今日は、江戸時代前期の1609年(慶長14)に、江戸時代の大名・備前岡山藩初代藩主池田光政の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
池田光政(いけだ みつまさ)は、岡山で、姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男(母は徳川秀忠養女、榊原康政娘・鶴姫)として生まれましたが、幼名は幸隆(よしたか)と言いました。1611年(慶長16)に江戸に赴いて第2代将軍徳川秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられ、1613年(慶長18)には祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移ります。
1613年(慶長18年)に父・利隆と共に徳川家康に謁見、1616年(元和2)に父・利隆が亡くなると、幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となりました。1617年(元和3年3月6日)に幼少を理由に因幡鳥取32万5,000石に減転封となり、1620年(元和6年)には、幕府より大坂城城壁の修築を命じられます。
1623年(元和9)に秀忠の上洛に従って京都に入り、15歳で元服し、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗りました。家光の参内に先立って従四位下・侍従に叙任され、供奉の一員に選ばれ、1626年(寛永3)の家光の再上洛にも従い、左近衛少将に叙任されます。
1628年(寛永5)に本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎え、1632年(寛永9)に叔父の岡山藩主・池田忠雄が亡くなると、江戸に召しだされ、岡山31万5,000石へ移封となりました。1634年(寛永11)に社倉法を設け、1641年 (寛永18) に全国初の藩校花畠教場を設立、1645年(正保2)に熊沢蕃山を登用、1645年(正保2)に岡山城下の総鎮守として東照宮を勧進するなど治世を進めます。
さらに、1654年(承応3)に家臣からの諫言を受け入れるため諌箱を設置、1669年(寛文9)に旭川の洪水から岡山城下を守るため、放水路である百間川を開削させ、翌年には日本最古の庶民の学校として郷学閑谷学校を開設するなどの実績を上げました。1672年(寛文12)に藩主の座を嫡男・綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居したものの、実験は握り続け、1679年(延宝7)には土木巧者津田永忠を起用し、初の藩営干拓事業として倉田新田約300haを開かせたりします。
諸制を改革、文武を奨励し藩政改革に尽力してきましたが、1681年(天和元)に岡山に帰国した頃から体調を崩し、岡山城西の丸で養生したものの、翌年5月22日に岡山において、数え年74歳で亡くなりました。後世には、水戸藩主・徳川光圀や会津藩主・保科正之と並び称される江戸時代前期の名君とされています。
〇池田光政関係略年表(日付は旧暦です)
・1609年(慶長14年4月4日) 岡山で、姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男(母は徳川秀忠養女、榊原康政娘・鶴姫)として生まれる
・1611年(慶長16年) 江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる
・1613年(慶長18年) 祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移る
・1613年(慶長18年) 父・利隆と共に徳川家康に謁見する
・1616年(元和2年6月13日) 父・利隆が死去した。
・1616年(元和2年6月14日) 幕府より家督相続を許され、跡を継いで42万石の姫路藩主となる
・1617年(元和3年3月6日) 幼少を理由に因幡鳥取32万5,000石に減転封となる
・1620年(元和6年) 幕府より大坂城城壁の修築を命じられる
・1623年(元和9年6月) 第2代将軍・徳川秀忠の上洛に従って京都に入る
・1623年(元和9年8月3日) 15歳で元服し、第3代将軍・徳川家光の偏諱を拝受し光政と名乗る
・1623年(元和9年8月6日) 家光の参内に先立って従四位下・侍従に叙任され、供奉の一員に選ばれる
・1626年(寛永3年8月) 家光上洛にも従い、左近衛少将に叙任される
・1628年(寛永5年1月26日) 本多忠刻の娘・勝子(円盛院)を大御所の秀忠の養女として正室に迎える
・1632年(寛永9年4月3日) 叔父の岡山藩主・池田忠雄が死去する
・1632年(寛永9年5月) 江戸に召しだされる
・1632年(寛永9年6月) 岡山31万5,000石へ移封となり、光仲が鳥取32万5,000石に国替えとなる
・1634年(寛永11年) 社倉法を設ける
・1641年 (寛永18年) 全国初の藩校花畠教場を設立する
・1645年(正保2年) 熊沢蕃山を登用する
・1645年(正保2年) 岡山城下の総鎮守として東照宮を勧進する
・1654年(承応3年) 家臣からの諫言を受け入れるため諌箱を設置する
・1669年(寛文9年) 旭川の洪水から岡山城下を守るため、放水路である百間川を開削させる
・1670年(寛文10年) 日本最古の庶民の学校として郷学閑谷学校を開設する
・1672年(寛文12年6月11日) 藩主の座を嫡男・綱政に譲り、岡山城西之丸に隠居する
・1672年(寛文12年10月26日) 母の福正院が亡くなる
・1674年(延宝2年) 聖堂などを創建する
・1678年(延宝6年10月7日) 正室の勝子が亡くなる
・1679年(延宝7年) 初の藩営干拓事業として倉田新田約300haを開かせる
・1681年(天和元年10月) 岡山に帰国した頃から体調を崩し、岡山城西の丸で養生する
・1682年(天和2年5月22日) 岡山において、数え年74歳で亡くなる
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