ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年04月

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、小説家河野多惠子の生まれた日です。
 河野多惠子(こうの たえこ)は、大阪府大阪市西区で椎茸問屋を営む父・河野為治、母・よねの二女として生まれました。大阪府立市岡高等女学校(現在の港高等学校)を経て、1944年(昭和19)に大阪府女子専門学校(現在の大阪女子大学)経済科に入学します。
 1945年(昭和20)の大阪大空襲で罹災、太平洋戦争後は1949年(昭和24)に肺結核を発病し、2年ほど療養生活をしました。その間、1950年(昭和25)に丹羽文雄主宰の同人誌『文学者』の同人となり、翌年に小説『余燼』が「文学者」に初掲載されます。
 1952年(昭和27)に上京したものの、1957年(昭和32)に肺結核を再発、1961年(昭和36)には父・為治が亡くなるなど困難が続きました。1961年(昭和36)に『幼児狩り』を発表、翌年第8回新潮同人雑誌賞を受賞、同年の『雪』と翌年の『美少女』が芥川賞候補となります。
 1963年(昭和38)に、特異な感覚で意識内の世界をえがいた『蟹』で第49回芥川賞を受賞、1965年(昭和40)には、洋画家の市川泰と結婚しました。その後、『最後の時』(1966年)で第6回女流文学賞、『不意の声』(1968年)で第20回読売文学賞、評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)で第28回読売文学賞、『一年の牧歌』(1980年)で第16回谷崎潤一郎賞と数々の栄誉に輝きます。
 1984年(昭和59)に日本芸術院賞を受賞、1987年(昭和62)から作家の大庭みな子と共に女性として初めて芥川賞の選考委員を務め、読売文学賞や谷崎潤一郎賞の選考委員にもなり、1989年(平成元)には日本藝術院会員にも選ばれました。2002年(平成12)に文化功労者となり、2014年(平成24)に文化勲章を受章しもしたが、翌年1月29日に、東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなっています。

〇河野多惠子の主要な著作

・『余燼(よじん)』(1951年)
・『幼児狩り』(1961年)新潮社同人雑誌賞受賞
・『雪』(1962年)芥川賞候補
・『美少女』(1963年)芥川賞候補
・『蟹(かに)』(1963年)第49回芥川賞受賞
・『最後の時』(1966年)第6回女流文学賞受賞
・『不意の声』(1968年)第20回読売文学賞受賞
・『回転扉』(1970年)
・『雙夢(そうむ)』(1972年)
・評論『谷崎文学と肯定の欲望』(1975年)第28回読売文学賞受賞
・『一年の牧歌』(1980年)第16回谷崎潤一郎賞受賞
・『みいら採り猟奇譚(きたん)』(1990年)野間文芸賞受賞
・『後日の話』(1999年)毎日芸術賞・伊藤整賞受賞
・『秘事』(2000年)
・『半所有者』(2002年)川端康成文学賞受賞

☆河野多惠子関係略年表

・1926年(大正15)4月30日 大阪府大阪市西区にある椎茸問屋の父為治、母よねの二女として生まれる
・1932年(昭和7)4月 大阪市日吉幼稚園に入園するが一学期で退園する
・1933年(昭和8)4月 大阪市日吉小学校に入学する
・1939年(昭和14)4月 大阪府立市岡高等女学校(現 港高等学校)に入学する
・1944年(昭和19)4月 大阪府女子専門学校(現 大阪女子大学)経済科に入学する
・1945年(昭和20)3月 大阪大空襲で罹災、阿倍野区昭和町へ仮寓する
・1949年(昭和24)3月 肺結核を発病する
・1950年(昭和25) 丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」の同人となる
・1951年(昭和26) 小説『余燼(よじん)』が「文学者」に初掲載される
・1952年(昭和27)5月 上京する
・1957年(昭和32)10月 肺結核を再発する
・1961年(昭和36)2月 父・為治が亡くなる
・1961年(昭和36)9月 新宿区戸塚町の下宿に転居する
・1961年(昭和36)11月 『幼児狩り』を発表
・1962年(昭和37)1月 『幼児狩り』で第8回新潮同人雑誌賞受賞、戸塚町の知人の離れに移る
・1962年(昭和37)8月 『雪』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)2月 『美少女』が芥川賞候補となる
・1963年(昭和38)8月 『蟹』で第49回芥川龍之介賞を受賞する
・1963年(昭和38)12月 新宿区早稲田町に転居する
・1965年(昭和40)4月 洋画家の市川泰と結婚する
・1967年(昭和42)4月 『最後の時』で第6回女流文学賞を受賞する
・1967年(昭和42)6月 中野区本町に転居する
・1969年(昭和44)2月 『骨の肉』を発表する
・1969年(昭和44)3月 『不意の声』で第20回読売文学賞を受賞する
・1971年(昭和46)4月 千代田区三番町へ転居する
・1974年(昭和49)10月 『血と貝殻』を発表する
・1977年(昭和52)2月 『谷崎文学と肯定の欲望』で第28回読売文学賞を受賞。この年『骨の肉』が英訳される
・1979年(昭和54)1月 『一年の牧歌』を発表する
・1979年(昭和54)4月 母・よねが亡くなる
・1980年(昭和55)10月 『一年の牧歌』で第16回谷崎潤一郎賞を受賞する
・1984年(昭和59) 日本芸術院賞を受賞する
・1987年(昭和62) 芥川賞選考委員を務める
・1989年(平成元) 日本藝術院会員となる
・1991年(平成3)11月 『みいら採り猟奇譚』で野間文芸賞を受賞する
・1994年(平成6) 『河野多恵子全集』の第一巻が刊行される
・2000年(平成10)1月 『後日の話』で毎日芸術賞を受賞する
・2002年(平成12)4月 『半所有者』で川端康成文学賞を受賞する
・2002年(平成12)11月 文化功労者となる
・2006年(平成16) 芥川賞の選考委員を辞任する
・2014年(平成24) 文化勲章を受章する
・2015年(平成27)1月29日 東京都千代田区の病院において、88歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1358年(正平13)室町幕府初代将軍足利尊氏の命日(新暦6月7日)詳細
1950年(昭和25)図書館法」が公布される(図書館記念日)詳細
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 今日は、江戸時代後期の1855年(安政2)に、経済学者・史学者・政治家田口卯吉の生まれた日ですが、新暦では6月12日となります。
 田口卯吉(たぐち うきち)は、江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれましたが、本名は鉉(みつ)と言いました。1859年(安政6)に父の樫郎が、翌年長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続し、1866年(慶応2)に元服して従士見習いとなります。
 同年12月に幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属され、昌平坂学問所でも学び、1868年(明治元)に徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿し、兵学校と中根淑の漢学塾で学びました。1870年(明治3)に第六期資業生試験に合格し、静岡病院での医学修行を拝命しましたが、それを辞め、1871年(明治4)に乙骨と共に上京、翌年に大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となります。
 洋書翻訳を担当したことが経済学を学ぶ契機となり、翻訳従事のかたわら諸新聞に政治論、経済論を投書しました。1874年(明治7)に大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となり、1877年(明治10)に嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始、翌年には、『自由交易日本経済経済論』を出版します。
 1879年(明治12)に大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、英国の経済雑誌『ECONOMIST』をモデルに「東京経済雑誌」を創刊し、自由主義経済を唱えました。1880年(明治13年)に東京府会議員となり、憲法制定や、条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員として参加し経済関係の論説を担当しました。1882年(明治15)に『日本開化小史』全6巻の刊行が完結、翌年に東京株式取引所の肝煎となり、1884年(明治17)には『大日本人名辞書』の編纂に着手します。
 一方で、1887年(明治20)に両毛鉄道の社長となり、翌年には小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となって、鉄道敷設などに尽力し、1890年(明治23)には南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行いました。1891年(明治24)に歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊、1894年(明治27)に尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選、1896年(明治29)には進歩党を結成します。
 1897年(明治30)に島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織、『国史大系』全17巻の発刊を開始、1898年(明治31)に憲政党創設委員に参加、翌年には法学博士となりました。また、『群書類従』の編集・刊行に携わったり、1900年(明治33)に義和団の乱に際して視察を行うなど多方面で活躍してきましたが、1905年(明治38)4月13日に、東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなっています。

〇田口卯吉の主要な著作

・『自由貿易日本経済論』(1878年)
・『日本開化小史』 (1877~82年)
・『大日本人名辞書』(1884~86年)
・『日本開化之性質』(1885年)
・『日本之意匠及情交』(1886年)
・『日本社会事彙(じい)』全4巻(1890~91年)
・『支那開化小史』全5巻(1890年)
・『楽天論』(1895年)
・編纂『国史大系』全17巻(1897~1901年)
・編纂『続国史大系』全15巻(1902~04年)
・編纂『群書類従』

☆田口卯吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年4月29日) 江戸目白台の徒士屋敷(現東京都文京区目白台)で、幕臣の父・田口樫郎の次男(母は町子)として生まれる
・1859年(安政6年) 父の樫郎が亡くなる
・1860年(万延元年) 長兄の貫一郎が亡くなり、家督を相続する
・1866年(慶応2年) 元服して従士見習いとなる
・1866年(慶応2年12月) 幕府の軍制改革で従士組が廃止され、新設の銃隊に配属される
・1868年(明治元年) 徳川家の静岡移封に伴い沼津へ移住し、沼津兵学校で英語教師をしていた乙骨のもとへ寄宿する
・1870年(明治3年9月) 第六期資業生試験に合格する
・1870年(明治3年12月) 静岡病院での医学修行を拝命する
・1871年(明治4年) 廃藩置県で静岡藩が解消され主な人材が東京へ移ると、乙骨と共に上京する
・1872年(明治5年) 大蔵省翻訳局が発足し、乙骨や尺が登用されると島田とともに応募し上等生徒となる
・1874年(明治7年) 大蔵省翻訳局が廃止となり、大蔵省紙幣寮に異動となる
・1876年(明治9年) 旧幕臣の娘・千代と結婚する
・1877年(明治10年) 嚶鳴社に参加、自費出版で『日本開化小史』の刊行を開始する
・1878年(明治11年) 『自由交易日本経済経済論』を出版する
・1879年(明治12年) 大蔵省を辞職し、翻訳業を手がけつつ新聞への投書や著述活動を行い、「東京経済雑誌」を創刊する
・1880年(明治13年) 東京府会議員となり、憲法制定や条約改正などの政治問題に関しても発言、自由党機関紙「自由新聞」の客員も務める
・1882年(明治15年) 『日本開化小史』全6巻の刊行が完結する
・1883年(明治14年) 東京株式取引所の肝煎となる
・1884年(明治17年) 『大日本人名辞書』の編纂に着手する
・1887年(明治20年) 両毛鉄道の社長となる
・1888年(明治21年) 小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道)取締役となる
・1890年(明治23年) 南島商会を組織し、貿易船天祐丸で南洋渡航を行う、『日本社会事彙』の刊行を開始する
・1891年(明治24年)5月 歴史研究の個人雑誌『史海』を発刊する
・1894年(明治27年) 尾崎三良らと帝国財政革新会を結成し、衆議院議員に当選する
・1896年(明治29年) 進歩党を結成する
・1897年(明治30年) 島田三郎らと財政整理期成同盟会を組織する、『国史大系』全17巻の発刊を開始する
・1898年(明治31年) 憲政党創設委員に参加する
・1899年(明治32年) 法学博士となる
・1900年(明治33年) 義和団の乱に際して視察を行う
・1902年(明治35年) 『続国史大系』15巻の発刊を開始する
・1905年(明治38年)4月13日 東京において、慢性腎炎のため数え年51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1951年(昭和26)沖縄社会大衆党、沖縄人民党を中心に「日本復帰促進期成会」が結成される詳細
2006年(平成18)生口島北IC~生口島南IC(生口島道路)の開通で西瀬戸自動車道が全通する詳細
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 今日は、平安時代末期の1177年(安元3)に、京都で安元の大火(太郎焼亡)が起こった日ですが、新暦では6月3日となります。
 安元の大火(あんげんのたいか)は、この日の夜半に、樋口富小路(現在の京都市下京区万寿寺通富小路)付近で発生し、折からの南東の強風にあおられて、北西方面に扇状に延焼しました。その結果、焼失範囲は、東は富小路、西は朱雀大路、千本通、南は六条大路、北は大内裏までのおよそ180余町(約180万㎡)に及び、2万余家が焼亡し、死者も数千人にのぼったとされています。
 愛宕太郎坊天狗(愛宕山の天狗)が引き起こしたと噂されて、太郎焼亡(たろうじようもう)とも呼ばれてきました。主要な建物では、大極殿を含む八省院全部と朱雀門・応天門・神祇官など大内裏南東部、大学寮・勧学院、関白藤原基房ら公卿の邸宅14家などを焼失しています。
 平安京大内裏の大極殿の焼亡は、876年(貞観18)、1058年(天喜6)に次いで三度目でしたが、以後再建されることはありませんでした。『玉葉』、『愚昧記』、『清獬眼抄』、『方丈記』、『平家物語』などにこの大火の記載がされています。
 以下に、鴨長明著『方丈記』と『平家物語』の安元の大火に関する記述を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『方丈記』鴨長明著の安元の大火に関する記述

<原文>

予ものの心を知れりし[1]より、四十あまりの春秋を送れるあひだに、世の不思議[2]を見る事ややたびたびになりぬ。去 安元三年[3]四月廿八日かとよ、風烈しく吹きて、静かならざりし夜、戌の時[4]ばかり、都の東南より火出で来て、西北に至る。はてには朱雀門[5] 大極殿[6] 大学寮[7] 民部省[8]などまで移りて、一夜のうちに塵灰[9]となりにき。火元は樋口富の小路[10]とかや。舞人を宿せる仮屋より出で来たりけるとなん。
吹きまよふ風に、とかく移りゆくほどに、扇をひろげたるがごとく末広になりぬ。遠き家は煙にむせび、近きあたりはひたすら焔を、地に吹きつけたり。空には灰を吹き立てたれば、火の光に映じて[11]、あまねく[12]紅なる中に、風に堪へず、吹き切られたる焔飛ぶがごとくして、一二町[13]を越えつつ移りゆく。その中の人現し心[14]あらむや。或は煙にむせびて倒れ伏し、或は焔にまぐれて[15]たちまちに死ぬ。或は身ひとつからうじてのがるるも、資財を取り出づるに及ばず。七珍[16]万宝さながら[17]灰燼となりにき。その費[18]いくそばくぞ。そのたび、公卿の家十六焼けたり。ましてその外数へ知るに及ばず。惣て[19]都のうち三分が一に及べりとぞ。男女死ぬるもの数十人、馬牛のたぐひ辺際[20]を知らず。
人のいとなみ皆愚かなるなかに、さしも危ふき京中の家を作るとて、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなく[21]ぞ侍る。

【注釈】

[1]ものの心を知れりし:もののこころをしれりし=物事がわかりはじめてから。大人の考えていることがわかりだす年齢以後。十代の後半期から。
[2]世の不思議:よのふしぎ=現実の世界では予想できない事態。
[3]安元三年:あんげんさんねん=1177年のこと。
[4]戌の時:いぬのとき=午後八時。
[5]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[6]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[7]大学寮:だいがくりょう=朱雀門外にあり、式部省に属して中央官庁の官吏養成に関する教育と事務を管掌した機関。
[8]民部省:みんぶしょう=大内裏の内、諸国の戸口・戸籍・山川・道路・租税・賦役などに関する事務をつかさどった。
[9]塵灰:じんかい/ちりはひ=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[10]樋口富の小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[11]映じて:えいじて=光や影が映って見えて。照り映えて。
[12]あまねく=残る所なく行き渡っている。
[13]町:ちょう=距離の単位を表し、1町は60間(約110m)となる。
[14]現し心:うつしごころ=平常普通の精神状熊。平常心。
[15]まぐれて=目がくらくらして。目がくらんで。
[16]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいう。
[17]さながら=そっくり全部。
[18]費:ついえ=損害。被害。
[19]惣て:そうじて=おおよそ。だいたい。一般に。
[20]辺際:へんさい=はて、かぎり。
[21]あぢきなく=つまらなく。努力のかいがなく。

<現代語訳>

私が物事がわかりはじめてから、四十余年の月日が経過する内に、現実の世界では予想できない事態を目の当たりにすることが、時と共に度重なった。去る安元3年(1177年)の4月28日のことだったか、風が激しく吹き、ちっとも静かにならない夜、午後8時頃、都の東南から出火して、西北方向へ延焼していった。しまいには朱雀門・大極殿・大学寮・民部省などにまで燃え広がり、一晩で灰となってしまった。火元は樋口富の小路だとか言うことだ。舞人を泊めていた仮屋から失火したという。
吹き迷う風によって、あちこちに燃え移るうちに、まるで扇を広げたかのごとくに拡散した。遠くの家では煙にむせ、近辺ではさかんに炎を地に吹きつけていた。その風が空に灰を吹き上げていたので、火の光に照らし出され、一面をを赤く染める中、風に耐え切れず、焼け落ちる家の板きれだろう、風に吹きちぎられた炎が飛ぶようにして、一町も二町も飛び越えては、燃え移って行く。その中にいる人が、普通の気持で、気をたしかに持っていられようか。ある人は煙にむせて倒れ伏し、ある人は炎に目がくらんで、すぐさま死んでしまう。あるいは体一つでかろうじて逃げ出した人も、家財道具を持ち出す余裕はなかった。多くの珍しい宝物も、そっくり灰燼に帰してしまった。その損害はどれほど大きなものか、はかりしれない。公卿の家だけでも、16軒が焼けた。まして、その他の家数は数えようもない。全体では京都の三分の一にも達するという。男女の死者は数十人、馬や牛などにいたっては、どのくらいであったかわからない。
人間の営みは、みんな愚かなことではあるが、これほどに危険のある、京都の街中に家を建てるといって、財産を使い、心を悩ますことは、もっとも愚かでつまらないことだと言いたい。

〇『平家物語』巻第一の内裏炎上(安元の大火)の記述

<原文>

同じき四月廿八日、亥の刻[1]ばかり、樋口富小路[2]より、火出で来て、辰巳の風[3]はげしう吹きければ、京中おほく焼けにけり。大きなる車輪の如くなるほむらが、三町五町をへだてて、戌亥の方[4]へ筋たがへ[5]に飛び越え飛び越え焼きゆけば、恐ろしなんどもおろかなり。あるいは具平親王の千種殿[6]、あるいは北野の天神の紅梅殿[7]、橘逸成の蠅松殿[8]、鬼殿[9]、高松殿[10]、鴨居殿[11]、東三条[12]、冬嗣の大臣の閑院殿[13]、昭宣公の堀川殿[14]、これを始めて、昔今の名所丗余箇所、公卿[15]の家だにも十六箇所まで焼にけり。その外殿上人[16]、諸大夫[17]の家々は記すに及ばず。果ては大内[18]に吹きつけて、朱雀門[19]より始めて、応天門[20]・会昌門[21]・大極殿[22]・豊楽院[23]・諸司八省[24]・朝所[25]、一時がうちに灰燼[26]の地とぞなりにける。家々の日記、代々の文書、七珍[27]万宝、さながら塵灰[28]となりぬ。その間の費へ[29]いかばかりぞ。人の焼け死ぬる事数百人、牛馬のたぐひは数を知らず。これだだごとにあらず、山王[30]の御とがめとて、比叡山より大きなる猿どもが二三千おりくだり、手々に松火をともひて京中を焼くとぞ、人の夢には見えたりける。
大極殿[22]は、清和天皇[31]の御宇、貞観十八年に始めて焼けたりければ、同じき十九年正月三日、陽成院[32]の御即位は、豊楽院[23]にてぞありける。元慶元年四月九日、事始めあって、同じき二年十月八日にぞつくり出だされたりける。後冷泉院[33]の御宇、天喜五年二月廿六日、また焼けにけり。治歴四年八月十四日、事始めありしかども、つくりも出だされずして、後冷泉院[33]崩御なりぬ。後三条院[34]の御宇、延久四年四月十五日つくり出だして、文人詩を奉り、伶人楽を奏して遷幸[35]なし奉る。今は世末になって、国の力も衰へたれば、その後はつひにつくられず。

【注釈】

[1]亥の刻:いのこく=午後十時頃。
[2]樋口富小路:ひぐちとみのこうぢ=樋口は五条街の東西の街路、富小路は南北の街路でその交わったあたり。
[3]辰巳の風:たつみのかぜ=東南の風。
[4]戌亥の方:いぬいのかた=西北の方。
[5]筋たがへに:すじたがへに=斜めに。
[6]千種殿:ちぐさどの=具平親王の邸宅で、六条坊門の南、西洞院の東にあった。
[7]紅梅殿:こうばいどの=菅原道真の邸宅で、京都市綾小路通の南、西洞院通の東で五条坊門の北一町にあった。
[8]蠅松殿:はいまつどの=橘逸勢の邸宅で、姉小路の北、堀川東にあった。
[9]鬼殿:おにどの=京都三条の南、西洞院の東にあった藤原朝成の憤死した家をさす。
[10]高松殿:たかまつどの=京都市中京区姉小路の北、西洞院の東にあった醍醐天皇の皇子源高明の邸宅。
[11]鴨居殿:かもいどの=二条の南、室町の西一町、南北二町の邸宅。
[12]東三条:とうさんじょう=摂関家藤原氏の京邸で、三条坊門の北、西洞院の東にあり、平安時代後期には師通,忠実,忠通,頼長の邸宅となり、寝殿造の一例として名高かった。
[13]閑院殿:かんいんどの=藤原冬嗣の邸宅で、二条大路の南、西洞院大路の西にあった。
[14]堀川殿:ほりかわどの=藤原基経の邸宅で、二条南、堀川の東、南北二町にあった。
[15]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣、左大臣、右大臣をいい、卿は大・中納言、参議および三位以上の貴族をいい、あわせて公卿という。
[16]殿上人:でんじょうびと=電常備と清涼殿の殿上の間(ま)に昇ることを許された人。公卿を除く四位・五位の中で特に許された者、および六位の蔵人をいう。
[17]諸大夫:しょだいぶ=公卿・殿上人を除く地下の四位、五位の廷臣。
[18]大内:たいだい=皇居の異称。内裏。禁中。宮中。大内山。
[19]朱雀門:すざくもん=大内裏の外郭にあった門の一つで、大内裏の南面中央にあった。
[20]応天門:おうてんもん=平安京大内裏八省院南面の正門で朱雀門に相対する。
[21]会昌門:かいしょうもん=平安京の大内裏朝堂院(八省院)の門。朝堂院二十五門の一つ。
[22]大極殿:だいごくでん=大内裏にある朝堂院の正殿で、殿内中央に高御座があり、元来は天皇が国政を行う所。
[23]豊楽院:ぶらくいん=平安京大内裏の南部、朝堂院の西にあった一画。公的儀式のための宴会場で、大嘗会、節会、賜宴、饗宴、射礼などが行なわれた。
[24]諸司八省:しょしはっしょう=多くの役所、中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省の総称。
[25]朝所:あいたんどころ=太政官庁内の北東部にあった建物の名。ここで参議以上の人が会食し、また政務も行なった。
[26]灰燼:かいじん=灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと。
[27]七珍:しちちん=七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙をいう。
[28]塵灰:じんかい=ちりとはい。特に、火事などの後の灰。灰塵。
[29]費へ:ついへ=損害。被害。
[30]山王:さんのう=滋賀県大津市坂本にある日吉大社の祭神。また、その別称。
[31]清和天皇:せいわてんのう=第56代とされる天皇で、在位は858~876年だった。
[32]陽成院:ようぜいいん=第57代とされる天皇で、在位は876~884年、清和天皇の第1皇子でその譲位により即位した。
[33]後冷泉院:ごれいぜいいん=第70代とされる天皇で、在位は1045~1068年だった。
[34]後三条院:ごさんじょういん=第71代とされる天皇で、在位は1068~1072年だった。
[35]遷幸:せんこう=天皇・上皇が他の場所に行くこと。遷御。

<現代語訳>

同年4月28日、午後10時頃、樋口富小路より出火して、東南の風がはげしく吹いたので、京中の多くが焼けた。大きな車輪のような炎が、三町・五町を隔てて、西北の方向へ斜めに飛び越え飛び越えて延焼していったので、恐ろしいどころではなかった。あるいは具平親王の千種殿、あるいは北野の天神の紅梅殿、橘逸成の蠅松殿、鬼殿、高松殿、鴨居殿、東三条、藤原冬嗣大臣の閑院殿、藤原基経の堀川殿、これらを始めとして、今昔の名所30ヶ所余り、公卿の家だけでにも16ヶ所まで焼失した。そのほか殿上人や諸大夫の家々は記すまでもない。ついには内裏に火が吹きつけて、朱雀門を始め、応天門・会昌門・大極殿・豊楽院・諸司八省・朝所は、一時の内に灰燼に帰してしまった。家々の日記、代々の文書、珍しい多くの宝物も、すっかり塵と灰になってしまった。その損害はどれほどになるであろうか。焼死した者は数百人、牛馬の類は数え切れないほどだ。これはただ事ではない、山王権現のお咎めというので、比叡山から大きな猿達が二、三千匹降り下ってきて、手に手に松明を灯して京中を焼いてしまったのだと、人が夢に見るほどであった。
大極殿は、清和天皇の御世、貞観18年(876年)に始めて焼けてしまったので、貞観19年1月3日の陽成天皇の即位式は、豊楽院で行われた。元慶元年(877年)4月9日に着工式があって、元慶2年(878年)10月8日に竣工した。後冷泉天皇の御世、天喜5年(1057年)2月26日、再び焼失してしまった。治歴4年(1068年)8月14日、着工式があったけれども、竣工しない内に、後冷泉天皇が崩御されてしまった。後三条天皇の御世、延久4年(1072年)4月15日に竣工して、文人が詩を奉納、楽人が音楽を奏して、天皇をお迎えした。今は末世になって、国力も衰微したので、その後は終に再建されることはなかった。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1948年(昭和23)夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される詳細
1952年(昭和27)日米安全保障条約」(旧)が発効する詳細
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 今日は、明治時代後期の1907年(明治40)に、国際的に活躍した版画家斎藤清の生まれた日です。
 斎藤清(さいとう きよし)は、福島県河沼郡会津坂下町に生まれましたが、1912年(明治45)に父の事業の失敗により北海道夕張市に転居しました。1921年(大正10)に夕張尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出、その後、北海道ガス小樽支店の見習い職工、小樽、札幌の看板店で働いてから、看板店を自営します。
 1929年(昭和4)に小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習い、1931年(昭和6)には、上京し、宣伝広告業のかたわら独学で油絵を学びました。1932年(昭和7)に第9回白日会展に油彩画『高円寺風景』が初入選、翌年の第1回東光会展にも入選、1935年(昭和10)には、第10回国画会展に油彩画『樹間雪景』が入選します。
 1936年(昭和11)に安井曽太郎に触発され、初めて木版画を制作して、第5回日本版画協会展に木版画『少女』出品、入選を果たし、翌年の第12回国画会展版画部門にも『郷の人』、『子供坐像』で入選し、版画に傾倒していきました。1944年(昭和19)に朝日新聞者に入社し、文字・カットなどを担当し、太平洋戦争後も日本版画協会、国画会版画部に参加します。
 1949年(昭和24)にサロン・ド・プランタン展に『ミルク』を出品して1等賞を受賞、1951年(昭和26)には、サンパウロ・ビエンナーレに『凝視 (花)』を出品、サンパウロ日本人賞を受賞し国際的に注目されました。1954年(昭和29)に朝日新聞社を退社して、版画制作に専念し、世界を巡り、海外の美術展で度々受賞、国際的な声価を得ます。
 日本の伝統表現に、西洋の近代造形を取り入れた詩情あふれる作品を得意とし、国内でも展覧会が何度も開催されました。1970年(昭和45)に、連作『会津の冬』最初の20点を発表。鎌倉市に転居しましたが、1987年(昭和62)には、故郷会津の柳津町に移ります。
 1995年(平成7)に文化功労者に選ばれ、1997年(平成9)には町立斎藤清美術館が開館しましたが、同年11月14日に90歳で亡くなりました。

〇斎藤清の主要な作品

・油彩画『高円寺風景』(1932年)第9回白日会展入選
・油彩画『樹間雪景』(1936年)第11回国画会展入選
・木版画『少女』(1936年)第5回日本版画協会展入選
・木版画『郷の人』(1937年)第12回国画会展版画部門入選
・木版画『子供坐像』(1937年)第12回国画会展版画部門入選
・油彩画『裸婦と少女』(1939年)第26回二科展入選
・木版画『ミルク』(1949年)サロン・ド・プランタン展1等賞受賞
・木版画『凝視 (花)』(1951年)サンパウロ・ビエンナーレでサンパウロ日本人賞受賞
・木版画『館』(1957年)第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレで受賞
・連作『会津の冬』(1970年)

☆斎藤清関係略年表

・1907年(明治40)4月27日 福島県河沼郡会津坂下町に生まれる
・1912年(明治45) 父の事業の失敗により北海道夕張市に転居する
・1921年(大正10) 14歳、夕張尋常小学校卒業後、小樽の薬局に奉公に出る
・1924年(大正13) 17歳、北海道ガス小樽支店の見習い職工となる
・1927年(昭和2) 20歳、小樽、札幌の看板店で働いた後、看板店を自営する
・1929年(昭和4) 22歳、小学校の図画教師であった成田玉泉にデッサンや油彩画を習う
・1930年(昭和5) 23歳、一時上京する
・1931年(昭和6) 24歳、再度上京し、宣伝広告業のかたわら独学で油絵を学ぶ
・1932年(昭和7) 25歳、第9回白日会展に油彩画『高円寺風景』を出品、初入選する
・1933年(昭和8) 26歳、第1回東光会展に油彩が入選する。
・1935年(昭和10) 28歳、第10回国画会展に油彩画『樹間雪景』を出品、初入選する
・1936年(昭和11) 29歳、安井曽太郎に触発され、初めて木版画を制作。第5回日本版画協会展に木版画『少女』出品、初入選する
・1937年(昭和12) 30歳、第12回国画会展版画部門に『郷の人』、『子供坐像』で初入選、離郷後初めて会津坂下町の叔母を訪ねる
・1939年(昭和14) 32歳、第26回二科展に油彩画『裸婦と少女』で初入選する、造型版画協会会員となる
・1940年(昭和15) 33歳、『会津の冬』の第1号を制作する
・1943年(昭和18) 36歳、一木会に入会する
・1944年(昭和19) 37歳、朝日新聞社に入社する、第13回日本版画協会展に『会津の冬 坂下』を出品して同会会員となる
・1946年(昭和21) 39歳、第14回日本版画協会展に「会津の冬(A)(B)(C)」「会津の冬(子供)」などを出品する
・1949年(昭和24) 42歳、国画会会員に推挙される。サロン・ド・プランタン展に『ミルク』を出品、1等賞を受賞する
・1951年(昭和26) 44歳、サンパウロ・ビエンナーレに『凝視 (花)』を出品、サンパウロ日本人賞受賞、東京・三越で「斎藤清創作版画展」を開催する
・1952年(昭和27) 45歳、アメリカ (ニューヨーク)での初の個展を開催する
・1954年(昭和29) 47歳、朝日新聞社を退社して、版画制作に専念することとする
・1955年(昭和30) 48歳、アメリカ・シアトル美術館で「斎藤清と彼の仲間たち展」開催する
・1956年(昭和31) 49歳、アメリカ、メキシコを訪問、各地の実技指導を実施して個展を開催、東京で「第1回棟方志功・斎藤清近作発表展」を開催する
・1957年(昭和32) 50歳、第2回リュブリアナ国際版画ビエンナーレに『館』を出品し受賞、アジア・アフリカ諸国国際美術展に出品し受賞する
・1959年(昭和34) 52歳、訪仏し、パリに滞在してスケッチを重ねる
・1962年(昭和37) 55歳、「斎藤清版画展」のためニューヨークを訪問する
・1964年(昭和39) 57歳、ハワイ大学芸術祭に招待される。ホノルル美術館で版画展を開催する
・1965年(昭和40) 58歳、版画展のためオーストラリア訪問、帰途タヒチを取材する
・1967年(昭和42) 60歳、インド文化省主催による版画展のためインドを訪れる
・1969年(昭和44) 62歳、カナダ・グレータービクトリア美術館、アメリカ・サンディエゴ美術館で「斎藤清展」を開催する
・1970年(昭和45) 63歳、連作『会津の冬』最初の20点を発表。鎌倉市に転居する
・1976年(昭和51) 69歳、福島県より県外在住者知事表彰を受け、柳津町名誉町民となる
・1977年(昭和52) 70歳、「斎藤清展」のためチェコスロヴァキアを訪れる
・1981年(昭和56) 74歳、秋の叙勲で勲四等瑞宝章の栄誉を受ける
・1983年(昭和58) 76歳、「斎藤清展」を神奈川県立近代美術館で開催する
・1987年(昭和62) 80歳、鎌倉市から柳津町に転居する
・1989年(昭和64) 81歳、第38回河北文化賞を受賞する
・1993年(平成5) 86歳、夕張市栄誉賞を受ける
・1995年(平成7) 88歳、国の文化功労者に顕彰される。
・1997年(平成9) 90歳、やないづ町立斎藤清美術館が開館する
・1997年(平成9)11月14日 90歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)帝国図書館官制が公布され、上野の東京図書館を帝国図書館とする詳細
2013年(平成25)推理作家・評論家佐野洋の命日詳細
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100mantoudarani01

 今日は、奈良時代の770年(神護景雲4)に、百万塔陀羅尼を作らせて諸寺に分配するようにした日ですが、新暦では5月25日となります。
 百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)は、奈良時代に作られた百万基の木製小塔(三重塔・七車塔・十三重塔)に陀羅尼経(相輪・自心・根本・六度の四種)を納めたものでした。天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱平定後、亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈って、称徳天皇が発願したものです。
 765年(天平神護1)より770年(神護景雲4)まで数年をかけて完成しのした。基本は木造の三重小塔(高さ約約21.5㎝)ですが、1万個ごとに高さ約50cmの七重塔(一万節塔)を計100個作り、10万個ごとに高さ約60cmの十三重塔(十万節塔)を計10個作製しています。その露盤の内部に、縦約5cm,横15〜50cmの紙製の陀羅尼一巻(現存する日本最古の印刷物とされる)が収納されていましたが、根本(40行)・相輪(23行)・自心印(31行)・六度(15行)の四種のものが見つかりました。
 『東大寺要録』本願章天平宝字八年九月十一日条、諸院章第四「東西小塔院」に、「十大寺」に分置されたとあり、それは大和の大安寺、元興寺、興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、法隆寺、弘福寺(川原寺)、河内の四天王寺、近江の崇福寺で、10万基ずつ寄進されています。現在は、法隆寺に伝来した4万数千基が残るのみですが、その内、法隆寺所蔵の三重の小塔100基、七重の一万節塔と十三重の十万節塔それぞれ1基、塔内納入の陀羅尼270巻が国指定重要文化財となりました。
 尚、『続日本紀』巻第三十の宝亀元年四月戊午条に記載されている百万塔陀羅尼に関する記述を以下に現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十の宝亀元年(770年)四月戊午(26日)条

<原文>
「戊午。初め天皇。八年亂平。乃發弘願。令造三重小塔一百万基。高各四寸五分。基徑三寸五分。露盤之下。各置根本。慈心。相輪。六度等陀羅尼。至是功畢。分置諸寺。賜供事官人已下仕丁已上一百五十七人爵。各有差。」

<読み下し文>
「戊午。初天皇。八年亂[1]平きて[2]。乃ち弘願[3]を發して、三重の小塔一百万基を造ら令む。高さ各四寸五分、基の徑三寸五分、露盤[4]の下に、各根本、慈心、相輪、六度等の陀羅尼[5]を置く。功畢て是に至て、諸寺[6]に分置す。事に供する官人已下仕丁[7]已上一百五十七人に爵[8]を賜こと、各差有り。」

【注釈】

[1]八年亂:はちねんらん=天平宝字8年(764年)の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱のこと。
[2]平きて:たいらきて=平定されて。
[3]弘願:ぐがん=一切の衆生を救おうとする弘大な誓願。広く人々を救おうとする願のこと。
[4]露盤:ろばん=仏塔の相輪のいちばん下にある基盤。
[5]陀羅尼:だらに=災害や兵乱などの消滅を願う密教の呪文の経で、根本、慈心、相輪、六度等によって構成されていた。
[6]諸寺:てらでら=諸寺。寺々のことだが、ここでは、大安寺 元興寺 弘福寺 薬師寺 四天王寺 興福寺 法隆寺 崇福寺 東大寺 西大寺を指す。
[7]仕丁:しちょう=中央官司の雑役にあてられた人民。
[8]爵:しゃく=位階。位。

<現代語訳>
「戊午(宝亀元年4月26日)、初め(称徳)天皇は、(天平宝字)8年の恵美押勝の乱が平定された時に、一切の衆生を救おうとする大願を起こして、三重の小塔を百万基造らせた。高さ各四寸五分、基部の直径三寸五分、露盤の下に、それぞれ根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼経を収めた。ここに至って完成したので、諸寺に分置した。これに携わった官人以下仕丁以上の者157人に、その地位に応じての位を授与した。」

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)俳人飯田蛇笏の誕生日詳細
1956年(昭和31)首都圏整備法」が公布される詳細
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