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 今日は、室町時代の1488年(長享2)に、加賀一向一揆が対立していた守護・富樫政親を高尾城に攻めて自刃させ(長享一揆)、以後約1世紀にわたって加賀国支配を開始した日ですが、新暦では7月17日となります。
 長享一揆(ちょうきょういっき)は、加賀一向一揆と守護・富樫政親が戦い、1488年(長享2年6月9日)に、一揆勢が高尾城を攻めて政親を自刃させ、加賀一国支配を開始する端緒となった戦いでした。1471年(文明3年)から蓮如が吉崎(現在の福井県あわら市)に滞在・布教し、浄土宗派を統轄、大きな門徒集団を形成したのを背景に、1473年(文明5年)には、加賀での公的認可を条件に、富樫政親の要請を受け、加賀守護富樫家の家督争いに介入するようになります。
 翌年には、高田専修寺派と結ぶ政親の弟・幸千代を倒(文明一揆)し、政親に協力した国人層は連合組織「郡」を結成、勢力を伸長・確立していきました。しかし政親は、文明一揆の際に交わした約束「一向宗を保護する」を反故にして、一転弾圧に踏み切り、戦いに発展します。
 1488(長亨2年5月)に、本願寺門徒などの反政親勢力が挙兵、同年5月26日に将軍義尚が越前朝倉孝景などに政親への援軍派遣を命令したものの、同年6月9日に、高尾城が攻められ、富樫政親が自刃して滅びました。代わりに富樫泰高が守護に擁立されましたが、名目的なもので、本願寺門徒による自主管理の体制が確立され、以後約1世紀にわたって、「百姓の持ちたる国」といわれる門徒領国を成立させます。
 この状態は、1580年(天正8)に、織田軍の柴田勝家によって、尾山御坊(金沢御堂)の陥落によって、ほぼ平定されるまで続きました。

〇加賀一向一揆関係略年表(日付は旧暦です)

・1471年(文明3年) 蓮如が吉崎に滞在し、浄土宗派を統轄する
・1473年(文明5年) 加賀一向一揆が加賀守護富樫家の家督争いに介入する
・1474年(文明6年) 加賀一向一揆が富樫幸千代を倒す(文明一揆)
・1475年(文明7年) 富樫政親と戦う
・1475年(文明7年) 蓮如が吉崎を離れる
・1488年(長享2年6月9日) 加賀一向一揆が、富樫政親を高尾城に滅ぼす(長享一揆)
・1506年(永正3年) 一向一揆を抑圧する周辺諸国への進撃を行って失敗する(永正の一揆)
・1531年(享禄4年) 大小一揆と呼ばれる内紛が起こり、多くの一門衆やこれに従った国人衆が粛清される
・1546年(天文15年) 尾山御坊(金沢御堂)が建設される
・1555年(弘治元年) 朝倉氏と争う
・1564年(永禄7年) 朝倉氏と争う
・1572年(元亀3年) 杉浦玄任を総大将とする一揆勢が上杉軍と数ヶ月に渡って激突する
・1580年(天正8年) 織田軍の柴田勝家によって、尾山御坊(金沢御堂)の陥落によって、ほぼ平定される
・1582年(天正10年) 鳥越城に拠って最後まで戦った門徒が織田方の佐久間盛政によって鎮圧され、三百余人が捕らえられて磔刑に処される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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