今日は、南北朝時代の1336年(建武3年/延元元)に、第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
後伏見天皇(ごふしみてんのう)は、鎌倉時代の1288年(弘安11年3月3日)に、伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれましたが、名は胤仁(たねひと)と言いました。同年8月に親王宣下され、翌年に立太子し、永福門院の猶子となります。
1298年(永仁6)の11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷き、両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立て、第93代の天皇として即位しました。1300年(正安2)の13歳の時、元服しましたが、翌年には、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位させられます。
1308年(徳治3)に後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位し、1313年(正和2)には、院政を敷いていた伏見上皇が出家したので、これを引き継いで院政を敷きました。1318年(文保2)に花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わり、1326年(嘉暦元)には後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立ちます。
1331年(元弘元)に後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられ、鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。しかし、1333年(元弘3)に幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れたものの、捕らえられて京都に連れ戻されます。
同年5月17日に光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わり、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となりましたが、1336年(建武3年/延元元年4月6日)に京都において、数え年49歳で亡くなりました。一方歌を能くし、仙洞五十番歌合(1303年)、十五夜五首会(1312年)などに出詠、歌集『後伏見院御集』(107首所収)を成し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集へ計94首が入集、また、能書家としても知られています。
<代表的な歌>
・「夕山や ふもとの檜 原色さめて 残る日影ぞ みねにすくなき」(風雅和歌集)
・「雨しほる やよひの山の 木がくれに のこるともなき 花の色かな」(風雅和歌集)
・「夜すがらの 野分の風の 跡みれば 末ふす萩に 花ぞまれなる」(玉葉和歌集)
・「今更に その世もよほす 雲の色 よわすれてただに 過ぎし夕べを」(玉葉和歌集)
・「都には あらしばかりの さゆる日も 外山をみれば 雪ふりにけり」(続千載和歌集)
〇後伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1288年(弘安11年3月3日) 伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれる
・1288年(弘安11年8月10日) 親王宣下される
・1289年(正応2年4月25日) 2歳の時、立太子し、永福門院の猶子となる
・1298年(永仁6年7月22日) 11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷く
・1298年(永仁6年8月) 両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立てる
・1298年(永仁6年10月13日) 第93代とされる天皇として即位する
・1300年(正安2年1月3日) 13歳の時、元服する
・1301年(正安3年1月21日) 14歳の時、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位する
・1303年(乾元2年閏4月) 仙洞五十番歌合に出詠する
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位する
・1312年(正和元年8月) 十五夜五首会に出詠する
・1313年(正和2年) 伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで院政を敷く
・1313年(正和2年7月9日) 母を女御寧子として、第三皇子(量仁親王)が生まれる
・1318年(文保2年2月26日) 花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わる
・1326年(嘉暦元年) 後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立つ
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられる
・1331年(元弘元年9月20日) 鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行なう
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れるが、捕らえられて京都に連れ戻される
・1333年(元弘3年5月17日) 光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わる
・1333年(元弘3年6月26日) 46歳の時、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となる
・1336年(建武3年/延元元年4月6日) 京都において、数え年49歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1742年(寛保2) | 江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日) | 詳細 |
2017年(平成29) | 「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される | 詳細 |