今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、小説家田村俊子の亡くなった日です。
田村俊子 (たむら としこ)は、1884年(明治17)4月25日に、東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)で、米穀商を営む佐藤家の一人娘(母はきぬ)として生れましたが、本名は佐藤としと言いました。1900年(明治33)に東京府立第一高等女学校を卒業後、日本女子大学校国文科へ入学しましたが、病気のためまもなく退学しています。
1902年(明治35)に作家を志し、幸田露伴の門下に入り、翌年には、露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣』を「文芸倶楽部」に発表しました。1906年(明治39)に、露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になり、1909年(明治42)には田村松魚と結婚(事実婚)します。
1911年(明治44)に長編小説『あきらめ』が「大阪朝日新聞」懸賞小説一等になり文壇デビューを果たし、同年創刊された女性向けの文学雑誌「青鞜」創刊号に『生血』という小説を投稿しました。その後、『誓言』、『嘲弄』(共に1912年)、『遊女』(のち『女作者』と改題)、『木乃伊 (ミイラ) の口紅』(共に1913年)、『圧迫』(1915年)などを次々と発表し、執拗な官能描写で、自意識の相克を描き、第一線の流行作家となります。
しかし生活面で乱れて破綻をきたし、1918年(大正7)には、松魚と別れ、朝日新聞記者鈴木悦の後を追ってバンクーバーへ移住、18年間滞在しました。1936年(昭和11)に日本へ帰国し、1938年(昭和13)には小説『山道』を「中央公論」に発表するなど再起を試みましたが成功せず、同年に中央公論社の特派員として中国へ渡ります。
1942年(昭和17)に上海で華字婦人雑誌「女声」を創刊したりしましたが、1945年(昭和20)4月16日に、搬送された上海の病院で脳溢血により、数え年62歳で客死しました。尚、1960年(昭和35)に女流文学者の作品、活動に授与される田村俊子賞が設けられましたが、第17回で終了しています。
〇田村俊子の主要な著作
・小説『露分衣(つゆわけごろも)』(1903年)
・長編『あきらめ』(1911年)「大阪朝日新聞」懸賞小説1等当選
・『生血』(1911年)
・『誓言』(1912年)
・『嘲弄』(1912年)
・『遊女』(1913年)のち『女作者』と改題
・『木乃伊 (ミイラ) の口紅』(1913年)
・『圧迫』(1915年)
・『山道』(1938年)
☆田村俊子関係略年表
・1884年(明治17)4月25日 東京府東京市浅草区蔵前町(現在の東京都台東区蔵前)で、米穀商を営む佐藤家の一人娘(母はきぬ)として生れる
・1893年(明治26)4月 浅草小学校(現在の台東区立浅草小学校)に入学する
・1894年(明治27)2月 下谷区下谷金杉上町に移住し、下谷区根岸尋常高等小学校(現在の台東区立根岸小学校)に編入学する
・1895年(明治28) 浅草区馬道(現在の台東区浅草、花川戸辺り)に転居し浅草小学校に再編入学する
・1896年(明治29) 東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大学附属中学校・附属高等学校)に入学するが、僅か1学期で退学する
・1896年(明治29) 東京府立第一高等女学校(現在の東京都立白鴎高等学校・附属中学校)に転学する
・1900年(明治33)3月 東京府立第一高等女学校を卒業する、
・1900年(明治33)4月 日本女子大学校国文科へ入学するも病気のためまもなく退学する
・1902年(明治35)4月 作家を志し、幸田露伴の門下に入る
・1903年(明治36)2月 露伴から与えられた露英の名で、小説『露分衣(つゆわけごろも)』を「文芸倶楽部」に発表する
・1906年(明治39) 露伴から離れ、岡本綺堂らの文士劇に参加したことをきっかけに女優になる
・1909年(明治42) 田村松魚と結婚(事実婚)する
・1911年(明治44)2月 長編『あきらめ』が「大阪朝日新聞」懸賞小説一等になり文壇デビューする
・1911年(明治44)9月 創刊された女性向けの文学雑誌「青鞜」創刊号に『生血』という小説を投稿する
・1912年(大正元)11月 『嘲弄』を「中央公論」へ発表する
・1913年(大正2)1月 『遊女』(のち『女作者』と改題)を「新潮」に発表する
・1913年(大正2)4月 『木乃伊 (ミイラ) の口紅』を「中央公論」に発表する
・1915年(大正4)3月 『圧迫』を「中央公論」に発表する
・1918年(大正7)10月 朝日新聞記者鈴木悦の後を追い、松魚と別れバンクーバーへ移住する
・1936年(昭和11)3月 日本へ帰国する
・1938年(昭和13)11月 小説『山道』を「中央公論」に発表する
・1938年(昭和13)12月 中央公論社の特派員として中国へ渡る
・1942年(昭和17) 上海で華字婦人雑誌「女声」を創刊する
・1945年(昭和20)4月13日 中国・上海で友人の中国人作家陶晶孫の家から人力車で帰宅途中に昏倒する
・1945年(昭和20)4月16日 搬送された上海の病院で脳溢血により、数え年62歳で客死する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1882年(明治15) | 大隈重信らが立憲改進党を結成する | 詳細 |
1956年(昭和31) | 日本道路公団が設立される | 詳細 |