ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年04月

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 今日は、昭和時代後期の1978年(昭和53)に、洋画家東郷青児の亡くなった日です。
 東郷青児(とうごう せいじ)は、明治時代後期の1897年(明治30)4月28日に鹿児島市に生まれましたが、本名は東郷鉄春と言いました。幼少時に一家は東京に転居し、余丁町小学校で学び、1910年(明治43)の13歳の時、青山学院中学部へ入学します。
 1914年(大正3)に青山学院中等部を卒業しますが、この頃日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝いました。1915年(大正4)に日比谷美術館で初個展を開き、この頃有島生馬を知って師事、1916年(大正5)の第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞します。
 1921年(大正10)の24歳の時、フランス留学し、国立高等美術学校に学び、ギャラリー・ラファイエット百貨店の装飾美術のデザイナーとして働き、1928年(昭和3)に帰国しました。その後の第15回二科展に留学中に描いた『サルタンバンク』等の作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞し、注目されます。
 恋愛関係のもつれからガス自殺未遂事件を図ったりしたものの、1930年(昭和5)にジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行、翌年には、二科会の会員となりました。1938年(昭和13)、二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問となり、尽力しましたが、戦時中の1944年(昭和19)に二科会は解散を余儀なくされます。
 太平洋戦争後は、二科会の再建に尽力、1953年(昭和28)には、自身の発案により写真部が創設されたりしました。1957年(昭和32)の60歳の時、岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)、日本芸術院賞を受賞、同年と1959年(昭和34)に日本国際美術展で大衆賞も受賞しています。
 甘美な色調と装飾性をもつ女性像を多く描き、1960年(昭和35)に日本芸術院会員となり、1961年(昭和36)から二科会会長に就任、1969年(昭和44)には、フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与されました。1976年(昭和51)に勲二等旭日重光章授与され、東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設されましたが、1978年(昭和53)4月25日に第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため80歳で亡くなっています。尚、没後、文化功労者、勲二等旭日重光章、正四位が追贈されました。

〇東郷青児の主要な作品

・『パラソルさせる女』(1916年)二科賞受賞
・『サルタンバンク』(1926年)東京国立近代美術館蔵
・『ノスタルジ』
・『創生の歌』(1956年)旧大洋デパート壁画 芸術院賞受賞

☆東郷青児関係略年表

・1897年(明治30)4月28日 鹿児島市に生まれる。幼少時に一家は東京に転居。余丁町小学校では林武と同級。
・1910年(明治43) 13歳の時、青山学院中学部へ入学する
・1914年(大正3) 青山学院中等部を卒業。青児の名前の由来はここからきていると言われている[2]。このころ日本橋呉服町に竹久夢二が開いた「港屋絵草紙店」に出入りし、下絵描きなどを手伝う
・1915年(大正4) 山田耕筰の東京フィルハーモニー赤坂研究所の一室で制作。日比谷美術館で初個展、この頃有島生馬を知り、以後師事。
・1916年(大正5) 第3回二科展に初出品した『パラソルさせる女』により二科賞を受賞する
・1920年(大正9) 永野明代(はるよ)と結婚する
・1921年(大正10) 24歳の時、フランス留学し、国立高等美術学校に学ぶ
・1924年(大正13) ギャラリー・ラファイエット百貨店のニース支店とパリ本店で装飾美術のデザイナーとして働く
・1928年(昭和3) フランスに留学から帰国する
・1928年(昭和3) 第15回二科展に留学中に描いた作品23点を出品、第1回昭和洋画奨励賞を受賞する
・1929年(昭和4)2月 既婚のまま中村修子と結婚披露宴を挙げる
・1929年(昭和4)3月 愛人の西崎盈子(みつこ)とメスで頸動脈を切り、ガス自殺をはかったが、救出される
・1930年(昭和5) ジャン・コクトーの『怖るべき子供たち』を翻訳、白水社より刊行。
・1931年(昭和6) 34歳の時、二科会の会員となる
・1933年(昭和8) 宇野千代と別れ、妻の明代とも離婚する
・1934年(昭和9) 情死未遂事件の相手、みつ子と結婚する
・1938年(昭和13) 二科会に「九室会」が結成され、藤田嗣治と共に顧問になる
・1940年(昭和15) みつ子との間に長女、東郷たまみが誕生する
・1951年(昭和26) 歌舞伎座用の緞帳を制作する
・1953年(昭和28) 東郷青児の発案により二科会に写真部が創設される
・1957年(昭和32) 60歳の時、岡本太郎と共に日活映画『誘惑』に特別出演(西郷赤児役)、日本芸術院賞を受賞する
・1957年(昭和32) 日本国際美術展で大衆賞を受賞
・1959年(昭和34) 日本国際美術展で大衆賞を受賞
・1960年(昭和35) 日本芸術院会員となる
・1961年(昭和36) 64歳の時、二科会会長に就任する
・1969年(昭和44) 72歳の時、フランス政府より芸術文化勲章(オフィシエ)を授与される
・1974年(昭和49) アルジェリアのタッシリを探訪する
・1976年(昭和51) 勲二等旭日重光章授与され、東京・西新宿に東郷青児美術館(現在のSOMPO美術館)が開設される
・1978年(昭和53)4月25日 第62回二科展(熊本県立美術館)出席のため訪れていた熊本市にて、急性心不全のため死去する
・1978年(昭和53) 没後、文化功労者、勲二等旭日重光章、正四位追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

722年(養老6)百万町歩開墾計画が出される(新暦6月13日)詳細
1613年(慶長18)武将大久保長安の命日(新暦6月13日)詳細


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 今日は、大正時代の1921年(大正10)に、日本最初の社会主義的婦人団体「赤瀾会」が結成された日です。
 「赤瀾会(せきらんかい)」は、1920年(大正9)12月に、社会主義者の統一組織である日本社会主義同盟に参加した婦人の内の堺真柄、橋浦春子に九津見房子、秋月静枝が加わって、4人が発起人となり、顧問格で伊藤野枝、山川菊栄が参加し、42名の会員で発足しました。設立当初は社会主義同盟員の家族(妻や娘)が中心で、「私達は私達の窮乏と無知と隷属に沈淪せしめたる一切の圧制に対して、断乎として宣戦を布告するものであります」と宣言、婦人の啓蒙・隷属からの解放を趣旨に活動することになりますが、「新婦人協会」とは反目します。
 1921年(大正10)5月1日の第二回メーデーでビラまきを行い、10名ほどが検束され、また同年秋には陸軍の大演習にあたって、戦争反対のビラをまき、大量の検挙者を出すなど活発に活動しました。また、雑誌に論文を発表したり、「婦人問題講演会」(6月11日)、「夏期講習会」(7月18日~22日)などを開いて、社会主義の宣伝普及、婦人の地位向上のために努めています。
 しかし、官憲の弾圧は強く、主要な会員が検挙されるなど困難な状態が続き、1922年(大正11)には、「国際婦人デー」を記念する山川菊栄らの「八日会」へ改組されました。

〇赤瀾会関係略年表

・1919年(大正8)11月24日 平塚らいてう、「婦人の団結を望む」と題した講演で、新婦人協会設立の趣旨並に目的を発表。「新婦人協会」が発足する
・1920年(大正9)2月21日 東京神田で「新婦人協会第一回演説会」。市川房枝、山田わか、大山郁夫らが演壇に立つ。 3月28日 新婦人協会発会式。宣言と綱領、規約、役員を決定する
・1920年(大正9)4月 『婦人之友』婦人解放号特集
・1920年(大正9)5月1日 日本で初のメーデーに堺為子が参加する
・1920年(大正9)5月 与謝野晶子が雑誌『女人創造』に『新婦人協会の請願運動』を発表する
・1920年(大正9)10月30日 新婦人協会婦人参政演説会
・1920年(大正9)11月18日 新婦人協会広島支部に圧力がかかる
・1921年(大正10)2月 伊藤野枝、雑誌『改造』2月号に「中産階級婦人の利己的運動:婦人の政治運動と新婦人協会の運動について」を発表 3月26日 治安警察法5条改正案、44議会貴族院本会議で否決。
・1921年(大正10)4月24日 「赤瀾会」が結成される
・1921年(大正10)5月1日 第二回メーデーで赤瀾会の参加者、全員検束される
・1921年(大正10)5月9日 社会主義同盟第二回大会が警察の妨害によって中止
・1921年(大正10)5月14日 建設者同盟の講演会に九津見房子と仲宗根貞代が参加する
・1921年(大正10)5月28日 社会主義同盟が結社禁止命令を受ける
・1921年(大正10)6月 伊藤野枝、赤瀾会に関し雑誌『労働運動』に「婦人の反抗」、『改造』に「赤瀾会について」を発表する
・1921年(大正10)6月11日 赤瀾会、「婦人問題講演会」を開催する
・1921年(大正10)7月 山川菊栄が雑誌『太陽』7月号に『新婦人協会と赤瀾会』を発表する
・1921年(大正10)7月18日~22日 赤瀾会事務所で「夏期講習会」を開催する
・1921年(大正10)8月 新婦人協会の奥むめお、雑誌『太陽』8月号に『私どもの主張と立場』を発表する
・1921年(大正10)9月9日 「お目出度誌事件」で赤瀾会会員高津多代子が収監される
・1921年(大正10)10月12日 暁民共産党事件(軍隊赤化事件)
・1921年(大正10)12月6日 暁民共産党事件の容疑で赤瀾会の堺真柄、仲宗根貞代が収監される
・1921年(大正10)12月13日 無産社で赤瀾会の相談会
・1922年(大正11)1月9日 赤瀾会の堺真柄、仲宗根貞代が保釈出獄
・1922年(大正11)2月17日 新婦人協会の坂本真琴と奥むめお、第45帝国議会審議中の治安警察法改正案成立のため、反対派の貴族院議員藤村男爵を訪ね談判、法改正への賛同を得る
・1922年(大正11)3月25日 治安警察法5条2項改正案成立する
・1922年(大正11)5月10日 公布施行(女性集会の自由獲得)
・1922年(大正11)5月15日 新婦人協会、治安警察法改正の記念演説会開催する
・1922年(大正11)10月17日 新婦人協会婦人参政権演説会
・1922年(大正11)12月8日 新婦人協会の総会、協会の解散をきめる
・1923年(大正12)2月2日 婦人参政同盟結成
・1923年(大正12)3月8日 第一回国際女性デー演説会、「赤瀾会」は「八日会」に改組される
・1923年(大正12)3月13日 婦人参政権建議案を初めて衆議院に上程
・1923年(大正12)9月16日 伊藤野枝、夫大杉栄及び甥橘宗一らと共に、甘粕正彦大尉率いる憲兵隊に拉致虐殺される(甘粕事件)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)目黒競馬場で第1回日本ダービー開催される詳細
1951年(昭和26)国鉄で桜木町事故が起こり、電車火災により死者106人・重軽傷92人を出す詳細


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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

記念日「子供読書の日」です詳細
1875年(明治8)日本画家上村松園の誕生日詳細


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 今日は、明治時代後期の1912年(明治45)に、昭和時代から平成時代に活躍した映画監督・脚本家新藤兼人が生まれた日です。
 新藤兼人(しんどう かねと)は、広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)の豪農の家で、4人兄弟の末っ子として生まれましたが、父が借金の連帯保証人になったことで没落し、貧窮生活を送ることとなりました。1927年(昭和2)に石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられ、16歳の時には尾道の長兄宅に居候することになります。
 映画を志すようになり、1934年(昭和9年)の22歳の時、京都へ行って新興キネマに入りました。下働きから始まり、美術部門へ移り、脚本も書き始め、1943年(昭和18)には、情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選します。
 1944年(昭和19)に所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍したものの、同年4月には、日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)秋に、脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化され、1947年(昭和22)には、吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表します。
 1950年(昭和25)に松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立、翌年の39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たしました。1952年(昭和27)に原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表、翌年にはチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞などを受賞します。
 1959年(昭和34)に『第五福竜丸』を発表、翌年の瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』で、モスクワ映画祭グランプリを獲得しました。その後も、『母』(1963年)、『裸の十九才』(1970年)、『ある映画監督の生涯・溝口健二の記録』(1975年)、『竹山ひとり旅』(1977年)、『北斎漫画』(1981年)、『午後の遺言状』(1995年)等を発表、1997年(平成9)には、文化功労者に選ばれています。
 1999年(平成11)の『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得、翌年には、文化勲章を授与されました。晩年の2010年(平成22)に『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となり、翌年には、菊池寛賞も受賞しましたが、2012年(平成24)5月29日に、東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなっています。
 尚、脚本家としても、『けんかえれじい』、『ハチ公物語』、『完全なる飼育』始め、230本を超える作品を手がけました。

〇新藤兼人の主要な監督映画

・「愛妻物語」(1951年)
・「雪崩」(1952年)
・「原爆の子」(1952年)チェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞
・「縮図」(1953年)
・「女の一生」(1953年)
・「どぶ」(1954年)
・「狼」(1955年)
・「銀心中」(1956年)
・「流離の岸」(1956年)
・「女優」(1956年)
・「海の野郎ども」(1957年)
・「悲しみは女だけに」(1958年)
・「第五福竜丸」(1959年)
・「花嫁さんは世界一」(1959年)
・「らくがき黒板」(1959年)
・「裸の島」(1960年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「人間」(1962年)文部省芸術祭文部大臣賞
・「母」(1963年)毎日芸術賞
・「鬼婆」(1964年)
・「悪党」(1965年)
・「本能」(1966年)
・「尖石遺跡」(1966年)
・「蓼科の四季」(1966年)
・「性の起原」(1967年)
・「薮の中の黒猫」(1968年)
・「強虫女と弱虫男」(1968年)
・「かげろう」(1969年)文化庁芸術祭優秀賞
・「触角」(1970年)
・「裸の十九才」(1970年) モスクワ国際映画祭金賞
・「鉄輪(かなわ)」(1972年)
・「讃歌」(1972年)
・「心」(1973年)
・「わが道」(1974年)
・「ある映画監督の生涯 溝口健二の記録」(1975年)キネマ旬報ベストテン1位・監督賞
・「竹山ひとり旅」(1977年) モスクワ国際映画祭監督賞・ソ連美術家同盟賞
・「絞殺」(1979年)
・「三本足のアロー」(1980年)
・「北斎漫画」(1981年)
・「地平線」(1984年)
・「ブラックボード」(1986年)
・「落葉樹」(1986年)
・「さくら隊散る」(1988年)
・「東綺譚(ぼくとうきだん)」(1992年)
・「午後の遺言状」(1995年)日本アカデミー最優秀作品賞、モスクワ国際映画祭ロシア批評家賞、キネマ旬報ベストテン1位
・「生きたい」(1999年)モスクワ国際映画祭のグランプリ獲得
・「三文役者」(2000年)モントリオール映画祭特別グランプリ
・「ふくろう」(2003年)モスクワ映画祭功労賞
・「石内尋常高等小学校 花は散れども」(2008年)
・「一枚のハガキ」(2010年)第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位

〇新藤兼人の主要な著書

・『ある映画監督 - 溝口健二と日本映画』(岩波新書)
・『ある映画監督の生涯 -溝口健二の記録-』(映人社) 
・『「断腸亭日乗」を読む』(岩波現代文庫)
・『小説 田中絹代』(読売新聞社、のち文春文庫)
・『ながい二人の道 乙羽信子とともに』(東京新聞出版局)
・『ひとり歩きの朝』(毎日新聞社)
・『歳月は風の吹くままに』(朝日新聞社)
・『シナリオ人生』(岩波新書)
・『老人読書日記』(岩波新書)
・『弔辞』(岩波新書)
・『午後の遺言状』(岩波同時代ライブラリー)
・『女の一生―杉村春子の生涯』(岩波書店)
・『三文役者の死―正伝殿山泰司』(岩波現代文庫)
・『追放者たち 映画のレッドパージ』(岩波書店)
・『作劇術』(岩波書店)
・『祭りの声 あるアメリカ移民の足跡』(岩波新書)
・『愛妻記』(岩波現代文庫)
・『新藤兼人の足跡』(著作集全6巻、岩波書店)
・『ふくろう90歳の挑戦』(岩波アクティブ新書)
・『日本シナリオ史』(上・下、岩波書店)
・『いのちのレッスン』(青草書房)

☆新藤兼人関係略年表

・1912年(明治45)4月22日 広島県佐伯郡石内村(現在の広島市佐伯区五日市町)で生まれる
・1927年(昭和2) 石内尋常高等小高等科を卒業後、広島市内の親戚の家に預けられる
・1933年(昭和8) 徴兵検査が終わる
・1934年(昭和9) 22歳の時に新興キネマに入る
・1941年(昭和16) 溝口健二監督の『元禄忠臣蔵』の建築監督として1年間京都興亜映画に出向する
・1942年(昭和17) 情報局の国民映画脚本の公募に応募、佳作に終わる
・1943年(昭和18) 情報局の国民映画脚本の公募に『強風』が当選する
・1944年(昭和19) 所属していた興亜映画が松竹大船撮影所に吸収され東京本部へ移籍する
・1944年(昭和19)4月 日本海軍に召集され二等水兵として呉鎮守府海兵団に入団する
・1945年(昭和20) 宝塚海軍航空隊所属にて第二次世界大戦終戦を迎える
・1945年(昭和20)秋 脚本『待帆荘』がマキノ正博によって『待ちぼうけの女』(1946年)として映画化される
・1946年(昭和21) 34歳の時、美代と結婚する
・1947年(昭和22) 吉村公三郎と組んで『安城家の舞踏会』を発表する
・1950年(昭和25) 松竹を退社して独立プロダクションの先駈けとなる近代映画協会を吉村、殿山泰司らと設立する
・1951年(昭和26) 39歳の時、近代映画協会初の作品として、『愛妻物語』で宿願の監督デビューを果たす
・1952年(昭和27) 近代映画協会初の自主制作作品として、原子爆弾を取り上げた映画『原爆の子』を発表する
・1953年(昭和28) 映画『原爆の子』でチェコスロバキア国際映画祭平和賞、ブリッティシュフィルムアカデミー国連賞、ポーランドジャーナリスト協会名誉賞など受賞する
・1959年(昭和34) 『第五福竜丸』を発表する
・1960年(昭和35) 瀬戸内海を舞台にしたせりふのない作品『裸の島』を発表し、モスクワ映画祭グランプリを獲得する
・1970年(昭和45) 連続拳銃発砲事件の永山則夫を題材にした『裸の十九才』を発表する
・1972年(昭和47) 60歳の時、美代と正式に離婚する
・1978年(昭和53) 乙羽信子と再婚する
・1995年(平成7) 『午後の遺言状』で日本アカデミー最優秀作品賞となる
・1997年(平成9) 文化功労者に選ばれる
・1999年(平成11) 『生きたい』でモスクワ国際映画祭のグランプリを獲得する
・2002年(平成14) 文化勲章を授与される
・2005年(平成17) 谷本清平和賞を受賞する
・2010年(平成22) 『一枚のハガキ』で第23回東京国際映画祭審査員特別賞、キネマ旬報日本映画ベスト・テン第1位となる
・2010年(平成23) 菊池寛賞を受賞する
・2012年(平成24)5月29日 東京都港区の自宅で、老衰のため100歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1910年(明治43)彫刻家荻原守衛(碌山)の命日詳細
1993年(平成5)全国103ヶ所の施設が「道の駅」として初めて正式登録される詳細
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 今日は、奈良時代の748年(天平20)に、第44代の天皇とされる元正天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月22日となります。
 元正天皇(げんしょうてんのう)は、680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。
 しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。

<代表的な歌>

・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)

〇元正天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・680年(天武天皇9年) 飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれる
・682年(天武天皇11年8月28日) 病により、罪人198人が恩赦される
・683年(天武天皇12年) 3歳下の同母弟・珂瑠(後の文武天皇)が誕生する
・689年(持統天皇3年4月13日) 父・草壁皇子が即位しないままに亡くなる
・697年(文武天皇元年8月1日) 持統天皇から譲位されて同母弟・珂瑠皇子が即位(文武天皇)する
・702年(大宝2年12月22日) 祖母・持統太上天皇が亡くなる
・707年(慶雲4年6月15日) 文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が即位(元明天皇)する
・710年(和銅3年3月10日) 平城京に遷都される
・714年(和銅7年1月20日) 二品氷高内親王に食封一千戸が与えられる
・715年(和銅8年1月10日) 一品に昇叙する
・715年(霊亀元年9月2日) 皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位する
・715年(霊亀元年10月7日) 陸田での麦・粟奨励する
・717年(養老元年4月23日) 行基ら僧尼の活動を非難する詔を出す
・717年(養老元年5月17日) 諸国の百姓の浮浪・逃亡の続出についての詔を出す
・717年(養老元年) 藤原不比等らが中心となって「養老律令」の編纂を始める
・717年(養老元年11月17日) 美濃国の醴泉によって養老と改元する
・719年(養老3年7月13日) 11名の国司が初めて按察使に任命される
・720年(養老4年3月4日) 隼人反乱に際し大伴旅人を征隼人持節第将軍に任命する
・720年(養老4年5月21日) 『日本書紀』が完成し奏上される
・720年(養老4年8月3日) 藤原不比等が亡くなると舎人親王を知太政官事に任命する
・721年(養老5年1月5日) いとこの長屋王を右大臣に任命し、事実上政務を任せる
・721年(養老5年12月7日) 母・元明上皇が亡くなる
・722年(養老6年2月23日) 衛士・役民の逃亡についての詔を出す
・722年(養老6年閏4月25日) 「百万町歩開墾計画」を出す
・723年(養老7年4月17日) 田地の不足を解消するために「三世一身法」を制定する
・724年(神亀元年2月4日) 皇太子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となる
・728年(天平元年2月12日) 長屋王の変が起き、長屋王が自害する
・740年(天平12年) 藤原広嗣の乱が起きる
・741年(天平13年3月24日 聖武天皇によって国分寺建立の詔が出される
・743年(天平15年5月5日) 皇太子(阿倍内親王)が五節舞を舞う
・743年(天平15年) 聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出す
・743年(天平15年5月27日) 「墾田永年私財法」が制定される
・743年(天平15年10月15日) 聖武天皇によって大仏造立の詔が出される
・744年(天平16年2月26日) 聖武天皇の紫香楽行幸に際しては、左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を出させる
・744年(天平16年11月14日) 紫香楽に行幸する
・747年(天平19年) 暮れに発病する
・748年(天平20年4月21日) 奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬される
・750年(天平勝宝2年) 奈保山西陵に改葬される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細


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