今日は、江戸時代中期の1761年(宝暦11)に、江戸幕府第9代将軍徳川家重の亡くなった日ですが、新暦では7月13日となります。
徳川家重(とくがわ いえしげ)は、1711年(正徳元年12月21日)に、江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男(母は側室・大久保氏)として生まれましたが、幼名は長福丸と言いました。1716年(享保元年8月13日)に、父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となり、江戸城へ入ります。
1724年(享保9)に将軍後継者となり、1725年(享保10)には、従二位・権大納言に叙任され、元服して家重と名乗りました。1737年(元文2)に長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれ、1745年(延享2)には、次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれます。
生来虚弱のうえ、さらに健康を害して、言語も不明瞭となりましたが、父・吉宗の隠居により、同年11月2日に、正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となりました。しかし、父が大御所として実権を握り続けます。
1751年(寛延4)に、父・吉宗が亡くなると、独自の政策として、1753年(宝暦3)に薩摩藩に木曽川改修を命じ(宝暦治水)、翌年には「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和するなどしました。1755年(宝暦5)の凶作がきっかけで、一揆が続発、翌年に大岡忠光を側用人に登用して、重用したものの、1758年(宝暦8)には宝暦事件が起きています。
同年に、次男・重好に清水門内に邸地を与え(のちの清水徳川家のはじまり)、徳川姓を許し、御三卿体制を整えましたが、1760年(宝暦10)には将軍を辞し、長男(家治)が第10代将軍となり、大御所と称しました。ところが、翌年6月12日には、江戸城内において、数え年51歳で亡くなり、正一位・太政大臣が追贈されています。
〇徳川家重関係略年表(日付は旧暦です)
・1711年(正徳元年12月21日) 江戸赤坂の紀州藩邸で、紀州徳川家第5代藩主徳川吉宗(のちの第8代将軍)の長男として生まれる
・1716年(享保元年8月13日) 父・吉宗が江戸幕府代8代将軍となる
・1724年(享保9年11月15日) 将軍後継者となる
・1725年(享保10年4月9日) 従二位・権大納言に叙任。元服して家重と名乗る
・1731年(享保16年12月) 比宮増子と結婚する
・1737年(元文2年5月22日) 長男・竹千代(のちの第10代将軍家治)が生まれる
・1741年(寛保元年8月7日) 右近衛大将を兼任する
・1745年(延享2年2月15日) 次男・萬二郎(のちの清水徳川家の初代当主)が生まれる
・1745年(延享2年11月2日) 正二位・内大臣に昇叙転任し、江戸幕府第9代将軍となる
・1751年(寛延4年6月20日) 父・徳川吉宗が亡くなる
・1753年(宝暦3年) 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1754年(宝暦4年) 「宝暦の勝手造り令」を出し、酒造統制の規制を緩和する
・1755年(宝暦5年) 凶作がきっかけで、一揆が続発する
・1756年(宝暦6年) 大岡忠光を側用人に登用する
・1758年(宝暦8年) 宝暦事件が起こる
・1758年(宝暦8年) 次男・重好に清水門内に邸地を与える(のちの清水徳川家のはじまり)
・1760年(宝暦10年2月4日) 右大臣に転任する
・1760年(宝暦10年4月1日) 征夷大将軍を辞し、長男(家治)に家督を譲る
・1760年(宝暦10年4月26日) 側用人大岡忠光が亡くなる
・1760年(宝暦10年9月2日) 長男(家治)が第10代将軍の宣下を受ける
・1761年(宝暦11年6月12日) 江戸城において、数え年51歳で亡くなる
・1761年(宝暦11年7月24日) 贈正一位・太政大臣となる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1867年(慶応3) | 坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日) | 詳細 |
1910年(明治41) | 本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船(宇高連絡船)が運航開始する | 詳細 |
1965年(昭和40) | 家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される | 詳細 |