今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、日本文学報国会(会長:徳富蘇峰)が設立された日です。
日本文学報国会(にほんぶんがくほうこくかい)は、大政翼賛会文化部が文部省と情報局との協力のもと、太平洋戦争翼賛のために、文学者を網羅する社団法人として設立されました。この日の創立総会では、内閣情報局次長によって、常任理事に久米正雄、中村武羅夫、理事に長与善郎ら16名が指名され、8つの部会(小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学)を設け、小説は徳田秋声部会長・白井喬二幹事長・菊池寛理事、劇文学は武者小路実篤部会長・久保田万太郎幹事長・山本有三理事、評論随筆は高島米峰部会長・河上徹太郎幹事長・河上徹太郎理事、詩は高村光太郎部会長、西條八十幹事長・佐藤春夫理事、短歌は佐佐木信綱部会長・土屋文明幹事長・水原秋桜子理事、俳句は高浜虚子部会長・富安謙次幹事長・前田雀郎[川柳]理事、国文学は橋本進吉部会長・久松潜一幹事長・折口信夫理事、外国文学は茅野蕭々部会長、中野好夫幹事長・辰野隆理事が指名(翌年5月22日に漢詩・漢文部会が設置され、市村瓊次郎部会長・沢田総清幹事長が指名)されます。
さらに、6月18日の発会式では、徳富蘇峰が会長となり、戦時下における文学者の決意宣誓があって、内閣情報局第5部3課の指導監督を受ける政府の外郭団体として、約3,100名を擁して発足しました。機関紙『文学報国』が発行され、3回(1942年11月、1943年8月、1944年11月)にわたる大東亜文学者大会の開催、文芸報国講演、傷病兵慰問文芸運動などを行い、また、『国民座右銘』(評論随筆部会)、『愛国百人一首』(短歌部会)選定、『大東亜戦詩集・歌集』編纂、『辻小説』・『辻詩集』製作、古典作家の顕彰祭などを行ないます。
初め参加をためらっていた者も後には作品発表の場を失う結果を恐れて加わり、会員であることが文学者の資格であるような観を呈したものの、一部不参加を貫いた文学者もいました。文学を通しての国策宣伝、戦争協力を目的としてきましたが、太平洋戦争後の1945年(昭和20)8月31日に解散しています。
〇大政翼賛会とは?
昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。
☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会
・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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1977年(昭和52) | 小説家・劇作家藤森成吉の命日 | 詳細 |