ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年05月

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、日本文学報国会(会長:徳富蘇峰)が設立された日です。
 日本文学報国会(にほんぶんがくほうこくかい)は、大政翼賛会文化部が文部省と情報局との協力のもと、太平洋戦争翼賛のために、文学者を網羅する社団法人として設立されました。この日の創立総会では、内閣情報局次長によって、常任理事に久米正雄、中村武羅夫、理事に長与善郎ら16名が指名され、8つの部会(小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学)を設け、小説は徳田秋声部会長・白井喬二幹事長・菊池寛理事、劇文学は武者小路実篤部会長・久保田万太郎幹事長・山本有三理事、評論随筆は高島米峰部会長・河上徹太郎幹事長・河上徹太郎理事、詩は高村光太郎部会長、西條八十幹事長・佐藤春夫理事、短歌は佐佐木信綱部会長・土屋文明幹事長・水原秋桜子理事、俳句は高浜虚子部会長・富安謙次幹事長・前田雀郎[川柳]理事、国文学は橋本進吉部会長・久松潜一幹事長・折口信夫理事、外国文学は茅野蕭々部会長、中野好夫幹事長・辰野隆理事が指名(翌年5月22日に漢詩・漢文部会が設置され、市村瓊次郎部会長・沢田総清幹事長が指名)されます。
 さらに、6月18日の発会式では、徳富蘇峰が会長となり、戦時下における文学者の決意宣誓があって、内閣情報局第5部3課の指導監督を受ける政府の外郭団体として、約3,100名を擁して発足しました。機関紙『文学報国』が発行され、3回(1942年11月、1943年8月、1944年11月)にわたる大東亜文学者大会の開催、文芸報国講演、傷病兵慰問文芸運動などを行い、また、『国民座右銘』(評論随筆部会)、『愛国百人一首』(短歌部会)選定、『大東亜戦詩集・歌集』編纂、『辻小説』・『辻詩集』製作、古典作家の顕彰祭などを行ないます。
 初め参加をためらっていた者も後には作品発表の場を失う結果を恐れて加わり、会員であることが文学者の資格であるような観を呈したものの、一部不参加を貫いた文学者もいました。文学を通しての国策宣伝、戦争協力を目的としてきましたが、太平洋戦争後の1945年(昭和20)8月31日に解散しています。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

869年(貞観11)陸奥国で貞観地震が起き、大津波により甚大な被害を出す(新暦7月9日)詳細
1969年(昭和44)東名高速道路が全線開通する(東名高速道路全線開通記念日)詳細
1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の1654年(承応3)に、第112代の天皇とされる霊元天皇の生まれた日ですが、新暦では7月9日となります。
 霊元天皇(れいげんてんのう)は、京都において、後水尾天皇の第19皇子(母は藤原国子)として生まれましたが、名は識仁(さとひと)と言いました。1658年(万治元)に親王宣下され、1662年(寛文2)に9歳で元服、翌年には、第112代とされる天皇として即位しましたが、父が院政を敷きます。
 1669年(寛文9)に武家伝奏正親町実豊らの排除を画策、1671年(寛文11)には、側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こすなどしました。1680年(延宝8)に父・後水尾法皇が亡くなり、政務を司ることとなり、近習衆による自己を中心とした朝廷再編を目指したため幕府の干渉を招くこととなります。
 1687年(貞享4)に皇太子朝仁親王(東山天皇)に譲位しましたが、仙洞御所に入って院政を敷き、1690年(元禄3)に近衛基煕が関白に就任すると、その権限は制限され再び朝幕協調の時代となりました。1694年(元禄7)に東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言したものの、1709年(宝永6)に東山上皇が急逝し、近衛基熈も太政大臣を辞任すると、院政が再開されます。
 1713年(正徳3)に剃髪して、法名を素浄とし、1721年(享保6)に初めて修学院離宮御幸が行われ、以後春秋遊幸の地とされました。英明剛毅で学問を好み、和歌や漢詩、書道、絵画を能くし、特に歌道では側近公家を中心に霊元院歌壇を形成、歌集『桃蘂集』、歌論書『一歩抄』、『修学院御幸宸記』などの著作も成します。
 しかし、1732年(享保17年8月6日)に京都において、数え年78歳で亡くなり、墓所は京都泉涌寺内の月輪陵とされました。

<代表的な歌>

・「名ある者は やがて雲井に 聞えあげよ 聞きて我が代の 楽にせむ」(霊元院御集)
・「待つほどは つれなくみえし 山のはも 月の麓に とほざかりつつ」
・「夢枕 むすぶ契りの はかなきに みやこへいざと いかでさそはん」

〇霊元天皇の主要な著作

・歌集『桃蘂集』
・歌論書『一歩抄』
・『修学院御幸宸記』
・『霊元院御集』

☆霊元天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1654年(承応3年5月25日) 京都において、後水尾天皇の第19皇子(母は藤原国子)として生まれる
・1658年(万治元年1月) 親王宣下される
・1662年(寛文2年12月) 9歳で元服する
・1663年(寛文3年1月26日) 10歳の時、異母兄後西天皇の譲位をうけて践祚する
・1663年(寛文3年4月27日) 第112代とされる天皇として即位するが、父が院政を敷く
・1669年(寛文9年) 武家伝奏正親町実豊らの排除を画策する
・1671年(寛文11年) 側近とともに宮中で花見の宴を開いて泥酔する事件を起こす
・1680年(延宝8年) 父・後水尾法皇が亡くなり、政務を司ることとなる
・1681年(天和元年) 法皇の遺命により儲君に内定していた第一皇子の一宮(後の済深法親王)を強引に出家させ、反対する一宮の外祖父小倉実起を佐渡に流刑にする(小倉事件)
・1683年(天和3年) 意中の皇位継承者であった朝仁親王の立太子礼が行われ長く中断していた皇太子の称号を復活させる
・1687年(貞享4年3月21日) 皇太子朝仁親王(東山天皇)に譲位するが、仙洞御所に入って院政を敷く
・1690年(元禄3年) 近衛基煕が関白に就任すると、その権限は制限され再び朝幕協調の時代となる
・1694年(元禄7年) 東山天皇の成長を理由として政治の実権を天皇に移すことを宣言する
・1709年(宝永6年) 東山上皇が急逝し、近衛基熈も太政大臣を辞任すると、院政が再開される
・1713年(正徳3年) 剃髪して、法名を素浄とする
・1721年(享保6年) 初めて修学院離宮御幸が行われる
・1732年(享保17年8月6日) 京都において、数え年78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事) 

967年(康保4)第62代天皇とされる村上天皇の命日(新暦7月5日)詳細
1336年(建武3)湊川の戦い足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害(新暦7月4日)詳細
1885年(明治18)詩人・歌人平野万里の誕生日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1790年(寛政2)に、老中主座・松平定信が朱子学以外の学問を異学として昌平坂学問所での教授を禁止(寛政異学の禁)した日ですが、新暦では7月6日となります。
 寛政異学の禁(かんせいいがくのきん)は、寛政の改革の一環として、江戸幕府が昌平坂学問所(昌平黌)に対し、朱子学以外を異学とし、その教授を禁止したものでした。老中松平定信が林大学頭(信敬)に下命し、昌平坂学問所(昌平黌)においては正学たる朱子学のみを講究し、異学すなわち朱子学以外の学問は禁ずる旨を達したもので、寛政三博士(柴野栗山・尾藤二洲・岡田寒泉)や西山拙斎の主張を入れて、朱子学の振興を図るために発せられたものです。
 当時は、伊藤仁斎、荻生徂徠などの古学派、井上金峨、片山兼山などの折衷学派、その他諸学派が次第に隆盛し、官学である朱子学は不振のため、それを擁護し、幕吏養成機関としての自覚を促すために行われましたが、諸藩の学校でも幕府の禁令ならうところが出ました。また、朱子学をもって学問吟味(=官吏登用試験)とし、1798年(寛政10)頃まで続けられます。
 これに対し、冢田大峯、豊島豊洲、亀田鵬斎、山本北山、市川鶴鳴らは異学の禁に強く反対し、「異学の五鬼」とさえ称されました。
 以下に、『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『徳川禁令考』の「寛政異学の禁」の部分

 寛政二庚戌年五月廿四日
   学派維持ノ儀に付申達  林大学頭[1]え
 朱学[2]の儀は、慶長以来[3]御代々御信用の御事にて、已に其方家[4]、代々右学風維持の事仰せ付置れ候儀に候得者、油断無く正学[5]相励み、門人共取立て申すべき筈に候。然処近来世上種々新規の説[6]をなし、異学[7]流行、風俗を破り候類これ有り、全く正学[5]衰微のゆえに候哉、甚だ相済まざる事にて候。其方門人共の内にも、右体[8]、学術純正ならざるもの、折節はこれ有る様にも相聞え、如何に候。此度聖堂[9]御取締厳重に仰せ付られ、柴野彦助[10]・岡田清助[11]儀も、右御用仰せ付られ候事[12]に候得者、能々此旨申し談じ、急度門人共異学[7]を禁じ、猶又、自門[13]に限らず他門[14]に申合せ、正学[5]講窮[15]致し、人才[16]取立て候様相心掛申すべく候事。

     『徳川禁令考』より

【注釈】

[1]林大学頭:はやしだいがくのかみ=大学頭だった林信敬(錦峯)のこと。
[2]朱学:しゅがく=朱子学のこと。
[3]慶長以来:けいちょういらい=徳川家康が林羅山を登用した慶長10年(1605年)以来という意味。
[4]其方家:そのほういえ=林家のこと。
[5]正学:せいがく=朱子学を正学とした。
[6]世上種々新規の説:せじょうしゅしゅしんきのせつ=古学、陽明学など儒学の諸派が存在している状態を指す。
[7]異学:いがく=朱子学以外の儒学である古学派、折衷派、陽明学派などのこと。
[8]右体:みぎてい=右に述べたような。
[9]聖堂:せいどう=孔子廟のことだが、この場合はそれに付属する学問所を指す。
[10]柴野彦助:しばのひこすけ=朱子学者で寛政三博士の一人、寛政異学の禁を建議した。
[11]岡田清助:おかだせいすけ=朱子学者で寛政三博士の一人。
[12]右御用仰せ付られ候事:みぎごようおおせつけられそうろうこと=聖堂学問所の儒官として登用されたこと。
[13]自門:じもん=林家。
[14]他門:たもん=林家以外の朱子学者。
[15]講窮:こうきゅう=講義、研究。
[16]人才:じんざい=有能な人材。

<現代語訳>

 寛政2年(1790年)5月24日
   学派の維持の事について申し渡す 林大学頭へ
 朱子学の事は、慶長年間以来、将軍家代々が信用してきた学問で、すでにその方林家でも、代々右の学風を維持するよう命じられてきたのだから、怠り無く朱子学を研鑽し、門人達を養成すべきはずである。ところが近来、世間では種々の新規学説を成し、朱子学以外の儒学の学派が流行し、風俗を乱す者たちが有るのは、全く朱子学が衰微したためであろうか。はなはだよろしくないことである。その方林家門人共の中にも、右に述べたような、正統でない学問を学ぶ者が、時折有る様にも聞いているが、どのようなものであろうか。今度、聖堂学問所の取締りを厳重にするよう命令され、柴野彦助(栗山)・岡田清助(寒泉)にも、右の御用を命令されることとなったので、よくよくこの趣旨を検討し、必ず門人どもに朱子学以外を学ぶことを禁じ、なおまた林家に限らず、他の朱子学者とも相談し、朱子学を講義、研究し、有能な人材を養成するように心がけねばならないこと。

〇(参考)『蜑の焼藻の記(あまのたくものき)』の「寛政異学の禁」についての記述

 試学の評決は儒家へ仰渡されて、大学頭より以下柴野彦助・岡田清助・尾藤良佐等、聖堂に於て諸士の素読講釈を試みたり。されど儒家にては人物人がらはいかにもあれ、其日に当りて講釈弁書の聖教に的当したるならでは上科とせず。されば血気放蕩のやからは、不敵なる根情にまかせて、きのふまで浄瑠璃三味線に心耳をこらしたる者が、四五十日が内に、そこら講釈を聞覚えて、試学に出るやから多し。殊に去心より能き師の云事を聞覚えて、一字一句も違へず聞とりに云ふへに、儒家の評にはいつも上科にあたれり。又実学にて多年志有りて書籍にもしたしく、人がらを慎みて、然るべき勤士にも進むべき者は、おのづから己が見識も交わり、或ひは多聞に迷ふ所有りて、云所いつも儒家の評には当たらず、下等に成たり。

 『蜑の焼藻の記』(森山孝盛著)より 
 注:森山孝盛(1738-1815年)は、のちに目付や先手鉄炮頭などを務めた旗本。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1636年(寛永13)武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の命日(新暦6月27日)詳細
1925年(大正14)日本労働組合評議会が結成される詳細
1971年(昭和46)評論家・婦人解放運動家平塚らいてう(平塚雷鳥)の命日詳細
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 今日は、江戸時代後期の1832年(天保3)に、蘭学者・政治家・外交官寺島宗則の生まれた日ですが、新暦では6月21日となります。
 寺島宗則(てらしま むねのり)は、薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士だった父・長野成宗の次男(母は秋野)として生まれましたが、幼名は徳太郎と言いました。1836年(天保7)の5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、1841年(天保12)の10歳より蘭語学習を始めます。
 1845年(弘化2)に松木家を継いで弘安と名乗り、翌年の15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学びました。1855年(安政2)に中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講、翌年には、蕃書調所教授手伝となり、翌々年頃から英語を独学しはじめます。
 1858年(安政5)に横浜で貿易実務に関わり、翌年から本格的に英語を学びはじめ、1860年(万延元)には、幕府の蕃書調所教授となりました。1861年(文久元)に英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢され、翌年には、幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わり、福沢論吉、箕作秋坪らと渡欧します。
 西洋諸国を視察、1863年(文久3)に帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となったものの、同年の薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となりました。1865年(慶応元)に薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れ、翌年に寺島姓に改名、1867年(慶応3)には、全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出します。
 1868年(明治元)に明治新政府の参与外国事務掛を命ぜられ、スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わり、翌年には神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させ、外務大輔となりました。1872年(明治5)に初代の在イギリス日本公使、翌年には、参議兼外務卿となって、1875年(明治8)の「樺太・千島交換条約」の締結に携わります。
 1878年(明治11)に関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したものの、英独の反対で条約は無効となり、翌年には外務卿を辞職しました。その後文部卿、法制局長、元老院議長、駐米公使などを歴任し、晩年は宮中顧問官、枢密顧問官、枢密院副議長などを勤めます。
 その中で、1884年(明治17)に伯爵、1887年(明治20)には、正三位ともなりましたが、1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなりました。

〇寺島宗則関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1832年(天保3年5月23日) 薩摩国出水郡出水郷脇本村字槝之浦(現在の阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として生まれる
・1836年(天保7年) 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となる
・1841年(天保12年) 10歳より蘭語学習を始める
・1845年(弘化2年) 松木家を継いで弘安と名乗る
・1846年(弘化3年) 15歳の時、藩命を受けて、江戸に赴き伊東玄朴、川本幸民より蘭学を学ぶ
・1855年(安政2年) 中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)に出講する
・1856年(安政3年) 蕃書調所教授手伝となる
・1857年(安政4年) 薩摩藩主島津斉彬の要請で帰藩、製鉄、造船、ガス、写真、電信などの藩近代化事業に携わる
・1857年(安政4年) 英語を独学しはじめる
・1858年(安政5年) 横浜で貿易実務に関わる
・1859年(安政6年) 本格的に英語を学びはじめる
・1860年(万延元年) 幕府の蕃書調所教授となる
・1861年(文久元年) 英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員に抜擢される
・1862年(文久2年) 幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わる
・1863年(文久3年) 帰国して鹿児島に戻り、御船奉行となる
・1863年(文久3年) 薩英戦争において、五代友厚とともにイギリス軍の捕虜となる
・1865年(慶応元年) 薩摩藩遣英使節団に参加し、再び欧州を訪れる
・1866年(慶応2年) 寺島姓に改名し、当初陶蔵と称する
・1867年(慶応3年11月) 全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出する
・1868年(明治元年) 新政府の参与外国事務掛を命ぜられる
・1868年(明治元年) スペインとの日西修好通商航海条約の締結に関わる
・1869年(明治2年) 神奈川県知事として、京浜間に最初の電信事業を開業させる
・1869年(明治2年) 外務大輔となる
・1871年(明治4年) ハワイ王国との日布通商条約締結の際の日本側全権を任される
・1872年(明治5年) 初代の在イギリス日本公使となる
・1873年(明治6年) 参議兼外務卿となる
・1875年(明治8年)5月7日 「樺太・千島交換条約」の締結に至る
・1878年(明治11年) 関税自主権の回復に関する日米約書の調印に成功したが、英独の反対で条約は無効となる
・1879年(明治12年) 外務卿を辞職する
・1882年(明治15年) アメリカ駐在公使となる
・1884年(明治17年) 宮内省出仕に補せられる
・1884年(明治17年)7月7日 伯爵となる
・1885年(明治18年) 宮中顧問官となる
・1885年(明治18年) 東京学士会院会員となる
・1886年(明治19年) 枢密顧問官となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)4月12日 正三位となる
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1891年(明治24年) 枢密院副議長となる
・1893年(明治26年)6月6日 東京において、62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

811年(弘仁2)武将・征夷大将軍坂上田村麻呂の命日(新暦6月17日)詳細
1948年(昭和23)憲法学者美濃部達吉の命日詳細
1981年(昭和56)編集者・児童文学者・評論家・翻訳家吉野源三郎の命日詳細


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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、「戦時教育令」(昭和20年5月22日勅令第320号)が公布・施行された日です。
 「戦時教育令(せんじきょういくれい)」は、太平洋戦争末期に教育を決戦体制に即応させるために定められた勅令でした。空襲が激化し、本土決戦が唱えられる緊迫した事態の下で、1945年(昭和20)3月18日に小磯国昭内閣は、「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、国民学校初等科以外の生徒・学生をすべて通年の勤労動員の対象とし、授業そのものを4月1日から1年間停止するとしますが、その法的措置として、同年5月21日に「昭和20年5月22日勅令第320号」として制定され、翌日公布されたものです。
 この勅令には特に上諭が付せられましたが、これは「教育勅語」を引用し、「一且緩急ノ際ハ義勇奉公ノ節ヲ効サンコトヲ論シ給へり」と前提し、「今ヤ戦局ノ危急ニ臨ミ朕ハ忠誠純真ナル青少年学徒ノ奮起ヲ嘉シ」とあり、学徒に対し最後の奉公を要請、その本分を「尽忠報国」にあるとしたものでした。決戦下の基本的教育方針、「学徒隊」の組織、戦時生活における教育のあり方などを定めています。
 その中には、在学中軍人となったとき、および動員中死亡または傷痍を受けたときは学校卒業と認めること、教職員については「学徒の薫化」の任務を全うすることとされていました。敗戦後の8月21日に、文部省では廃止が決定され、9月12日に国民学校および中等学校に対して戦時教育を平時教育へ転換させることについての緊急事項が指示され、さらに9月26日には疎開児童の復帰が指示されています。法令としては、10月6日の「戦時教育令廃止ノ件」(昭和20年10月6日勅令第564号)により廃止されました。
 以下に、、「戦時教育令」(昭和20年5月22日勅令第320号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「戦時教育令」(昭和20年5月22日勅令第320号)

第一条 学徒ハ尽忠以テ国運ヲ雙肩ニ担ヒ戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身シ平素鍛錬セル教育ノ成果ヲ遺憾ナク発揮スルト共ニ智能ノ錬磨ニ力ムルヲ以テ本分トスベシ

第二条 教職員ハ率先垂範学徒ト共ニ戦時ニ緊切ナル要務ヲ挺身シ倶学倶進以テ学徒ノ薫化啓導ノ任ヲ全ウスベシ

第三条 食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身セシムルト共ニ戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為学校毎ニ教職員及学徒ヲ以テ学徒隊ヲ組織シ地域毎ニ学徒隊ヲ以テ其ノ連合体ヲ組織スルモノトシ二以上ノ学徒隊ノ一部又ハ全部ガ同一ノ職場ニ於テ挺身スルトキハ文部大臣ノ定ムル場合ヲ除クノ外其ノ職場毎ニ教職員及学徒ヲ以テ学徒隊ヲ組織シ又ハ学徒隊ヲ以テ其ノ連合体ヲ組織スルモノトス

 学徒隊及其ノ連合体ノ組織編制、教育訓練、指導監督其ノ他学徒隊及其ノ連合体ニ関シ必要ナル事項ハ文部大臣之ヲ定ム

第四条 戦局ノ推移ニ即応スル学校教育ノ運営ノ為特ニ必要アルトキハ文部大臣ハ其ノ定ムル所ニ依リ教科目及授業時数ニ付特例ヲ設ケ其ノ他学校教育ノ実施ニ関シ特別ノ措置ヲ為スコトヲ得

 第五条 戦時ニ際シ特ニ必要アルトキハ学徒ニシテ徴集、召集等ノ事由ニ因リ軍人(陸海軍ノ学生生徒ヲ含ム)ト為リ、戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身シテ死亡シ若ハ傷痍ヲ受ケ又ハ戦時ニ緊要ナル専攻学科ヲ修ムルモノハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ正規ノ期間在学セズ又ハ正規ノ試験ヲ受ケザル場合ト雖モ之ヲ卒業(之ニ準ズルモノヲ含ム)セシムルコトヲ得

 第六条 本令中文部大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督、関東州及満洲国ニ在リテハ満洲国駐箚特命全権大使、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トス

附則

  本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

                「文部省ホームページ」より

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