』が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・評論家・翻訳家・英文学者阿部知二の生まれた日です。
 阿部知二(あべ ともじ)は、岡山県勝田郡湯郷村(現在の美作市)で、中学校教師であった父・阿部良平、母・もりよの次男として生まれました。父の転勤により、生後2ヶ月で島根県大社町に移り、さらに9歳のとき姫路市坊主町に転居し、1916年(大正5)に旧制姫路中学(現在の姫路西高校)へ入学しましたが、兄の影響で文学に親しみます。
 第八高等学校を経て、1923年(大正13)に東京帝国大学英文科へ入学し、翌年に久坂栄二郎、船橋聖一らと文芸部の雑誌「朱門」を刊行、処女小説『化生』を発表しました。1927年(昭和2)に卒業後、翌年に船橋聖一らと「文芸都市」の同人となり、1930年(昭和5)には、短編『日独対抗競技』、『白い士官』を発表し、認められます。
 同年、『主知的文学論』1934年(昭和9)に『メルヴィル』と評論集を刊行、1936年(昭和11)には、長編小説『冬の宿』で第10回文学界賞を受賞し、作家としての地位を確立ました。『幸福』(1937年)、『北京』(1938年)、『風雪』(1938~39年)などの長編小説で、ヒューマニズムの立場から青春と知識人の内面を描き、多くの読者を獲得します。
 1941年(昭和16)に徴用令を受け陸軍報道班員となり、南方へ赴き、帰国してからは、1943年(昭和18)に東北大学英文科講師となりました。太平洋戦争後は、長編小説『黒い影』、『おぼろ夜の話』(1949年)などで敗戦後の知的青年の苦悶を描き、1953年(昭和28)に「群像」に発表した長編小説『人工庭園』は、翌年木下恵介監督により「女の園」として、映画化されます。
 一方で、1953年(昭和28)にメーデー事件特別弁護人を務め、1964年(昭和39)に青野季吉らと安保改定反対声明を出し、1965年(昭和40)には、中野好夫らとベトナム反戦の統一行動を提起するなど、反動的な流れに進歩革新の側から抗しようとする態度を貫きました。シャーロック・ホームズシリーズや『シートン動物記』など多彩な翻訳も手がけ、各種評論も書きましたが、1973年(昭和48)4月23日に、東京において、69歳で亡くなっています。

〇阿部知二の主要な著作

・短編『日独対抗競技』(1930年)
・短編『白い士官』(1930年)
・短編集『恋とアフリカ』(1930年)
・短編集『海と愛撫』(1930年)
・評論集『主知的文学論』(1930年)
・評論集『メルヴィル』(1934年)
・長編小説『冬の宿』(1936年)第10回文学界賞受賞
・長編小説『幸福』(1937年)
・長編小説『北京』(1938年)
・長編小説『風雪』(1938~39年)
・長編小説『街』(1939年)
・評論集『文学論』(1939年)
・翻訳書『白鯨』メルビル作(1941~55年)
・長編小説『黒い影』(1949年)
・長編小説『おぼろ夜の話』(1949年)
・評論集『ヨーロッパ紀行』(1951年)
・翻訳書『二都物語』ディケンズ作(1951年)
・翻訳書『ロビンソン・クルーソー』デフォー作(1952年)
・長編小説『人工庭園』(1953年)
・長編小説『日月の窓』(1957~58年)
・長編小説『おぼろ月夜』(1959年)
・翻訳書『シャーロック・ホームズの冒険』コナン・ドイル作(1960年)
・長編小説『白い塔』(1961~62年)
・評論集『世界文学の流れ』(1963年)
・翻訳書『シートン動物記』全5巻(1965年)
・翻訳書『旧約聖書物語』ウォルター・デ・ラ・メア作(1971年)第18回サンケイ児童出版文化賞受賞
・長編小説『捕囚』未完(1971~73年)

☆阿部知二関係略年表

・1903年(明治36)6月26日 岡山県勝田郡湯郷村(現在の美作市)で、父・阿部良平、母・もりよの次男として生まれる
・1903年(明治36)8月 生後2ヶ月で島根県大社町に移る
・1913年(大正2) 9歳のとき姫路市坊主町に移る
・1916年(大正5) 旧制姫路中学(現・姫路西高校)へ入学する
・1920年(大正9) 旧制姫路中学を4年で修了し、第八高等学校へ進む
・1923年(大正13) 第八高等学校を卒業し、東京帝国大学英文科へ入学する
・1924年(大正14) 久坂栄二郎、船橋聖一らと「朱門」を刊行、処女小説『化生』を発表する
・1927年(昭和2) 東京帝国大学英文科を卒業する
・1928年(昭和3) 船橋聖一らと「文芸都市」の同人となる
・1930年(昭和5) 短編『日独対抗競技』、『白い士官』を発表し、認められる
・1934年(昭和9) 評論集『メルヴィル』を刊行する
・1936年(昭和11) 長編小説『冬の宿』で第10回文学界賞を受賞する
・1941年(昭和16) メルビル作『白鯨』を初めて翻訳、徴用令を受け陸軍報道班員となる
・1942年(昭和17) 台湾、インドシナ、ジャワ、バリ島へ赴く 
・1943年(昭和18) 東北大学英文科講師となる 
・1953年(昭和28) 長編小説『人工庭園』を「群像」に発表、メーデー事件特別弁護人を務める
・1954年(昭和29) 『人工庭園』が「女の園」として木下恵介監督により、映画化される
・1964年(昭和39) 青野季吉らと安保改定反対声明を出す
・1965年(昭和40) 中野好夫らとベトナム反戦の統一行動を提起する
・1971年(昭和46) 翻訳書『旧約聖書物語』で第18回サンケイ児童出版文化賞を受章する
・1973年(昭和48)4月23日 東京において、69歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1833年(天保4)長州藩士・政治家木戸孝允(桂小五郎)の誕生日(新暦8月11日)詳細
1945年(昭和20)「国際連合憲章」に52ヶ国が署名する詳細
1968年(昭和43)小笠原返還協定」が発効し、小笠原諸島がアメリカから日本に返還される詳細
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