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 今日は、平安時代前期の840年(承和7)に、第53代とされる天皇である淳和天皇が亡くなった日ですが、新暦では6月11日となります。
 淳和天皇(じゅんなてんのう)は、奈良時代の786年(延暦5年)に桓武天皇の第七皇子(母は藤原百川の娘・旅子)として生まれましたが、名は大伴と言いました。788年(延暦7年5月4日)に2歳にして生母を失ない、文室与伎の妻・平田孫王が母代わりとなり、798年(延暦17)に元服し、三品兵部卿となっています。
 806年(延暦25)に父・桓武天皇が亡くなり、異母兄の安殿親王(平城天皇)が即位、そのもとで、806年(大同元)に治部卿、808年(大同3)に中務卿となりました。809年(大同4)に平城天皇の譲位を受け、異母兄の神野親王(嵯峨天皇)が即位、翌年の薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子します。
 823年(弘仁14)に嵯峨天皇の譲位を受け、第53代とされる天皇として即位しました。謙譲・温厚な性格で、兄の上皇との間は円満に終始し、律令制度再建に努め、824年(天長元)に左右検非違使庁を再置、826年(天長3)に上総国、常陸国、上野国の3ヶ国を親王の任国に定め、また巡察使の派遣などによって地方官の監督を強化するなどの治績を上げます。
 一方、詩文集や法典整備の編纂など文化政策にも努め、勅撰漢詩集『経国集』(827年)、律令を補完する法令集『新撰格式』(830年)、百科事典『秘府略』全20巻(831年)、法典整備のため『令義解(りょうのぎげ)』全10巻(833年)を編纂させました。自身も漢詩に長じ、『凌雲集』、『文華秀麗集』、『経国集』に多数収載されています。
 833年(天長10)に、正良親王(仁明天皇)に譲位し、太上天皇となり、淳和院(現在の京都市右京区西院淳和院町付近)へ移りました。835年(承和2)の空海の死去に際し高野山に弔書を送ったりしましたが、840年(承和7年5月8日)に京都において、数え年55歳で亡くなり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨されたとされます。

〇淳和天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・786年(延暦5年) 桓武天皇の第七皇子(母は藤原百川の娘・旅子)として生まれる
・788年(延暦7年5月4日) 2歳にして生母を失ない、文室与伎の妻・平田孫王が母代わりとなる
・798年(延暦17年4月) 元服し、三品兵部卿となる
・806年(延暦25年3月17日) 父・桓武天皇が亡くなり、異母兄の安殿親王(平城天皇)が即位する
・806年(大同元年) 治部卿となる
・808年(大同3年) 中務卿となる
・809年(大同4年4月1日) 平城天皇の譲位を受け、異母兄の神野親王(嵯峨天皇)が即位する 
・810年(弘仁元年9月13日) 薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子する
・823年(弘仁14年4月16日) 嵯峨天皇の譲位を受け、第53代とされる天皇として即位する
・824年(天長元年) 左右検非違使庁を設置する
・825年(天長2年) 第二皇子として恒貞親王が誕生する
・826年(天長3年) 上総国,常陸国,上野国の 3ヵ国を親王の任国に定める
・827年(天長4年) 勅撰漢詩集『経国集』が編纂される
・827年(天長4年) 正子内親王が皇后に冊立される
・830年(天長7年) 律令を補完する法令集『新撰格式』が編纂される
・831年(天長8年) 百科事典『秘府略』全20巻が編纂される 
・833年(天長10年) 法典整備のため『令義解(りょうのぎげ)』全10巻が編纂される
・833年(天長10年2月28日) 仁明天皇に譲位し、太上天皇となり、淳和院へ移る
・835年(承和2年3月21日) 空海の死去に際し高野山に弔書を送る
・840年(承和7年5月8日) 京都において、数え年55歳で亡くなり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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