今日は、奈良時代の770年(神護景雲4)に、百万塔陀羅尼を作らせて諸寺に分配するようにした日ですが、新暦では5月25日となります。
百万塔陀羅尼(ひゃくまんとうだらに)は、奈良時代に作られた百万基の木製小塔(三重塔・七車塔・十三重塔)に陀羅尼経(相輪・自心・根本・六度の四種)を納めたものでした。天平宝字8年(764年)の恵美押勝の乱平定後、亡くなった人々の菩提を弔い、鎮護国家を祈って、称徳天皇が発願したものです。
765年(天平神護1)より770年(神護景雲4)まで数年をかけて完成しのした。基本は木造の三重小塔(高さ約約21.5㎝)ですが、1万個ごとに高さ約50cmの七重塔(一万節塔)を計100個作り、10万個ごとに高さ約60cmの十三重塔(十万節塔)を計10個作製しています。その露盤の内部に、縦約5cm,横15〜50cmの紙製の陀羅尼一巻(現存する日本最古の印刷物とされる)が収納されていましたが、根本(40行)・相輪(23行)・自心印(31行)・六度(15行)の四種のものが見つかりました。
『東大寺要録』本願章天平宝字八年九月十一日条、諸院章第四「東西小塔院」に、「十大寺」に分置されたとあり、それは大和の大安寺、元興寺、興福寺、薬師寺、東大寺、西大寺、法隆寺、弘福寺(川原寺)、河内の四天王寺、近江の崇福寺で、10万基ずつ寄進されています。現在は、法隆寺に伝来した4万数千基が残るのみですが、その内、法隆寺所蔵の三重の小塔100基、七重の一万節塔と十三重の十万節塔それぞれ1基、塔内納入の陀羅尼270巻が国指定重要文化財となりました。
尚、『続日本紀』巻第三十の宝亀元年四月戊午条に記載されている百万塔陀羅尼に関する記述を以下に現代語訳・注釈付きで掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇『続日本紀』巻第三十の宝亀元年(770年)四月戊午(26日)条
<原文>
「戊午。初め天皇。八年亂平。乃發弘願。令造三重小塔一百万基。高各四寸五分。基徑三寸五分。露盤之下。各置根本。慈心。相輪。六度等陀羅尼。至是功畢。分置諸寺。賜供事官人已下仕丁已上一百五十七人爵。各有差。」
<読み下し文>
「戊午。初天皇。八年亂[1]平きて[2]。乃ち弘願[3]を發して、三重の小塔一百万基を造ら令む。高さ各四寸五分、基の徑三寸五分、露盤[4]の下に、各根本、慈心、相輪、六度等の陀羅尼[5]を置く。功畢て是に至て、諸寺[6]に分置す。事に供する官人已下仕丁[7]已上一百五十七人に爵[8]を賜こと、各差有り。」
【注釈】
[1]八年亂:はちねんらん=天平宝字8年(764年)の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱のこと。
[2]平きて:たいらきて=平定されて。
[3]弘願:ぐがん=一切の衆生を救おうとする弘大な誓願。広く人々を救おうとする願のこと。
[4]露盤:ろばん=仏塔の相輪のいちばん下にある基盤。
[5]陀羅尼:だらに=災害や兵乱などの消滅を願う密教の呪文の経で、根本、慈心、相輪、六度等によって構成されていた。
[6]諸寺:てらでら=諸寺。寺々のことだが、ここでは、大安寺 元興寺 弘福寺 薬師寺 四天王寺 興福寺 法隆寺 崇福寺 東大寺 西大寺を指す。
[7]仕丁:しちょう=中央官司の雑役にあてられた人民。
[8]爵:しゃく=位階。位。
<現代語訳>
「戊午(宝亀元年4月26日)、初め(称徳)天皇は、(天平宝字)8年の恵美押勝の乱が平定された時に、一切の衆生を救おうとする大願を起こして、三重の小塔を百万基造らせた。高さ各四寸五分、基部の直径三寸五分、露盤の下に、それぞれ根本・慈心・相輪・六度等の陀羅尼経を収めた。ここに至って完成したので、諸寺に分置した。これに携わった官人以下仕丁以上の者157人に、その地位に応じての位を授与した。」
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