今日は、平安時代中期の980年(天元3)に、第66代の天皇とされる一条天皇が生まれた日ですが、新暦では7月15日となります。
一条天皇(いちじょうてんのう)は、京都において円融天皇の第1皇子(母は藤原兼家の娘・詮子)として生まれましたが、名は懐仁(やすひと)と言いました。984年(永観2)に5歳で立太子し、同年6月23日に、花山天皇の譲位を受けて、第66代とされる天皇として即位、藤原兼家を摂政とします。
990年(永祚2)に元服しましたが、同年に兼家は出家し、藤原道隆を関白・摂政とし、その娘の定子を中宮としました。991年(正暦2)に、父・円融天皇が亡くなり、996年(長徳2)には、道隆が亡くなり、藤原道兼を関白としたものの、その直後疫病で死去し、代わって藤原道長に内覧の宣旨を下します。
999年(長保元)に道長の娘の彰子を女御とし、翌年には中宮として、一帝二后の先例を開きました。一条天皇は道長と協調して政治を行ったとされますが、道長の専権は著しく、藤原氏の全盛期を作り出し、荘園の増加による律令制の衰微を招きます。
一方、文人、貴族、僧、武士など各界で人材が輩出し、宮廷文化が栄華を極め、特に女流文学が栄え、紫式部、清少納言などが活躍しました。天皇自身も才学豊かで笛の名手であり、漢詩にすぐれ、『本朝麗藻』などに作品を残し、和歌も『後拾遺和歌集』集初後、勅撰集に8首入集しています。
しかし、1011年(寛弘8)に病を得て、皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位し、太上天皇となり、6日後に出家したものの、同年6月22日に京都において、数え年32歳で亡くなり、陵墓はの円融寺北陵(現在の京都市右京区)とされました。
<代表的な歌>
・「これをだに 形見と思ふを 都には 葉がへやしつる 椎柴の袖」(後拾遺和歌集)
・「野べまでに 心一つは 通へども わが御幸とは 知らずやありけむ」(後拾遺和歌集)
・「くらき夜の 雨にたぐひて 散る花を 春のみぞれと 思ひつるかな」(続古今和歌集)
・「秋風の 露の宿りに 君をおきて 塵をいでぬる ことぞ悲しき」(新古今和歌集)
〇一条天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・980年(天元3年6月1日) 京都において円融天皇の第1皇子(母は藤原兼家の娘・詮子)として生まれる
・984年(永観2年8月) 5歳で立太子する
・986年(寛和2年6月23日) 花山天皇の譲位を受けて、第66代とされる天皇として即位、藤原兼家を摂政とする
・990年(永祚2年1月) 元服する
・990年(永祚2年5月) 兼家は出家し、道隆を関白・摂政とする
・990年(永祚年10月) 道隆女定子を中宮とする
・991年(正暦2年2月12日) 父・円融天皇が亡くなる
・996年(長徳2年4月) 道隆が亡くなる
・996年(長徳2年5月) 道兼を関白としたが、道兼はその直後疫病で死去し、代わって道長に内覧の宣旨を下す
・999年(長保元年) 道長の娘彰子を女御とする
・1000年(長保2年) 道長の娘彰子を中宮とする
・1002年(長保3年閏12月22日) 母・詮子が亡くなる
・1011年(寛弘8年6月13日) 病を得て、皇太子居貞親王(三条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1011年(寛弘8年6月19日) 出家する
・1011年(寛弘8年6月22日) 京都において、数え年32歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1837年(天保8) | 生田万の乱が失敗し、国学者生田万が自刃する(新暦7月3日) | 詳細 |
1875年(明治8) | 日本初の気象台「東京気象台」が設置され、気象と地震の観測が開始される(気象記念日) | 詳細 |
1957年(昭和32) | 「自然公園法」が制定される | |