ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年04月

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、長野県の飯田大火で、4,010戸が焼失した日です。
 飯田大火(いいだたいか)は、長野県飯田市において、午前11時48分頃に上常盤町(現在の扇町)の民家の煙突の火の粉を原因に火災が発生、連日の乾燥に加え、折からの南風(平均風速10mほど)にあおられて、瞬く間に燃え広がりました。警防団(消防団)による初期消火も失敗し、火の手は桜町、吾妻町鈴加町、宮の前、高羽町へと拡散、約10時間ほど延焼が続き(完全鎮火は翌日の午後9時頃)、旧城下の面影をよく残し「飯田美しき町」と讃えられた飯田の街は、灰燼に帰します。
 これによる被害は、死者・行方不明者3名、重傷者80名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha(飯田中心街の約7割)、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名、損害額は当時の金額で推定15億円とされました。国内の戦後における大火の中でも、罹災戸数において、1952年(昭和27)4月17日の鳥取大火に次ぐ大惨事とされています。
 翌年から、火災復興が始まり、防災に強い、近代都市的な町並みや公共施設、りんご並木や裏界線などを造りました。防火帯道路の緑地帯には、地元中学生により、りんごの木が植樹され、飯田りんご並木として復興のシンボルとなっています。

〇太平洋戦争後の日本の大火(500棟以上の焼失で、地震によるものを除く)

・1947年(昭和22)4月20日 - 飯田大火(長野県飯田市)
  死者・行方不明者3名、焼失棟数3,742棟、焼損面積約48ha、罹災戸数4,010戸、罹災人員17,778名
・1949年(昭和24)2月20日 - 第一次能代大火(秋田県能代市)
  死者3名、負傷者132名、焼失家屋2,237棟、焼失面積83.6ha、罹災世帯1,755世帯、罹災人員8,790名
・1952年(昭和27)4月17日 - 鳥取大火(鳥取県鳥取市)
  死者3名、罹災家屋5,228戸、罹災面積約160ha、罹災者2万451人
・1954年(昭和29)9月26日 - 岩内大火(北海道岩内郡岩内町)
  死者35名、負傷者551名、行方不明3名、焼失戸数3,298戸、焼失面積約106ha、罹災者16,622名
・1955年(昭和30)10月1日 - 新潟大火(新潟県新潟市)
  行方不明者1名、負傷者175名、焼失棟数892棟、焼失面積約26ha、罹災世帯1,193世帯、罹災人員5,901名
・1956年(昭和31)3月20日 - 第二次能代大火(秋田県能代市)
  死者なし、負傷者194名、焼失家屋1,475棟、焼失面積約31.5ha、罹災世帯1,248世帯、罹災人員6,087名
・1956年(昭和31)9月10日 - 魚津大火(富山県魚津市)
  死者5名、負傷者170名(うち重傷者5名)、焼失戸数1,583戸、罹災者7,219名
・1965年(昭和40)1月11日 - 伊豆大島大火(東京都大島町)
  死者なし、全焼戸数584棟418戸、焼失面積約16.5ha、罹災世帯408世帯1,273名、被害総額20億7千万円
・1976年(昭和51)10月29日 - 酒田大火(山形県酒田市)
  死者1名、焼失棟数1,774棟、焼失面積約22.5ha、被災者約3,300名、被害総額約405億円

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
 

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 今日は、平安時代後期の1068年(治暦4)に、第70代の天皇とされる後冷泉天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月22日となります。
 後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)は、1025年(万寿2年8月3日)に、京都において後朱雀天皇の第一皇子(母は藤原道長女・藤原嬉子)として生まれましたが、名は親仁(ちかひと)と言いました。2日後に生母を亡くし、紫式部の娘大弐三位が乳母となり、1036年(長元9)に親王宣下されます。
 1037年(長暦元)に元服して三品に叙され、章子内親王(後一条天皇第一皇女)が入内、皇太子となりました。1045年(寛徳2)に病床の父・後朱雀天皇から譲位されて践祚、異母弟の尊仁親王が皇太弟となり、第70代とされる天皇として即位します。
 同年に荘園の増加によって国家財政が危機的状態にあったので、荘園整理令に着手しました。また、章子内親王が中宮に冊立され、翌年には、藤原歓子(藤原教通の女)も入内しています。
 1049年(永承4)に藤原歓子が皇子を出産しましたものの、即日死没、翌年には藤原寛子(関白頼通の女)が入内、1051年(永承6)に立后しました。この年に陸奥に前九年の役が起こって辺境が動揺、1055年(天喜3)には、新立の荘園を停止させています。
 1059年(康平2)に皇子が誕生しましたが、皇后の子ではなく、皇位を継ぐには至らず、1067年(治暦3)には藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸して 頼通を准三宮に叙し、特に封300石ならびに年官、年爵、食封3000戸そのほかを授けました。1068年(治暦4)に藤原歓子が立后し、三后鼎立となりましたが、いずれの皇后も子を育てられなかった中で、同年4月19日に、京都で在位のまま、数え年44歳で亡くなっています。
 その後は、異母弟で藤原氏を直接の外戚としない尊仁親王(後三条天皇)が即位することになり、摂関の権力は弱体化していきました。尚、日記『後冷泉院御記』が残され、歌も『後拾遺和歌集』、『金葉集和歌集』、『新古今集和歌集』などに収載されています。

<代表的な和歌>

・「待つ人は 心ゆくとも すみよしの 里にとのみは 思はざらなむ」(新古今和歌集)
・「岩まより 流るる水は 早けれど うつれる月の 影ぞのどけき」(後拾遺和歌集)

〇後冷泉天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1025年(万寿2年8月3日) 京都において後朱雀天皇の第一皇子(母は藤原道長女藤原嬉子)として生まれる
・1025年(万寿2年8月5日) 生母の東宮妃嬉子が亡くなる
・1036年(長元9年2月22日) 親王宣下される
・1037年(長暦元年7月2日) 元服して三品に叙される
・1037年(長暦元年12月13日) 章子内親王(後一条天皇第一皇女)が入内する
・1037年(長暦元年8月17日) 皇太子となる
・1045年(寛徳2年1月16日) 病床の父・後朱雀天皇から譲位されて践祚、異母弟の尊仁親王が皇太弟となる
・1045年(寛徳2年1月19日) 章子内親王が女御宣下を受ける
・1045年(寛徳2年4月8日) 第70代とされる天皇として即位する
・1045年(寛徳2年) 荘園整理令に着手する
・1046年(永承元年7月10日) 章子内親王が中宮に冊立される
・1047年(永承2年10月14日) 藤原歓子(藤原教通の女)が入内する
・1048年(永承3年7月10日) 藤原歓子が女御宣下される
・1049年(永承4年3月14日) 藤原歓子が皇子を出産するが、即日死没する
・1050年(永承5年12月22日) 藤原寛子(関白頼通の女)が入内する
・1051年(永承6年2月13日) 藤原寛子が立后する
・1051年(永承6年) 陸奥に前九年の役が起こって辺境が動揺する
・1055年(天喜3年) 新立の荘園を停止させる
・1059年(康平2年) 皇子が誕生する
・1067年(治暦3年) 藤原頼通の建立した宇治平等院に行幸して 3日滞在し、頼通を准三宮に叙し、特に封 300石ならびに年官、年爵、食封3000戸そのほかを授ける
・1068年(治暦4年4月17日) 藤原歓子が立后する
・1068年(治暦4年4月19日) 京都で在位のまま、数え年44歳で亡くなる

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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、日清両国間で「天津条約」(李・伊藤条約)が締結された日です。
 「天津条約(てんしんじょうやく)」は、1884年(明治17)12月に朝鮮において発生した独立党クーデター(甲申事変)に関連して、日本国と清国間で結ばれた条約で、日本側全権・伊藤博文と清国側全権・李鴻章の名をとって「李・伊藤条約」とも呼ばれてきました。内容は、①朝鮮からの両国撤兵、②軍事教官の派遣停止、③出兵の際の相互事前通告などの3ヶ条を取り決めていますが、会談では、暴挙兵士の処分、賠償金要求 (日本居留民殺害、公使館焼去の責任など) で難航したとされます。これにより日本は、朝鮮において軍事的には清国と対等の立場となりました。
 尚、中国の天津で結んだ条約は、他に(1)アロー戦争の結果、1858年に清と英・仏・米・露との間に結ばれた条約、(2)1871年に結ばれた日・清両国間の通商条約(日清修好条規)、(3)清仏戦争の結果、1885年に清・仏両国間に結ばれた条約があり、これらを総称して、「天津条約」とも呼ばれています。

〇甲申事変とは?

 1884年(明治17)の甲申の年、朝鮮の開化派(独立党)が朝鮮漢城(ソウル)で起こしたクーデター事件で、第2次京城事変とも言われます。日本と結んだ開化派(独立党)の金玉均・朴泳孝らが、12月4日に郵政局の落成式典に守旧派の大官を招待、隣家に放火、逃れる閔泳翊らを殺傷し、王宮を占領して高宗を掌握、開化派は新政府を樹立、6日には14ヶ条からなる新政綱を発表しましたが、同日に清の袁世凱の援助で王宮は奪回されて失敗しました。翌年4月17日に、日清両国は「天津条約」(李・伊藤条約)を結び、両国軍の撤退、出兵の際の事前通告などが約されています。

〇「天津條約(天津条約)」1885年(明治18)4月18日締結

<日本語版>

明治十八年四月十八日天津ニ於テ調印(日、支文)

同年五月二十七日太政官告示

大日本國特派全權大使 參議兼宮內卿勳一等伯爵 伊藤

大淸國特派全權大臣 太子太傅文華殿大學士北洋通商大臣兵部尙書直隸總督一等肅毅伯爵 李

 各々奉スル所ノ

諭旨ニ遵ヒ公同會議シ專條ヲ訂立シ以テ和誼ヲ敦クス有ル所ノ約款左ニ臚列ス

 一議定ス中國朝鮮ニ駐紮スルノ兵ヲ撤シ日本國朝鮮ニ在リテ使館ヲ護衞スルノ兵辨ヲ撤ス畫押蓋印ノ日ヨリ起リ四箇月ヲ以テ期トシ限內ニ各々數ヲ盡シテ撤囘スルヲ行ヒ以テ兩國滋端ノ虞アルコトヲ免ル中國ノ兵ハ馬山浦ヨリ撤去シ日本國ノ兵ハ仁川港ヨリ撤去ス

 一兩國均シク允ス朝鮮國王ニ勸メ兵士ヲ敎練シ以テ自ラ治安ヲ護スルニ足ラシム又朝鮮國王ニ由リ他ノ外國ノ武辨一人或ハ數人ヲ選僱シ委ヌルニ敎演ノ事ヲ以テス嗣後日中兩國均シク員ヲ派シ朝鮮ニ在リテ敎練スル事勿ラン

 一將來朝鮮國若シ變亂重大ノ事件アリテ日中兩國或ハ一國兵ヲ派スルヲ要スルトキハ應ニ先ツ互ニ行文知照スヘシ其ノ事定マルニ及テハ仍卽チ撒囘シ再タヒ留防セス

 大日本國明治十八年四月十八日

大日本國特派全權大使 參議兼宮內卿勳一等伯爵 伊藤博文花押

 大淸國光緖十一年三月初四日

大淸國特派特全權大臣 太子太傅文華殿大學士北洋通商大臣兵部尙書直隸總督一等肅毅伯爵 李鴻章花押

「備考」

 伊藤大使復命書中ニ曰ク「約書ハ淸國全權大臣ノ需ニ應シ畫押盖印ノ日ヨリ二ケ月以內ヲ期シ兩國

皇帝陛下ノ批准ヲ經唯タ交換ヲ要セスシテ兩國駐劄公使ヲ以テ相互知照スルヲ約ス」云々

  照會

    明治十八年四月十八日

(譯文)

大淸國欽差全權大臣 太子太傅文華殿大學士北洋通商大臣兵部尙書直隸總督一等肅毅伯爵 李

 照會ノ事ヲ爲ス照シ得タリ上年十月朝鮮漢城之變中國ノ官兵ト日本官兵ト朝鮮ノ王宮ニ在リテ爭鬪ノ一節ハ實ニ兩國國家意料ノ外ニ出ツ本大臣殊ニ惋惜ヲ爲ス惟タ念フ中日兩國ノ和好年久シ中國ノ兵官等一時情急ニ已ヲ得スシテ爭鬪スト雖モ究ニ未タ小心ニ事ヲ將フ能ハス應々本大臣由リ文ヲ行リ戒飭スヘシ貴大使ノ送リ閱スル日本ノ民人本多收之輔妻等ノ供狀ニ漢城內ニ在リテ華兵屋ニ入リ掠奪シ人命ヲ戕斃スル情事アルト謂フニ至リテハ但タ中國並ヒニ的確ノ證據ナシ自ラ應々本大臣ニ由リ員ヲ派シ訪査シ明確ニ供證ヲ取具シ如シ果シテ當日實ニ某營ノ某兵アリテ街ニ上リ事ヲ滋シ日民ヲ殺掠セシ事確トシテ見證アレハ定メテ中國ノ軍法ニ照シテ嚴ニ從ヒ拏辨スヘシ此ノ爲ニ備々具シ貴大使ニ照會シ査照ヲ煩スヲ請フ須ラク照會ニ至ヘキ者

右照會

大日本特派全權大使 參議兼宮內卿勳一等伯爵 伊藤

 光緖十一年三月初四日


           「舊條約彙纂」第一卷第一部 外務省條約局より

<中国語版>

大清國特派全權大臣太子太傅文華殿大學士北洋通商大臣兵部尚書直隸總督一等肅毅伯爵李

大日本國特派全權大使參議兼宮內卿勳一等伯爵伊藤

各遵所奉諭旨公同會議訂立專條以敦和誼所有約款臚列於左

一議定中國撤駐劄朝鮮之兵日本國撤在朝鮮護衛使館之兵辧自畫押蓋印之日起以四個月為期限內各行盡數撤囘以免兩國有滋端之虞中國兵由馬山浦撤去日本國兵由仁川港撤去

一兩國均允勸朝鮮國王敎練兵士足以自護治安又由朝鮮國王選僱他外國武辧一人或數人委以教演之事嗣後中日兩國均無派員在朝鮮敎練

一將來朝鮮國若有變亂重大事件中日兩國或一國要派兵應先互行文知照及其事定仍卽撤回不再留防

大清光緒十一年三月初四日

大清國特派全權大臣太子太傅文華殿大學士直隸總督一等肅毅伯爵李鴻章 畫押

大日本國明治十八年四月十八日

大日本國特派全權大使參議兼宮內卿勳一等伯爵伊藤博文 畫押

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に「軍需工業動員法」が公布された日です。
 「軍需工業動員法(ぐんじゅこうぎょうどういんほう)」は、戦時体制下で軍需生産を増強するために、国家が民間工場を動員し得ることを定めた法律(大正7年法律第38号)でした。1882年(明治15)8月に制定された「徴発令」(軍工廠を中心とする生産・補給体制と現存物資および人員徴発・徴用を目的)では、第一次世界大戦のような国家総力戦には対応できないとして、陸軍が主導して同法案の原案を作成、寺内正毅内閣のもとで制定された統制法です。
 平時戦時にわたる大量の軍需品生産を可能とする工業動員体制を作るため、軍需品工場の国家管理、軍需生産関係会社の軍需会社指定、監督契約に基づく軍需品工場の監督などを規定していました。主要条項の実施が「戦時」に限定されていたため、長い間、部分的な実施にとどまっていましたが、日中戦争開始後の1937年(昭和12)9月10日に「軍需工業動員法ノ適用ニ関スル法律」が公布、施行されてから、その全面発動が決定されています。
 しかし、日中戦争が長引くのに伴って、1938年(昭和13)4月1日に「国家総動員法」が公布(同年5月5日施行)されたことにより、これに吸収されて廃止されました。
 以下に、「軍需工業動員法」(大正7年法律第38号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「軍需工業動員法」(大正7年法律第38号) 1918年(大正7)4月17日公布

第一条 本法ニ於テ軍需品ト称スルハ左ノ各号ニ掲クルモノヲ謂フ
 一 兵器、艦艇、航空機、弾薬並軍用器具機械及物品
 二 軍用ニ供シ得ヘキ船舶、海陸聯絡輸送設備、鉄道軌道及其ノ附属設備其ノ他ノ輸送用物件
 三 軍用ニ供シ得ヘキ燃料、被服及糧秣
 四 軍用ニ供シ得ヘキ衛生材料及獣医材料
 五 軍用ニ供シ得ヘキ通信用物件
 六 前各号ニ掲クルモノノ生産又ハ修理ニ要スル材料、原料、器具機械、設備及建築材料
 七 前各号ニ掲クルモノヲ除クノ外勅令ヲ以テ指定スル軍用ニ供シ得ヘキ物件

第二条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産又ハ修理ノ為必要アルトキハ左ノ各号ニ掲クル工場及事業場並其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
 一 軍需品ノ生産又ハ修理ヲ為ス工場及事業場
 二 前号ニ掲クル工場及事業場ニ要スル原料若ハ燃料ヲ生産シ又ハ電力若ハ動力ヲ発生スル工場及事業場
 三 前各号ニ掲クル工場ニ転用スルコトヲ得ル工場

第三条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品ノ生産、修理又ハ貯蔵ノ為必要アルトキハ土地並家屋倉庫其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備ノ全部又ハ一部ヲ管理シ、使用シ又ハ収用スルコトヲ得
2 政府ハ戦時ニ際シ必要アルトキハ第一条第二号ニ掲クル物件ノ全部又ハ一部ヲ管理スルコトヲ得

第四条 前二条ノ場合ニ於テ政府ハ従業者ヲ供用セシムルコトヲ得

第五条 前三条ノ規定ニ依ル処分ニ因リ生シタル損害ハ政府之ヲ補償ス

第六条 政府ハ戦時ニ際シ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ譲渡、使用、消費、所持、移動若ハ輸出入ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得

第七条 戦時ニ際シ第一条ニ掲クル物件ニシテ徴発令中ニ規定ナキモノヲ使用又ハ収用セムトスルトキハ徴発令ノ規定ヲ準用ス

第八条 政府ハ戦時ニ際シ兵役ニ在ル者ヲ徴兵令ニ拘ラス勅令ノ定ムル所ニ依リ召集シテ軍事輸送機関又ハ第二条ノ規定ニ依リ政府ノ管理スル工場若ハ事業場ノ業務ニ従事セシムルコトヲ得
2 前項ノ規定ハ第二条各号ニ掲クル工場又ハ事業場ニシテ国ノ経営ニ係ルモノニ関シ之ヲ準用ス

第九条 政府ハ戦時ニ際シ勅令ノ定ムル所ニ依リ兵役ニ在ラサル者ヲ徴用シテ前条ニ掲クル業務ニ従事セシムルコトヲ得

第十条 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依リ収用シタル工場、事業場、土地又ハ家屋其ノ他ノ工作物及其ノ附属設備不用ニ帰シタル場合ニ於テ収用シタル時ヨリ五年内ニ払下クルトキハ旧所有者又ハ其ノ承継人ニ於テ優先ニ之ヲ買受クルコトヲ得

第十一条 政府ハ軍事上必要アルトキハ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ其ノ管理者ニ対シ其ノ事業ニ使用スル設備、器具機械、従業者若ハ材料原料器具機械ノ供給者又ハ生産発生若ハ修理ノ能力若ハ数量其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十二条 政府ハ軍事上必要アルトキハ鉄道、軌道、船舶、海陸聯絡輸送設備其ノ他ノ輸送用物件ノ所有者又ハ管理者ニ対シ事輛、軌道、船舶又ハ海陸聯絡輸送設備ノ数量、構造、輸送能力、従業者其ノ他必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十三条 政府ハ軍事上必要アルトキハ軍需品又ハ第二条第二号ノ原料若ハ燃料ノ取引又ハ保管ヲ業トスル者ニ対シ其ノ取引ノ相手方、取引又ハ保管ノ数量、保管ノ設備其ノ他事業ノ状況ニ付必要ト認ムル事項ノ報告ヲ命スルコトヲ得

第十四条 政府ハ軍事上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ第二条各号ニ掲クル工場若ハ事業場ヲ有スル者又ハ前条ニ掲クル者ニシテ一定ノ資格アルモノニ対シ予算ノ範囲内ニ於テ一定ノ利益ヲ保証シ又ハ奨励金ヲ下付スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ政府ハ其ノ者ニ対シ軍需品ノ生産、修理若ハ貯蔵ヲ為サシメ又ハ軍事上必要ナル設備ヲ為サシムルコトヲ得
2 政府ハ前項ノ規定ニ依リ利益保証又ハ奨励金下付ヲ受クル事業ヲ監督シ又ハ之カ為必要ナル命令若ハ処分ヲ為スコトヲ得

第十五条 第五条ノ規定ニ依ル補償金及前条ノ利益保証又ハ奨励金ノ算定並第十条ノ規定ニ依ル払下価額ハ軍需評議会ノ決議ヲ経テ之ヲ定ム
2 軍需評議会ニ関スル規程ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十六条 当該官吏又ハ吏員ハ第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ報告ヲ命シ得ル事項調査ノ為又ハ第十四条ノ規定ニ依ル監督若ハ処分ヲ為ス為必要ナル場所ニ立入リ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得

第十七条 工業的発明ニ係ル物又ハ方法ニ関シ予メ政府ノ承認ヲ得タル事項又ハ設備ニ付テハ報告ヲ命シ、検査ヲ為シ、調査資料ノ提供ヲ求メ又ハ従業者ニ対シ質問ヲ為スコトヲ得ス

第十八条 利益保証又ハ奨励金ヲ受クル事業ヲ承継スル者ハ本法若ハ本法ニ基キテ発スル命令之ニ依リテ為ス処分又ハ利益保証若ハ奨励金下付ニ附シタル条件ニ依ル前者ノ権利義務ヲ承継ス

第十九条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ三年以下ノ懲役又ハ三千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第二条又ハ第三条ノ規定ニ依ル管理、使用又ハ収用ヲ拒ミタル者
 二 第四条ノ規定ニ依ル供用ヲ拒ミタル者
 三 第六条ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者

第二十条 第十四条第一項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者ハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス
2 戦時ニ際シ前項ノ罪ヲ犯シタルトキ罰前条ニ同シ

第二十一条 左ノ各号ノ一ニ該当スル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
 一 第八条ノ規定ニ依ル召集ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 二 第九条ノ規定ニ依ル徴用ニ応セス又ハ同条ノ規定ニ依ル業務ニ従事スルコトヲ拒ミタル者
 三 第十一条乃至第十三条ノ規定ニ依リ命セラレタル報告ヲ為サス又ハ虚偽ノ報告ヲ為シタル者
 四 第十四条第二項ノ規定ニ依ル命令ニ違反シタル者
 五 第十六条ノ規定ニ依ル当該官吏又ハ吏員ノ職務ノ執行ヲ拒ミ妨ケ若ハ忌避シ、調査資料ノ提供ヲ為サス若ハ虚偽ノ調査資料ヲ提供シ又ハ質問ニ対シ虚偽ノ陳述ヲ為シタル者

第二十二条 当該官吏若ハ吏員又ハ其ノ職務ニ在リタル者本法ニ依ル職務ニ依リ知得シタル事業上ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキハ二年以下ノ懲役又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス当該官吏又ハ吏員第十七条ノ規定ニ違反シタルトキ亦同シ
2 職務上前項ノ秘密ヲ知得シタル他ノ公務員又ハ公務員タリシ者其ノ秘密ヲ漏洩シ又ハ窃用シタルトキ罰前項ニ同シ

             「官報」より

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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、小説家田村俊子の亡くなった日です。
 田村俊子 (たむら としこ)は、1884年(明治17)4月25日に、東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)で、米穀商を営む佐藤家の一人娘(母はきぬ)として生れましたが、本名は佐藤としと言いました。1900年(明治33)に東京府立第一高等女学校を卒業後、日本女子大学校国文科へ入学しましたが、病気のためまもなく退学しています。
 1902年(明治35)に作家を志し、幸田露伴の門下に入り、翌年には、露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣』を「文芸倶楽部」に発表しました。1906年(明治39)に、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になり、1909年(明治42)には田村松魚と結婚(事実婚)します。
 1911年(明治44)に長編小説『あきらめ』が「大阪朝日新聞」懸賞小説一等になり文壇デビューを果たし、同年創刊された女性向けの文学雑誌「青鞜」創刊号に『生血』という小説を投稿しました。その後、『誓言』、『嘲弄』(共に1912年)、『遊女』(のち『女作者』と改題)、『木乃伊 (ミイラ) の口紅』(共に1913年)、『圧迫』(1915年)などを次々と発表し、執拗な官能描写で、自意識の相克を描き、第一線の流行作家となります。
 しかし生活面で乱れて破綻をきたし、1918年(大正7)には、松魚と別れ、朝日新聞記者鈴木悦の後を追ってバンクーバーへ移住、18年間滞在しました。1936年(昭和11)に日本へ帰国し、1938年(昭和13)には小説『山道』を「中央公論」に発表するなど再起を試みましたが成功せず、同年に中央公論社の特派員として中国へ渡ります。
 1942年(昭和17)に上海で華字婦人雑誌「女声」を創刊したりしましたが、1945年(昭和20)4月16日に、搬送された上海の病院で脳溢血により、数え年62歳で客死しました。尚、1960年(昭和35)に女流文学者の作品、活動に授与される田村俊子賞が設けられましたが、第17回で終了しています。

〇田村俊子の主要な著作

・小説『露分衣(つゆわけごろも)』(1903年)
・長編『あきらめ』(1911年)「大阪朝日新聞」懸賞小説1等当選
・『生血』(1911年)
・『誓言』(1912年)
・『嘲弄』(1912年)
・『遊女』(1913年)のち『女作者』と改題
・『木乃伊 (ミイラ) の口紅』(1913年)
・『圧迫』(1915年)
・『山道』(1938年)

☆田村俊子関係略年表

・1884年(明治17)4月25日 東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)で、米穀商を営む佐藤家の一人娘(母はきぬ)として生れる
・1893年(明治26)4月 浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する
・1894年(明治27)2月 下谷区下谷金杉上町に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学する
・1895年(明治28) 浅草区馬道(現在の台東区浅草、花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学する
・1896年(明治29) 東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学する
・1896年(明治29) 東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学する
・1900年(明治33)3月 東京府立第一高等女学校を卒業する、
・1900年(明治33)4月 日本女子大学校国文科へ入学するも病気のためまもなく退学する
・1902年(明治35)4月 作家を志し、幸田露伴の門下に入る
・1903年(明治36)2月 露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を「文芸倶楽部」に発表する
・1906年(明治39) 露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる
・1909年(明治42) 田村松魚と結婚(事実婚)する
・1911年(明治44)2月 長編『あきらめ』が「大阪朝日新聞」懸賞小説一等になり文壇デビューする
・1911年(明治44)9月 創刊された女性向けの文学雑誌「青鞜」創刊号に『生血』という小説を投稿する
・1912年(大正元)11月 『嘲弄』を「中央公論」へ発表する
・1913年(大正2)1月 『遊女』(のち『女作者』と改題)を「新潮」に発表する
・1913年(大正2)4月 『木乃伊 (ミイラ) の口紅』を「中央公論」に発表する
・1915年(大正4)3月 『圧迫』を「中央公論」に発表する
・1918年(大正7)10月 朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住する
・1936年(昭和11)3月 日本へ帰国する
・1938年(昭和13)11月 小説『山道』を「中央公論」に発表する
・1938年(昭和13)12月 中央公論社の特派員として中国へ渡る
・1942年(昭和17) 上海で華字婦人雑誌「女声」を創刊する 
・1945年(昭和20)4月13日 中国・上海で友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒する
・1945年(昭和20)4月16日 搬送された上海の病院で脳溢血により、数え年62歳で客死する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)大隈重信らが立憲改進党を結成する詳細
1956年(昭和31)日本道路公団が設立される詳細
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