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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1943年(昭和18)に、日本美術報国会(会長:横山大観)が設立された日です。
 日本美術報国会(にほんびじゅつほうこくかい)は、大政翼賛会文化部が文部省と情報局との協力のもと、太平洋戦争翼賛のために、全日本美術作家を一丸とする社団法人として設立されました。この日の創立総会には、発起人280余名が参集し、日本画家横山大観が会長に就任、4つの部会(日本画・油絵・彫塑・工芸)を設け、第一部(日本画)野田九浦部会長、山口蓬春幹事長、第二部(油絵)辻永部会長、木村荘八幹事長、第三部(彫塑)石井鶴三部会長、加藤顕清幹事長、第四部(工芸)高村豊周部会長、山崎覚太郎幹事長がそれぞれ就任、これらが理事となりますが、その他に芸術院会員の各部から一名づつが理事に就任します。
 1937年(昭和12)7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争へ突入し、同年9月には、「輸出入品等特別措置法」により、軍需に対する必要性を基準に生産・販売・消費・輸出入が統制され、不要不急物資の輸入が禁止され、1938年(昭和13)4月1日の「国家総動員法」の公布によって、絵具や彫刻制作のための銅を含めた資材の使用制限が行なわれるようになりました。同年には不足金属回収運動によって、既存の銅像が供出されることも行われます。
 この中で、同年9月に日本塑像家連盟、1940年(昭和15)10月に工芸美術作家協会、同年11月に美術団体連盟など、洋画家、日本画家、彫刻家、工芸家たちはそれぞれ自主規制のための翼賛的な団体を組織して、制作のための資材の確保に努めました。一方、1939年(昭和14)4月に陸軍美術協会が設立され、同年7月には同会主催で「第一回聖戦美術展」が上野の東京府美術館で開催されたのをはじめ、数々の翼賛美術団体により、多くの展覧会(献画報国日本画展、海軍従軍画家展、聖戦従軍画家展、紀元2600年奉賛展覧会など)が行われていきます。
 それらの流れを集約する形で、1943年(昭和18)5月に日本美術及工芸統制協会(美統)と日本美術報国会(美報)が発足するに至りました。この二つは、表裏一体の組織として、「彩管(=絵具)報国」を旗印に戦争美術の振興を推進、美術家はこれらの組織に属さなければ、作品制作のための資材配給を得られないという状況に追い込まれます。
 戦争中は活動が続けられましたが、戦後の1945年(昭和20)10月4日の理事会で解散することに決定しました。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1333年(元弘3/正慶2)鎌倉幕府第16代執権北条守時が鎌倉小袋坂の戦いで自刃する(新暦6月30日)詳細
1869年(明治2)榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏する(新暦6月27日)詳細
1901年(明治34)日本最初の社会主義政党である「社会民主党」が結成される詳細