今日は、室町時代の1489年(長享3)に、室町幕府第9代将軍足利義尚の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
足利義尚(あしかが よしひさ)は、1465年(寛正6年11月23日)に室町幕府8代将軍の父・足利義政(母は正室日野富子)の次男として生まれました。誕生前に叔父の義視が将軍後継者とされていたため、母・富子が子義尚の将軍襲職を望んで山名持豊に依頼したことが、1467年(応仁元)からの応仁の乱の一因となったとされています。
その中で、1473年(文明5)に9歳で元服して義尚と名乗り、同日に正五位下に叙し、左近衛中将となり第9代将軍に就きましたが、政務は母・富子が後見しました。1476年(文明8)に従三位に叙されましたが、室町御所が焼失し、小川殿に移って将軍御所としています。
1477年(文明9)に正三位に叙され、応仁の乱終結後は政道の矯正に意欲を示しました。1479年(文明11)に従二位に叙され、御判始・評定始・御前沙汰始を行って本格的な政務を開始、翌年には権大納言に任ぜられ、政治顧問一条兼良が帝王学の書として『樵談治要』、『文明一統記』を献じています。
1482年(文明14)に父・義政は政務を義尚に譲る意思を表明、翌年に従一位に叙され、父・義政は東山山荘に退きました。一方、和歌を能くし、1483年(文明15)に『新百人一首』を撰定、翌年には摂津国の多田院に『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納、歌集『常徳院集』もあります。
将軍親裁権の強化をもくろみ、1487年(長享元)に近江守護六角高頼討伐のため、約2万の軍勢を率いて近江へ出陣(長享・延徳の乱)しました。翌年に名を義煕(よしひろ)と改め、内大臣に任ぜられましたが、1489年(長享3年3月26日)に近江国鈎(まがり)の陣中において、数え年25歳で病没し、太政大臣を追贈されています。
<足利義尚の代表的な歌>
・「手を折りて すぎこし代々(よよ)を かぞふれば むなしき床の 夢にぞありける」(義尚公薨逝記)
・「槙の戸を おしあけ方の 梅が香に 憂き春風や 夢さそふらむ」
・「ほどぞなき 秋にこしぢの 月かげを 花にかすめて 帰る雁がね」
・「夕がほの 露の契りや 小車の とこなつかしき 形見なりけむ」
・「かりそめの 道のたよりの 梅の花 その香にふれし 袖ぞ忘れぬ」
・「ながらへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ はかなかりけり」(辞世の歌)
・「もしほ草 あまの袖師の 裏波に やどすも心 あり明の月」(辞世の歌)
・「出づる日の 余の国までも 鏡山と 思ひしことも いたづらの身や」(辞世の歌)
〇足利義尚関係略年表(日付は旧暦です)
・1465年(寛正6年11月23日) 8代将軍の父・足利義政(母は正室日野富子)の次男として生まれる
・1466年(文正元年9月) 政所執事・伊勢貞親が失脚し京を去る(文正の政変)
・1467年(応仁元年) 応仁の乱が勃発する
・1473年(文明5年12月19日) 元服して義尚と名乗る。同日、正五位下に叙し、左近衛中将に任是られ、同日征夷大将軍となる
・1474年(文明6年6月10日) 従四位下に叙される
・1475年(文明7年4月19日) 正四位下に叙される
・1475年(文明7年9月17日) 参議に任ぜられ、左近衛中将元の如し。
・1476年(文明8年1月6日) 従三位に叙される
・1476年(文明8年) 室町御所が焼失し、小川殿に移って将軍御所とする
・1476年(文明8年) 美作権守を兼ねる
・1477年(文明9年1月6日) 正三位に叙される
・1477年(文明9年) 応仁の乱終結後は政道の矯正に意欲を示す
・1479年(文明11年1月5日) 従二位に叙される
・1479年(文明11年11月) 御判始・評定始・御前沙汰始を行って本格的な政務を開始する
・1480年(文明12年3月29日) 権大納言に任ぜられる
・1480年(文明12年) 政治顧問一条兼良が帝王学の書として『樵談治要』『文明一統記』を献ずる
・1482年(文明14年7月) 父・義政は政務を義尚に譲る意思を表明する
・1483年(文明15年3月21日) 従一位に叙される
・1483年(文明15年6月) 父・義政は東山山荘に退くが依然として義政が実権を握り続ける
・1483年(文明15年10月) 『新百人一首』を撰定する
・1484年(文明16年) 摂津国の多田院に、『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納する
・1485年(文明16年12月23日) 淳和院・奨学院の別当となる
・1486年(文明17年8月28日) 右近衛大将を兼ねる
・1486年(文明18年1月5日) 右馬寮御監となる
・1487年(長享元年9月12日) 近江守護六角高頼討伐のため、約2万の軍勢を率いて近江へ出陣する(長享・延徳の乱)
・1488年(長享2年7月) 名を義煕(よしひろ)と改める
・1488年(長享2年9月17日) 内大臣に任ぜられる
・1489年(長享3年3月26日) 近江国鈎(まがり)の陣中において、数え年25歳で病没する
・1489年(長享3年3月27日) 太政大臣を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1935年(昭和10) | 小説家与謝野寛(鉄幹)の命日 | 詳細 |
1962年(昭和37) | 小説家・詩人室生犀星の命日 | 詳細 |