ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年03月

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 今日は、平安時代前期の835年(承和2)に、平安時代の僧・真言宗の開祖空海(弘法大師)の亡くなった日ですが、新暦では4月22日となります。
 空海(くうかい)は、奈良時代の774年(宝亀5)に讃岐国多度郡屏風浦(現在の香川県善通寺市)で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれましたが、名は眞魚(まお)といいました。788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。
 792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。
 803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、唐の長安へ入りました。805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。
 翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。
 816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。
 823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。
 また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。

〇空海(弘法大師)の主要な著作

・『三教指帰(さんごうしいき)』(797年)
・『文筆眼心抄』(820年)
・『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』(830年)
・『秘蔵宝鑰(ほうやく)』
・『弁顕密(べんけんみつ)二教論』
・『即身成仏義(そくしんじょうぶつぎ)』
・漢詩集『性霊集』
・『文鏡秘府論(ぶんきょうひふろん)』
・『篆隷(てんれい)万象名義』
・『声字実相義(しょうじじっそうぎ)』
・『吽字義(うんじぎ)』
・『般若心経秘鍵(ひけん)』
・書簡『風信帖』

☆空海(弘法大師)関係略年表(日付は旧暦です)

・774年(宝亀5年) 讃岐国多度郡屏風浦で、郡司の父・佐伯直田公(さえきのあたいたぎみ)、母・阿刀大足の娘の子として生まれる
・788年(延暦7年) 平城京に上る
・789年(延暦8年) 15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学ぶ
・792年(延暦11年) 18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学ぶ
・793年(延暦12年) 大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされる
・798年(延暦18年) 24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示す
・803年(延暦22年) 医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念する
・804年(延暦23年) 第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡る
・804年(延暦23年12月) 唐の長安へ入る 
・805年(延暦24年) 長安醴泉寺(れいせんじ)の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習する
・805年(延暦24年6月) 青龍寺の恵果(けいか)から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぐ
・805年(延暦24年12月15日) 恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書く
・806年(大同元年10月) 膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着する
・806年(大同元年12月) 『請来(しょうらい)目録』を朝廷に差し出す
・809年(大同4年) 京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始する
・810年(大同5年) 国家を鎮める修法を行なう
・812年(弘仁3年) 比叡山の最澄や弟子に灌頂を授ける
・816年(弘仁7年7月8日) 43歳のとき、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨(さが)天皇に上奏して勅許を得る
・819年(弘仁10年5月) 高野山の伽藍建立に着手する
・820年(弘仁11年) 『文筆眼心抄』が成立する
・821年(弘仁12年9月) 四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力する
・823年(弘仁14年1月) 京都の東寺(教王護国寺)を給預され、京都における真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努める
・824年(天長元年) 大僧都に任ぜられる
・828年(天長5年12月) 東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設する
・830年(天長7年) 『十住心論』が成立する
・835年(承和2年1月) 宮中真言院で後七日御修法を行なう
・835年(承和2年3月21日) 高野山において、数え年62歳で亡くなる
・921年(延喜21年) 醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1934年(昭和9)函館大火が起こり、22,667戸焼失、死者2,166名、負傷者9,485名を出す詳細
1972年(昭和47)奈良県明日香村の高松塚古墳の石室で極彩色壁画を発見する詳細


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 今日は、昭和時代前期の1935年(昭和10)に、日本画家速水御舟が亡くなった日です。
 速水御舟(はやみ ぎょしゅう)は、明治時代後期の1894年(明治27)8月2日に、東京府東京市浅草区で、質屋を営む父・蒔田良三郎、母・いとの次男として生まれました。1908年(明治41)に東京市立育英尋常高等小学校高等科を卒業後、蒔田家近隣の容斎派の画家松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門します。
 1909年(明治42)に画才を認められ、禾湖(かこ)の画号を受け、翌年に初めて巽画会展に『小春』を出品、続いて、烏合会展に『楽人』を出品しました。1911年(明治44)に巽画会展に『室寿の讌』を出品、一等褒状を受け宮内省買い上げとなり、同門兄弟子の今村紫紅に従い紅児会に入会、翌年には画号を自ら浩然(こうねん)と改めます。
 1914年(大正3)に蒔田家を出て母方の速水家を継ぎ、画号を御舟(ぎょしゅう)と改め、今村紫紅を中心とした美術団体・赤曜会の結成に参加しました。1917年(大正6)に第4回院展に『洛外六題』を出品し、横山大観、下村観山らに激賞され、日本美術院の同人に推挙されましたが、1919年(大正8)に市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われます。
 しかし、1920年(大正9)に院展に細密描写の大作『京の舞妓(まいこ)』を出品、1925年(大正14)に軽井沢に別荘を借りて一家で滞在中に代表作の1つである『炎舞』を完成させ、1929年(昭和4)の第16回院展には『名樹散椿』を出品しました。1930年(昭和5)に美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に横浜港より船で渡欧、イタリア政府よりオクイシェー・クーロンヌ勲章を受章し、ヨーロッパ各地およびエジプトを巡り、同年帰国します。
 1931年(昭和6)にドイツ・ベルリンの日本現代画展で出品作品が好評を博し、ドイツ政府より赤十字二等名誉勲章を受章しました。日本画の装飾性に近代的な写実を加え、特に細密描写を得意としましたが、1935年(昭和10)2月に発病、腸チフスと診断され、同年3月20日に東京の日本赤十字病院において、数え年42歳で急逝しています。

〇速水御舟の主要な作品

・『小春』(1910年)巽画会展出品
・『楽人』(1910年)烏合会展出品
・『室寿の讌(むろほぎのえん)』(1911年)巽画会展一等褒状受賞
・『洛外(らくがい)六題』(1917年)第4回院展出品
・『京の舞伎(きょうのまいこ)』(1920年)第7回院展出品
・『炎舞』(1925年)山種美術館蔵 国指定重要文化財
・『樹木』(1925年)
・『朝鮮牛』(1926年)山種美術館蔵
・『京の家,奈良の家』(1927年)
・『翠苔緑芝(すいたいりょくし)』(1928年)
・『名樹散椿(めいじゅさんちん)』(1929年)第16回院展出品 山種美術館蔵 国指定重要文化財
・『花の傍』(1932年)東京歌舞伎座蔵
・『女二題』
・『花の傍』
・『青丘婦女抄』
・『サーカスの少女』
・『近村』
・『洛北修学院村』
・『白日夢』

☆速水御舟関係略年表

・1894年(明治27)8月2日 東京府東京市浅草区で、質屋を営む父・蒔田良三郎、母・いとの次男として生まれる
・1900年(明治33) 私立篠塚尋常小学校へ入学する 
・1905年(明治38) 東京市立育英尋常高等小学校高等科2年に編入する
・1908年(明治41) 東京市立育英尋常高等小学校高等科を卒業する
・1908年(明治41) 蒔田家近隣の容斎派の画家松本楓湖主宰の安雅堂画塾に入門する
・1909年(明治42) 画才を認められ、禾湖(かこ)の画号を受ける
・1910年(明治43)3月 初めて巽画会展に『小春』を出品する
・1910年(明治43)5月 烏合会展に『楽人』を出品する
・1911年(明治44) 巽画会展に『室寿の讌(むろほぎのえん)』を出品、一等褒状を受け宮内省買い上げとなる
・1911年(明治44) 同門兄弟子の今村紫紅に従い紅児会に入会する
・1912年(明治45) 画号を自ら浩然(こうねん)と改める
・1913年(大正2) 紅児会が解散する
・1914年(大正3)1月 蒔田家を出て母方の速水家を継ぎ、画号を御舟(ぎょしゅう)と改める
・1914年(大正3) 今村紫紅を中心とした美術団体・赤曜会を結成する
・1916年(大正5) 今村が死去し、赤曜会はとだえる
・1917年(大正6)9月 第4回院展に『洛外六題』を出品し、横山大観、下村観山らに激賞され、日本美術院の同人に推挙される
・1919年(大正8) 浅草駒形で線路に下駄が挟まり市電に轢かれ左足切断の災禍に見舞われる
・1920年(大正9) 院展に細密描写の大作『京の舞妓(まいこ)』を出品する
・1921年(大正10) 吉田幸三郎の妹と結婚する
・1925年(大正14)夏 軽井沢に別荘を借りて一家で滞在中に代表作の1つである『炎舞』を完成させる
・1929年(昭和4) 第16回院展に『名樹散椿』を出品する
・1930年(昭和5)1月 美術使節として横山大観夫妻、大智勝観らと共に横浜港より船で渡欧する
・1930年(昭和5)10月 ヨーロッパ各地およびエジプトを巡り、帰国する
・1931年(昭和6) ドイツ・ベルリンの日本現代画展で出品作品が好評を博する
・1935年(昭和10)2月 発病する
・1935年(昭和10)3月16日 病気が腸チフスと判明し、日本赤十字病院入院する
・1935年(昭和10)3月20日 東京の日本赤十字病院において、数え年42歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1882年(明治15)上野公園に博物館(現在の東京国立博物館)が開館する詳細
上野公園に博物館附属動物園(上野動物園)が開館する詳細


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 今日は、江戸時代後期の1860年(万延元年閏3月19日)に、江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令した日です。
 「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」は、とくに雑穀、水油、蝋(ろう)、呉服、生糸の五品に限り、各地の生産地から直接に横浜表に送荷するのを禁じ、江戸への積み廻しを命じ、江戸問屋を経由させることしました。1858年(安政5年6月19日)締結の「日米修好通商条約」や「安政の五か国条約」の締結により、1859年(安政6年6月)開港以来、生糸など多くの輸出品が産地から横浜へ直送されるようになったため、江戸送りの荷高は減少し、江戸問屋の特権的流通機構がくずれ、商品の需給の不均衡から物価が騰貴したのに対応したものです。
 しかし、列強各国から、条約に規定する自由貿易を妨げる、と強い反発を受けることとなり、在方商人の横浜への進出は止めようもなくなりました。この結果、生糸を除く4品についてはかなりの減少しましたが、最大の貿易品である生糸についてはあまり効果がないこととなります。
 1864年(元治元年9月)には外国側の圧力で江戸問屋の買取り制は廃止され、これによる貿易統制は実質的になくなりました。尚、以下に「五品江戸廻送令」(現代語訳・注釈付)を掲載しておきますのでご参照下さい。
 
〇「五品江戸廻送令」1860年(万延元年閏3月19日)発布

 神奈川御開港[1]、外国貿易仰せ出され候に付、諸商人[2]共一己利徳に泥み[3]、競而相場糶上げ[4]、荷元[5]を買受け、直に御開港場所江相廻し候に付、御府内入津[6]之荷物相減、諸色払底[7]に相成、難儀致し候趣相聞候に付、当分之内左之通仰せ出され候。
  一 雑穀、 一 水油[8]、 一 蝋、 一 呉服、 一 糸
 右之品々に限り、貿易荷物之分者、都而御府内より相廻し候間、在々[9]より決而神奈川表江積出し候間敷候[10]。尤も貿易の御仕法[11]相改り候儀にはこれなく候間、御府内問屋ども方え積付け候荷物の内買取り、貿易致し候儀は苦しからず候。

                  『続徳川実記』より
【注釈】

[1]神奈川御開港:かながわごかいこう=「日米修好通商条約」により、1859年(安政6年6月5日)に開港した。
[2]諸商人:しょしょうにん=在郷商人のこと。
[3]一己利徳に泥み:いっこのりとくになずみ=自分だけの利益にこだわって。
[4]競而相場糶上げ:きそってそうばせりあげ=互いに競争して値段をつり上げること。
[5]荷元:きそってそうばせりあげ=賞品。
[6]御府内入津:ごふないにゅうしん=江戸へ入港すること。
[7]諸色払底:しょしきふってい=品不足になること。
[8]水油:みずあぶら=灯油のこと。
[9]在々:ざいざい=いなかのこと。この場合は、産地を意味する。
[10]間敷候:まじくそうろう=禁止する。
[11]御仕法:ごしほう=やり方。仕方。手段。

<現代語訳>

 神奈川(横浜)が開港され外国貿易を命じられたことにつき、在郷商人達は自分に利益にこだわって、互いに競争して値段を吊り上げ、商品を買い受け、直接開港場に運送したので、江戸へ入って来るものが品不足になり、困っていると聞いているので、当分の間は左のように通達された。
 一、雑穀 一、水油、一、蝋、一、呉服、一、糸(生糸)
 右の品々に限り、貿易品の分は、江戸より送るので、産地より決して神奈川へ出荷してはいけない。もっとも貿易の仕方が改まった場合はこの限りではない。江戸の問屋共へ商品を送った内一部を買い取り、貿易するのは構わない。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)洋画家藤島武二の命日詳細
1950年(昭和25)世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される詳細
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 今日は、室町時代の1473年(文明5)に、室町時代の武将・守護大名山名宗全(持豊)が亡くなった日ですが、新暦では4月15日となります。
 山名宗全(やまな そうぜん)は、1404年(応永11年5月29日)に、守護大名山名時熙の三男(母は山名氏清の娘)として生まれましたが、幼名は小次郎と言いました。1413年(応永20)に10歳で元服、第4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗りましたが、1420年(応永27)に長兄満時が死去し、後継問題が浮上します。
 1421年(応永28)に初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高と共に備後国人の討伐に向かい、翌年に京都へ戻りました。1431年(永享3)に次兄・持熙が足利義教の勘気を受けて廃嫡されると1433年(永享5)に父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となります。
 1435年(永享7年)に父・山名時熙が死去すると、1437年(永享9)には持豊の家督相続に不満を持った次兄・持熙が備後で挙兵したものの、これを鎮圧しました。1439年(永享11)に正四位下左衛門佐に任官、翌年に幕府侍所頭人兼山城守護となりましたが、1441年(嘉吉元)には、赤松満祐が第6代将軍足利義教を殺害する嘉吉の変が起こります。
 しかし、同年9月に持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となりました。1444年(文安元)に東播磨の3郡を巡って争いが起き、翌年には赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有します。
 1450年(宝徳2)に宗全と号を改め、南禅寺に塔頭真乗院を創建しました。1454年(享徳3)に赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立、翌年には赤松則尚を播磨に討っています。
 1466年(文正元年)に、斯波、畠山の内訌が激化すると畠山義就、斯波義廉に味方して、畠山政長、斯波義敏を応援した細川勝元と対立し、さらに将軍家の継嗣問題についても、日野富子の産んだ足利義尚を助けて、将軍義政の弟義視を支持する勝元らに対抗しました。これが、応仁の乱に発展し、西軍の総帥となり、東軍の総帥細川勝元と対峙します。
 しかし、1472年(文明4)に家督を政豊に譲り、翌年3月18日に、京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死しました。

〇山名宗全(持豊)関係略年表(日付は旧暦です)

・1404年(応永11年5月29日) 室町時代の武将山名時熙の3男(母は山名氏清の娘)として生まれる
・1413年(応永20年1月) 10歳で元服、4代将軍足利義持の名の一字を賜り、持豊を名乗る
・1420年(応永27年) 長兄満時が死去し、後継問題が浮上する
・1421年(応永28年12月) 初陣として父の従弟に当たる因幡守護山名熙高(ひろたか)と共に備後国人の討伐に向かう
・1422年(応永29年) 京都へ戻る
・1428年(応永35年) 父・山名時熙が重病になり持豊を後継にしようとするが、6代将軍足利義教が自分の側近であった次兄持熙を後継に立てるように命じる
・1431年(永享3年5月) 兄・持熙が義教の勘気を受けて廃嫡される
・1433年(永享5年8月9日) 父・時煕から家督を相続し、但馬・備後・安芸・伊賀4ヶ国の守護大名となる
・1435年(永享7年) 父・山名時熙が死去する
・1437年(永享9年) 持豊の家督相続に不満を持った持熙が備後で挙兵したが、これを鎮圧する
・1439年(永享11年) 正四位下左衛門佐に任官する
・1440年(永享12年) 幕府侍所頭人兼山城守護となる
・1440年(永享12年) 代官犬橋氏を改替するよう高野山側から訴えられる
・1441年(嘉吉元年6月24日) 6代将軍足利義教と共に播磨・備前・美作守護赤松満祐の屋敷を訪問したが、満祐が義教を殺害すると抵抗せずに脱出する(嘉吉の変)
・1441年(嘉吉元年7月28日) 侍所頭人を解かれる
・1441年(嘉吉元年9月) 持豊軍は播磨木山に満祐一族を滅ぼし、その功により満祐の旧分国播磨・備前・美作を与えられ、最大の国持ち大名となる
・1442年(嘉吉2年) 出家して宗峯と号する
・1443年(嘉吉3年) 嘉吉の乱で殺された山名熙貴の娘を猶子に迎えて大内教弘に嫁がせる
・1444年(文安元年) 東播磨の明石郡、美嚢郡、加東郡3郡は満祐の従弟の赤松満政が代官になっていたが、幕府に申し出てこの3郡も領有する
・1444年(文安元年10月) 不満を抱いた赤松満政が播磨へ下向する
・1445年(文安2年1月~4月) 赤松満政を討伐し、東播磨を実力で領有する
・1447年(文安4年) 熙貴の娘を幕府管領の細川勝元に嫁がせて、大内氏や細川氏と縁戚関係を結び勝元と共に畠山持国に対抗する
・1450年(宝徳2年) 宗全と号を改める
・1450年(宝徳2年4月) 南禅寺に塔頭真乗院を創建する
・1454年(享徳3年) お家騒動で足元が揺らいだ持国を失脚させることに成功する
・1454年(享徳3年11月2日) 赤松氏の出仕を巡り8代将軍足利義政と対立する
・1455年(康正元年5月) 赤松則尚を播磨に討つ
・1458年(長禄2年) 赤松政則が神璽奪回の功により赦免される
・1460年(寛正元年) 教豊と対立して教豊が播磨へ逃れる事件が発生するが、程なく和解する
・1462年(寛正3年) 次男の是豊が備後・安芸守護に任命される
・1464年(寛正5年) 山城守護も兼ねる
・1465年(寛正6年) 男子を出産した足利義政正室の日野富子は、実子の足利義尚の将軍職を望み宗全に接近する
・1466年(文正元年) 勝元と共謀して、政所執事の伊勢貞親や季瓊真蘂らを失脚させる(文正の政変)
・1466年(文正元年12月) 畠山義就を上洛させ、将軍と対面させる
・1467年(応仁元年)畠山政長が失脚して、管領は山名派の斯波義廉となる
・1467年(応仁元年5月) 対立する赤松政則が播磨へ侵攻したのをはじめ是豊も備後へ侵攻、双方で散発的な衝突が起こる
・1467年(応仁元年5月26日) 上京の戦いをきっかけに応仁の乱が始まる
・1469年(応仁3年) 東軍が西軍本陣に斬り込んできたときには66歳の老齢ながら具足をつけ刀をとって庭に出て、敵兵を追い払った
・1469年(文明元年) 義政と義視とが不和になり、義視を迎える
・1470年(文明2年6月) 宗全が東軍に降参するという奇妙な噂も流れ、西軍の結束力に乱れが起こる
・1471年(文明3年) 小倉宮の血を引く西陣南帝を擁立したが、程なく放逐される
・1472年(文明4年) 和平交渉も行われたが、赤松政則の抵抗などで失敗する
・1472年(文明4年8月) 家督を政豊に譲る
・1473年(文明5年1月) 一族の最重鎮だった教之が死去する
・1473年(文明5年3月18日) 京都西陣の邸内において、数え年70歳で病死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)小磯国昭内閣で「決戦教育措置要綱」が閣議決定される詳細
1965年(昭和40)愛知県犬山市に「博物館明治村」が開村する詳細


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 今日は、明治時代前期の1880年(明治13)に、「国会期成同盟」が発足した日です。
 「国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)」は、日本の国会開設運動で中心的な役割を果たした政治結社で、自由党の母体ともなりました。1875年(明治8)に、自由民権運動の連合組織として結成された「愛国社」(一度解体して1878年再興)が発展し、1880年(明治13)3月15日に開催された第4回大会で、「愛国社」加盟の各結社のほか多数の全国有志が参加する組織として、同月17日に「国会期成同盟」が発足します。
 同年4月8日に2府22県、9万6924人の委託を受けた「国会を開設するの允可(いんか)を上願する書」を起草し、片岡健吉と河野広中が代表で、太政官と元老院に提出しましたが、両方とも受理されませんでした。逆に、4月5日に太政官布告として「集会条例」を発して、自由民権運動を圧迫、弾圧します。
 これに憤慨した全国各地の自由民権派は、次々に請願や建白の運動を始めましたが、どれも却下されるか、回答を得ることができませんでした。翌年7月に「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こり、10月11日に明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免され、翌日に「国会開設の勅諭」が出されます。
 これによって、目的が達成されたと考え、自由党結成への準備会と合流し、政党組織(自由党)へと変わっていきました。

〇「国会を開設するの允可を上願する書」

 日本国民臣片岡健吉、臣河野広中等、敢て尊厳を畏れず茲に謹て恭しく我天皇陛下に願望する所あらんとす。臣等我国の在て国会開設を望むこと既に久しく、其之を望む所以も亦一ならざる也。故に臣等は今先之を上陳せん。夫れ天の斯民を生ずる也、之に賦するに自由の性を以てし其をして至高の福祉を享受せしむ。凡そ人間たる者、豈に此本性を保存して其□を完ふせざる可けん哉。抑人間の責任も亦重大矣哉。蓋人民の国家を結び政法を立つるも、亦其本分を尽し、その通義を達せんとするに在る耳。然るに我国の如きは、古来政府にして独り国政に任じ、人民も亦曽て自ら之に関与すること無く、自ら焉を知らざるものの如くせり。豈に是れ斯を可矣とせん哉。蓋斯くの如きは則是其自主人たるの力を空ふし、一国民たるのは権義をかくの理にして、真に耻づ可きも亦太甚矣也。故に臣等は今に在て中心之を愧ぢ且つ憾む。焉んぞ今より参政の権利を得て、以て陛下が多労を減ずるを謀り、従来国家の政を挙て皆悉く一に政府の煩はし、政府を労せし罪を償はざるを得ん哉。是れ其臣等が国会の開設を望む所以の一也。凡そ国家に急要なる所のものは人民の一致協和するに在りて、人民の一致協和する ことは、各人同じく其国を愛するの心よりせざるは莫く、若夫人民にして愛国の心なければ、各人別離して一致協和する事靡く、国民にして一和せざれば変乱随て起り、百災由て兆し、国力爰に衰退し、紀綱茲に頽廃し、甚しければ則竟に其国を滅し、若くは其国の大権を喪ひ、不可言の大害を蒙むるに及ぶ可く、而して今其所謂国家の人民にして善く一和せしむるものは、其をして自ら国政に関与せしめ、自ら国事を審知せしむるに在りて、人民をして愛国の心を減殺せしむるものは、専制政体より甚しきは莫ければ、愈王室の安泰を保全し、其鞏固を得可きことは、定律政事に若く事は莫く、王位を危殆に陥れ、王位の鞏固を失ひ易き事は専制政体より甚しきは莫く、国家を危険に傾け、億兆の不幸を醸し易きことも亦、専制政治より甚しきは莫き也。臣等国民たる者定律の政治を望まざることを得ん哉。而して定律の政体を立てんとするも亦必国会を開設せざるを得ざる也。是れ其臣等が国会の開設を望む所以の二也。

               『自由党史』より

☆自由民権運動関係略年表

<1874年(明治7)>
・1月12日 板垣退助らが愛国公党を結成する  
・1月17日 板垣退助らが「民撰議院設立の建白書」を提出する
・2月1日 江藤新平・島義勇らが佐賀の乱を起こす
・4月 板垣退助らが立志社を設立する

<1875年(明治8)>
・5月7日 「樺太・千島交換条約」が結ばれる 
・6月28日 「讒謗律」・「新聞紙条例」が制定される

<1876年(明治9)>
・2月26日 「日朝修好条規」が締結される
・10月 神風連の乱、秋月の乱、萩の乱が起こる

<1877年(明治10)>
・2月15日 西南戦争が起きる
・6月9日 「立志社建白」を京都の行在所に提出する
・8月18日 立志社の片岡健吉らが逮捕される(高知の獄)

<1878年(明治11)>
・5月14日 大久保利通が暗殺される

<1879年(明治12)>
・3月27日 琉球処分が行われ、琉球藩を沖縄県とする

<1880年(明治13)>
・3月17日 国会期成同盟が結成される   
・4月5日 「集会条例」を定めて、言論や集会を取りしまる
  このころから、自由民権運動が高揚しはじめる

<1881年(明治14)>
・7月 「北海道開拓使官有物払下げ事件」が起こる  
・9月 立志社が「日本憲法見込案」を出す
・10月11日 明治十四年の政変で、大隈重信らが罷免される
・10月12日 「国会開設の勅諭」が出される
・10月18日 板垣退助らが自由党を結成する
  このころ、憲法制定論議が活発化し、各種の私擬憲法がつくられる

<1882年(明治15)>
・3月 伊藤博文ら、憲法調査のためヨーロッパへ行く
・4月16日 大隈重信らが立憲改進党を結成する
・11月28日 福島事件(福島県)が起こる

<1883年(明治16)>
・3月20日 高田事件(新潟県)が起こる
・3月20日 立志社が解散する 

<1884年(明治17)>
・5月 群馬事件(群馬県)が起こる
・9月23日 加波山事件(栃木・茨城県)が起こる
・10月29日 自由党が解党する
・10月31日 秩父事件(埼玉県)が起こる
・12月 名古屋事件(愛知県)が起こる
・12月 飯田事件(長野県)が起こる

<1885年(明治18)>
・11月 大阪事件(大阪府)が起こる

<1886年(明治19)>
・6月 静岡事件(静岡県)が起こる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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