ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年03月

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 今日は、室町時代の1489年(長享3)に、室町幕府第9代将軍足利義尚の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 足利義尚(あしかが よしひさ)は、1465年(寛正6年11月23日)に室町幕府8代将軍の父・足利義政(母は正室日野富子)の次男として生まれました。誕生前に叔父の義視が将軍後継者とされていたため、母・富子が子義尚の将軍襲職を望んで山名持豊に依頼したことが、1467年(応仁元)からの応仁の乱の一因となったとされています。
 その中で、1473年(文明5)に9歳で元服して義尚と名乗り、同日に正五位下に叙し、左近衛中将となり第9代将軍に就きましたが、政務は母・富子が後見しました。1476年(文明8)に従三位に叙されましたが、室町御所が焼失し、小川殿に移って将軍御所としています。
 1477年(文明9)に正三位に叙され、応仁の乱終結後は政道の矯正に意欲を示しました。1479年(文明11)に従二位に叙され、御判始・評定始・御前沙汰始を行って本格的な政務を開始、翌年には権大納言に任ぜられ、政治顧問一条兼良が帝王学の書として『樵談治要』、『文明一統記』を献じています。
 1482年(文明14)に父・義政は政務を義尚に譲る意思を表明、翌年に従一位に叙され、父・義政は東山山荘に退きました。一方、和歌を能くし、1483年(文明15)に『新百人一首』を撰定、翌年には摂津国の多田院に『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納、歌集『常徳院集』もあります。
 将軍親裁権の強化をもくろみ、1487年(長享元)に近江守護六角高頼討伐のため、約2万の軍勢を率いて近江へ出陣(長享・延徳の乱)しました。翌年に名を義煕(よしひろ)と改め、内大臣に任ぜられましたが、1489年(長享3年3月26日)に近江国鈎(まがり)の陣中において、数え年25歳で病没し、太政大臣を追贈されています。

<足利義尚の代表的な歌>

・「手を折りて すぎこし代々(よよ)を かぞふれば むなしき床の 夢にぞありける」(義尚公薨逝記)
・「槙の戸を おしあけ方の 梅が香に 憂き春風や 夢さそふらむ」
・「ほどぞなき 秋にこしぢの 月かげを 花にかすめて 帰る雁がね」
・「夕がほの 露の契りや 小車の とこなつかしき 形見なりけむ」
・「かりそめの 道のたよりの 梅の花 その香にふれし 袖ぞ忘れぬ」
・「ながらへば 人の心も 見るべきに 露の命ぞ はかなかりけり」(辞世の歌)
・「もしほ草 あまの袖師の 裏波に やどすも心 あり明の月」(辞世の歌)
・「出づる日の 余の国までも 鏡山と 思ひしことも いたづらの身や」(辞世の歌)

〇足利義尚関係略年表(日付は旧暦です)

・1465年(寛正6年11月23日) 8代将軍の父・足利義政(母は正室日野富子)の次男として生まれる
・1466年(文正元年9月) 政所執事・伊勢貞親が失脚し京を去る(文正の政変)
・1467年(応仁元年) 応仁の乱が勃発する
・1473年(文明5年12月19日) 元服して義尚と名乗る。同日、正五位下に叙し、左近衛中将に任是られ、同日征夷大将軍となる
・1474年(文明6年6月10日) 従四位下に叙される
・1475年(文明7年4月19日) 正四位下に叙される
・1475年(文明7年9月17日) 参議に任ぜられ、左近衛中将元の如し。
・1476年(文明8年1月6日) 従三位に叙される
・1476年(文明8年) 室町御所が焼失し、小川殿に移って将軍御所とする
・1476年(文明8年) 美作権守を兼ねる
・1477年(文明9年1月6日) 正三位に叙される
・1477年(文明9年) 応仁の乱終結後は政道の矯正に意欲を示す
・1479年(文明11年1月5日) 従二位に叙される
・1479年(文明11年11月) 御判始・評定始・御前沙汰始を行って本格的な政務を開始する
・1480年(文明12年3月29日) 権大納言に任ぜられる
・1480年(文明12年) 政治顧問一条兼良が帝王学の書として『樵談治要』『文明一統記』を献ずる
・1482年(文明14年7月) 父・義政は政務を義尚に譲る意思を表明する
・1483年(文明15年3月21日) 従一位に叙される
・1483年(文明15年6月) 父・義政は東山山荘に退くが依然として義政が実権を握り続ける
・1483年(文明15年10月) 『新百人一首』を撰定する
・1484年(文明16年) 摂津国の多田院に、『多田院廟前詠五十首和歌』を奉納する
・1485年(文明16年12月23日) 淳和院・奨学院の別当となる
・1486年(文明17年8月28日) 右近衛大将を兼ねる
・1486年(文明18年1月5日) 右馬寮御監となる
・1487年(長享元年9月12日) 近江守護六角高頼討伐のため、約2万の軍勢を率いて近江へ出陣する(長享・延徳の乱)
・1488年(長享2年7月) 名を義煕(よしひろ)と改める
・1488年(長享2年9月17日) 内大臣に任ぜられる
・1489年(長享3年3月26日) 近江国鈎(まがり)の陣中において、数え年25歳で病没する
・1489年(長享3年3月27日) 太政大臣を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細


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 今日は、平安時代前期の850年(嘉祥3年3月25日)に、第56代の天皇とされる清和天皇(源氏の祖)が生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 清和天皇(せいわてんのう)は、京都において、文徳天皇の第四皇子(母は藤原良房の娘明子)として生まれましたが、名は惟仁(これひと)と言いました。同年11月に生後8ヶ月で立太子し、858年(天安2)に父・文徳天皇が亡くなると、わずか9歳で第56代とされる天皇として即位しますが、藤原良房が外戚として政治の実権を握ります。
 864年(貞観6)に元服しましたが、866年(貞観8)に伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生し、朝廷は動揺しました。同年に藤原高子が25歳で入内し女御となり、藤原良房を臣下として初めて正式に摂政に任命しています。
 藤原氏宗に編纂させた律令の補助法令が、869年(貞観10年)に「貞観格」、871年(貞観13)に「貞観式」(現存せず)として完成しました。872年(貞観14)に外戚の藤原良房が亡くなり、876年(貞観18)には、27歳で第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に突然譲位し、太上天皇となり、清和院(平安左京北辺四坊)に移ります。
 879年(元慶3年)に出家(法名は素真)して仏門に帰依し、同年10月から畿内巡幸の旅に出て仏寺を巡拝し始めました。翌年3月に丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行ないましたが、11月には粟田山荘円覚寺に移り、881年1月7日(元慶4年12月4日)に同所において、数え年31歳で亡くなっています。
 尚、孫の経基に源氏の姓が与えられ、清和源氏が起こりました。

〇清和天皇関係略年表

・850年(嘉祥3年3月25日) 文徳天皇の第四皇子(母は藤原良房の娘明子)として生まれる
・850年(嘉祥3年11月) 生後8ヶ月で立太子する
・858年(天安2年8月27日) 父・文徳天皇が亡くなり、践祚する
・858年(天安2年11月7日) 9歳で第56代とされる天皇として即位する
・858年(天安2年11月) 即位に伴う大嘗祭において藤原高子が五節舞姫をつとめる
・864年(貞観6年) 元服する
・866年(貞観8年閏3月10日) 伴善男らによるものとされる応天門炎上事件(応天門の変)が発生する
・866年(貞観8年) 藤原高子が25歳で入内し女御となる
・866年(貞観8年8月19日) 藤原良房を臣下として初めて正式に摂政に任命する
・866年(貞観8年9月22日) 朝廷(太政官)は伴善男らを応天門の放火の犯人であると断罪する
・869年(貞観10年) 藤原氏宗に編纂させた「貞観格」が完成する
・869年(貞観10年12月16日) 第一皇子として貞明親王(後の陽成天皇)が生まれる
・871年(貞観13年) 藤原氏宗に編纂させた「貞観式」(現存せず)が完成する
・872年(貞観14年9月2日) 外戚の藤原良房が亡くなる  
・876年(貞観18年11月) 27歳で第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に突然譲位し、太上天皇となる
・879年(元慶3年5月) 出家(法諱は素真)して仏門に帰依する
・879年(元慶3年10月) 畿内巡幸の旅に出て仏寺を巡拝する
・880年(元慶4年3月) 丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行なう
・881年1月7日(元慶4年12月4日) 粟田の円覚寺において、数え年31歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、明治時代後期の1891年(明治24)に、「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布された日です。
 「度量衡法(どりょうこうほう)」は、1886年(明治19)の「メートル条約」加盟に伴い、日本の長さ・体積・質量の単位をそれに基づいて定め、商取引や公的証明のために用いるとしたもので、1893年(明治26)1月1日に施行されました。日本には、「度量衡取締条例」(明治8年8月5日太政官達第135号)によって尺貫法が整備されていたのですが、1886年(明治19)の「メートル条約」加盟により、1890年(明治23)にメートル原器、キログラム原器が到着したのに伴い、度(長さ)・量(体積)・衡(質量)の計測を精密に定めたものです。
 その内容は、まず基本単位として尺および貫をメートルおよびキログラム原器によって定義し、これに基づいて度、地積、量、衡の単位を定め、布帛(織物等)用に限るとして鯨尺を定め、第5条で、これら尺貫法の単位とメートル法の換算値を掲げ、メートル法度量衡を適法のものとし、尺貫法を基本にメートル法を併用するものとなりました。しかし、 1909年(明治42)の改正によりメートル法を基準として尺貫法、ヤード・ポンド法の3法が併用されることとなります。
 その後、1919年(大正8)に圧力・温度・比重単位の規定が追加され、1921年(大正10)には、メートル法に一本化する改正法が公布されましたが、従来慣用の度量衡(尺貫法およびヤード・ポンド法)は勅令により当分の間使用できると定められました。太平洋戦争後、1951年(昭和26)にこの法律は廃止され、代わって「計量法」(昭和26年法律第207号)が制定されています。
 以下に、「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)

第一條 度量ハ尺、衡ハ貫ヲ以テ基本トス

第二條 度量衡ノ原器ハ白金、「イリヂウム」合金製ノ棒及分銅トス其ノ棒ノ面ニ記シタル標線間ノ攝氏〇、一五度ニ於ケル長サ三十三分ノ十ヲ尺トシ分銅ノ質量四分ノ十五ヲ貫トス

第三條 度量衡ノ名稱命位ヲ定ムルコト左ノ如シ

毛 尺ノ萬分ノ一

厘 尺ノ千分ノ一

分 尺ノ百分ノ一

寸 尺ノ十分ノ一

丈 十尺

間 六尺

町 三百六十尺(六十間)

里 一萬二千九百六十尺(三十六町)

地積

勺 歩ノ百分ノ一

合 歩ノ十分ノ一

歩 或ハ坪六尺平方

畝 三十歩

段 三百歩

町 三千歩

勺 升ノ百分ノ一

合 升ノ十分ノ一

升 六萬四千八百二十七立方分

斗 十升

石 百升

毛 貫ノ百萬分ノ一

厘 貫ノ十萬分ノ一

分 貫ノ萬分ノ一

匁 貫ノ千分ノ一

斤 百六十匁

第四條 從來慣用ノ鯨尺ハ布帛ヲ度ルトキニ限リ之ヲ用ヰルコトヲ得

鯨尺一尺ハ一尺二寸五分トシ其ノ十倍ヲ鯨尺一丈、十分ノ一ヲ鯨尺一寸、百分ノ一ヲ鯨尺一分トス

第五條 「メートル」法度量衡ハ左ニ掲クル比較ニ依リ之ヲ適法ノモノトシ本條以下ノ規定ヲ適用ス

    「メートル」     「ミリメートル」   〇「尺」、〇〇三三〇
 毛  〇、〇〇〇〇三
   (三萬三千分ノ一)      
 厘   〇、〇〇〇三〇
   (三萬三千分ノ十)     「センチメートル」  〇、〇三三〇〇 
 分   〇、〇〇三〇三
   (三萬三千分ノ一百)   「デシメートル」   〇、三三〇〇〇 
 寸   〇、〇三〇三〇
   (三萬三千分ノ一千)   「メートル」     三、三〇〇〇〇 
 尺  〇、三〇三〇三
   (三萬三千分ノ一萬)   「デカメートル」   三三、〇〇〇〇〇 
 丈  三、〇三〇三〇
   (三萬三千分ノ十萬)   「ヘクトメートル」  三三〇、〇〇〇〇〇 
 間  一、八一八一八
   (十一分ノ二十)      「キロメートル」   三三〇〇、〇〇〇〇〇 
 町  一〇九、〇九〇九一
   (十一分ノ一千二百) 
 里  三九二七、二七二七三
   (十一分ノ四萬三千二百) 

  地積 

    「アール」
 勺  〇、〇〇〇三三
   (三千〇二十五分ノ一)    「センチアール」  〇「歩」、三〇二五〇 
 合  〇、〇〇三三一
   (三千〇二十五分ノ十)    「アール」     三〇、二五〇〇〇 
 歩或ハ坪 〇、〇三三〇六
   (三千〇二十五分ノ一百)  「ヘクタール」   三〇二五、〇〇〇〇〇 
 畝  〇、九九一七四
   (三千〇二十五分ノ三千) 
 段  九、九一七三六
   (三千〇二十五分ノ三萬) 
 町  九九、一七三五五
   (三千〇二十五分ノ三十萬) 

量 

   「リットル」
 勺  〇、〇一八〇四
   (十三萬三千一百分ノ二千四百〇一)  「センチリットル」 〇「升」、〇〇五五四
                              (二十四萬〇一百分ノ一千三百三十一) 
 合  〇、一八〇三九
   (十三萬三千一百分ノ二萬四千〇十)  「デシリットル」  〇、〇五五四四
                              (二十四萬〇一百分ノ一萬三千三百十) 
 升  一、八〇三九一
   (十三萬三千一百分ノ二十四萬〇一百)「リットル」    〇、五五四三五
                              (二十四萬〇一百分ノ十三萬三千一百) 
 斗  一八、〇三九〇七
   (十三萬三千一百分ノ二百四十萬一千)「デカリットル」  五、五四三五二
                              (二十四萬〇一百分ノ一百三十三萬一千) 
 石  一八〇、三九〇六八
   (十三萬三千一百分ノ二千四百〇一萬)「ヘクトリットル」 五五、四三五二四
                              (二十四萬〇一百分ノ一千三百三十一萬) 
衡 

     「グラム」
 毛    〇、〇〇三七五       「ミリグラム」  〇「匁」、〇〇〇二七
                        (一萬五千分ノ四) 
 厘    〇、〇三七五〇      「センチグラム」〇、〇〇二六七
                      (一萬五千分ノ四十) 
 分    〇、三七五〇〇      「デシグラム」 〇、〇二六六七
                      (一萬五千分ノ四百) 
 匁    三、七五〇〇〇      「グラム」   〇、二六六六七
                      (一萬五千分ノ四千) 
 貫    三七五〇、〇〇〇〇〇  「デカグラム」 二、六六六六七
                      (一萬五千分ノ四萬) 
                      「ヘクトグラム」二六、六六六六七
                                         (一萬五千分ノ四十萬) 
 斤    六〇〇、〇〇〇〇〇    「キログラム」  二六六、六六六六七
                                            (一萬五千分ノ四百萬) 

第六條 度量衡ノ原器ハ農商務大臣之ヲ保管ス

農商務大臣ハ度量衡ノ原器ニ依リ副原器二組ヲ製作セシメ原器ノ代用ニ供ス

副原器ノ一組ハ農商務大臣之ヲ保管シ他ノ一組ハ文部大臣之ヲ保管ス

第七條 農商務大臣ハ副原器ニ依リ地方原器ヲ製作セシムヘシ

地方原器ハ地方長官之ヲ保管シ度量衡器檢定ノ標準ニ供スルモノトス

第八條 度量衡器ヲ製作シ修覆シ若ハ販賣セント欲スル者ハ地方長官ヲ經由シ農商務大臣ニ願出免許ヲ受クヘシ

製作ノ免許ヲ得タル者ハ修覆及販賣ヲナスコトヲ得

免許ニ關スル年限、身元保證金其ノ他必要ナル制限ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第九條 度量衡器ヲ製作シ修覆シ若ハ輸入シテ販賣シ又ハ營業ノ目的ニ使用スル者ハ豫メ其ノ檢定ヲ受クヘシ

營業ノ目的ニ使用スル度量衡器ハ前項檢定ノ外之ヲ修覆シタルトキ及定期間ニ於テ檢定ヲ受クヘシ

官廳、公署、官立、公立ノ諸建設場又ハ貧院、病院其他之ニ類スル建設場ニ於テ賣買、授受及證明ノ爲ニ使用スル度量衡器ハ營業ノ目的ニ使用スルモノニ準ス

第十條 度量衡器ノ種類、形状、物質、檢定ノ定期及公差、檢定スヘキ目盛及分銅ノ最小定限ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十一條 度量衡器ノ檢定及取締ハ地方長官之ヲ管理ス

地方長官ハ市長、町村長ヲシテ其ノ市町村内ニ於ケル度量衡器ノ取締ヲ行ハシメ及其ノ檢定ニ關スル事務ヲ補助セシムルコトヲ得

第十二條 度量衡器ノ製作者、修覆者、販賣者及使用者ハ取締ノ爲ニ行フ當該吏員ノ臨檢ヲ拒ムコトヲ得ス但シ吏員ハ主任タルノ證票ヲ携帯シテ之ヲ示スヘシ

第十三條 度量衡器ノ製作、修覆及販賣ノ免許ヲ受クル者ハ免許料ヲ、檢定ヲ受クル者ハ檢定料ヲ納ムルヘシ

免許料及檢定料ノ金額ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十四條 度量衡器ノ製作者、修覆者若ハ販賣者ニシテ度量衡ニ關スル法律命令ニ違背シタルトキハ農商務大臣ハ其ノ營業免許ヲ取消スコトヲ得

第十五條 免許ヲ受ケスシテ度量衡器ヲ製作シ若ハ修覆シテ販賣シタル者ハ二十圓以上三百圓以下ノ罰金ニ處ス

免許ヲ受ケスシテ度量衡器ヲ販賣シ又ハ檢定ヲ受ケサル度量衡器ヲ販賣シ若ハ之ヲ營業ノ目的ニ使用シ及吏員ノ臨檢ヲ拒ミタル者ハ十圓以上二百圓以下ノ罰金ニ處ス

差狂アル度量衡器ナルコトヲ知テ之ヲ販賣シ又ハ營業ノ目的ニ使用シタル者亦前項ニ同シ

第十六條 本法施行ノ細則ハ農商務大臣之ヲ定ム

附則

第十七條 本法ハ明治二十六年一月一日ヨリ之ヲ施行ス

第十八條 度量衡器ノ製作ニ限リ本法施行前六箇月以内ニ之ヲ免許スルコトヲ得此ノ場合ニ於テハ本法中製作ニ關スル條項ハ之ヲ適用ス

第十九條 從來度量衡製作及賣捌ノ免許ヲ受ケタル者ハ更ニ免許ヲ受クルコトヲ要セス本法ノ規定ニ從ヒ其ノ營業ヲ繼績スルコトヲ得

第二十條 從來ノ度量衡器ハ本法施行ノ日ヨリ七箇年以内ニ本法ノ規定ニ依リ其ノ檢定ヲ受クヘシ檢定ヲ經サルモノハ其ノ期限ヲ過クル後之ヲ販賣シ若ハ營業ノ目的ニ使用スルコトヲ得ス

第二十一條 從來ノ度量衡器ニシテ修覆シタルモノ丶檢定ハ本法施行ノ日ヨリ七箇年ヲ限リ從來ノ檢査規則ニ依ル

第二十二條 明治八年太政官第百三十五號逹度量衡取締條例竝檢査規則同九年第十七號布告度量衡改定規則及西洋形權衡ニ係ル從來ノ法令ハ本法施行ノ日ヨリ之ヲ廢止ス但シ度量衡取締條例附屬檢査規則ハ前條ノ場合ニ限リ明治三十二年十二月三十一日マテ其ノ効力ヲ有ス

                「ウイキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16)に、陶芸家・篆刻家・料理研究家・書家・画家北大路魯山人の生まれた日です。
 北大路魯山人(きたおおじ ろさんじん)は、京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都府京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれましたが、本名は房次郎(ふさじろう)と言いました。誕生前に父は亡く、養子先を転々として幼年時代を送り、1894年(明治27)の10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業後、京都・烏丸二条の千坂和薬屋に丁稚奉公へ出されます。
 1896年(明治29)に丁稚奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始め、書を書き、絵筆を買い我流で絵を描き始めました。1904年(明治37)の20歳の時、上京して母に会いに行ったが受け入れられず、そのまま残って書家になることを志し、日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞します。
 翌年に町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込み、1907年(明治40)には福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立しました。1910年(明治43)に実母と共に朝鮮にいきましたが、1912年(明治45)に帰国後、書道教室を開き、翌年から篆刻も習い始めます。
 1915年(大正4)に陶芸にも手を染め、翌年に母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使い始めました。1917年(大正6)に便利堂の中村竹四郎と交友を深め、1919年(大正8)に共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開き、1921年(大正10)には、会員制食堂「美食倶楽部」を発足します。
 1925年(大正14)に東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮」を始め、1927年(昭和2)には、荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始しました。しかし、1936年(昭和11)に星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心し、戦後の1946年(昭和21)には銀座に自作の直売店「火土火土美房」を開店します。
 多種の技法に通じ、様々な古陶を再現しつつ自由な作風を示して評価され、1954年(昭和29)にロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催、1955年(昭和30)には、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退しました。自由奔放な生活を送ってきたものの、1959年(昭和34)12月21日に肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなっています。

〇北大路魯山人関係略年表

・1883年(明治16)3月23日 京都府愛宕郡上賀茂村(現在の京都市北区)で、上賀茂神社の社家だった父・北大路清操、母・登女の次男として生まれる。
・1883年(明治16)9月6日 巡査の服部家の戸籍に入り服部房次郎となる
・1887年(明治20)頃 4、5歳の時に義姉は房次郎と息子を連れて実家に身を寄せる
・1889年(明治22)6月22日 木版師の福田武造の養子となり、以後約27年間福田姓を名乗ることとなる
・1894年(明治27) 10歳の時に梅屋尋常小学校(現在の御所南小、新町小)を卒業する
・1894年(明治27)春 京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ出される
・1896年(明治29)1月 奉公を辞める
・1897年(明治30) 14、5歳の彼は稼いだ賞金で絵筆を買い我流で絵を描き始める
・1904年(明治37) 20歳の時、上京し母に会いに行ったが受け入れられず、残って書家になることを志す
・1904年(明治37) 日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞する
・1905年(明治38) 町書家・岡本可亭の内弟子となって住み込む
・1907年(明治40) 福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する
・1908年(明治41)2月17日 結婚する
・1910年(明治43)12月 実母と共に朝鮮に旅立つ
・1912年(明治45)夏 帰国し書道教室を開く
・1913年(大正2) 29歳の時から篆刻(てんこく)も習い始める
・1915年(大正4) 陶芸に手を染め始める
・1916年(大正5) 母から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、魯山人の号を使いはじめる
・1917年(大正6) 便利堂の中村竹四郎と交友を深める
・1919年(大正8) 中村竹四郎と共同経営で東京・京橋に大雅堂美術店を開く
・1921年(大正10) 会員制食堂・「美食倶楽部」を発足する
・1925年(大正14)3月20日 東京・永田町に会員制高級料亭「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を始める
・1927年(昭和2) 荒川豊蔵を鎌倉山崎に招き、魯山人窯芸研究所・星岡窯を設立して本格的な作陶活動を開始する
・1928年(昭和3) 日本橋三越にて星岡窯魯山人陶磁器展を行う
・1936年(昭和11) 星岡茶寮の経営者・中村竹四郎から解雇を通知され、「星岡茶寮」を追放されて陶芸に専心する
・1945年(昭和20) 空襲により「星岡茶寮」が焼失する
・1946年(昭和21) 銀座に自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開店する
・1951年(昭和26) 結婚したイサム・ノグチ・山口淑子夫妻を一時星岡窯に寄寓させる
・1954年(昭和29) ロックフェラー財団の招聘で欧米各地で展覧会と講演会が開催される
・1955年(昭和30) 織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されるも辞退する
・1959年(昭和34)12月21日 肝吸虫による肝硬変のため横浜医科大学病院において、76歳で亡くなる
・1998年(平成10) 管理人の放火と焼身自殺により、魯山人の終の棲家であった星岡窯内の家屋が焼失する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1945年(昭和20)小磯国昭内閣が「国民義勇隊」結成を閣議決定する詳細
1950年(昭和25)世界気象機関(WMO)が設立される(世界気象デー)詳細


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takamatsuzuka1

 今日は、飛鳥時代の646年(大化2)に、孝徳天皇が「薄葬令」を発した日ですが、新暦では4月12日となります。
 「薄葬令(はくそうれい)」は、大化の改新の一環として、民衆の負担軽減のため、身分に応じて墳墓や葬儀の規模に制限を加えた勅令でした。その内容は、①必要以上に大きな墳墓を造る事は 民衆の貧窮を招くと警告し、②死者の身分により墳墓を造る夫役の延べ人数の上限を定め、③一般階級の遺体は 一定の墓地に集めて埋葬することとし、④殯(もがり)や、人馬の殉死、殉葬、宝物を副葬することを禁じたものです。
 王 (皇族) 以上、上臣 (大臣)、下臣 (大徳・小徳)、大仁・小仁、大礼~小智、庶民 (無位者) の6等級の身分に応じて、玄室・封土の大小、役丁の多少、日数、葬具の種類を規定していて、身分制度の確立を目ざしたものとも考えられてきました。薄葬政策は、その後も何度か発令されましたので、「大化の薄葬令」とも呼ばれて区別されています。

〇「薄葬令」(『日本書紀』[卜部兼方・兼右本]巻第25 孝徳天皇2年の条)

<原文>

甲申、詔曰。朕聞、西土之君戒其民曰。古之葬者因高爲墓、不封不樹、棺槨足以朽骨、衣衿足以朽宍而已。故、吾營此丘墟・不食之地、欲使易代之後不知其所。無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・蒭靈之義。棺漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉柙。諸愚俗所爲也。又曰。夫葬者藏也、欲人之不得見也。

廼者、我民貧絶、專由營墓。爰陳其制、尊卑使別。夫王以上之墓者、其內長九尺・濶五尺、其外域方九尋・高五尋、役一千人・七日使訖、其葬時帷帳等用白布、有轜車。上臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方七尋・高三尋、役五百人・五日使訖、其葬時帷帳等用白布、擔而行之(蓋此以肩擔輿而送之乎)。下臣之墓者、其內長濶及高皆准於上、其外域・方五尋・高二尋半、役二百五十人・三日使訖、其葬時帷帳等用白布、亦准於上。大仁・小仁之墓者、其內長九尺・高濶各四尺、不封使平、役一百人・一日使訖。大禮以下小智以上之墓者、皆准大仁、役五十人・一日使訖。凡王以下小智以上之墓者、宜用小石、其帷帳等宜用白布。庶民亡時、收埋於地、其帷帳等可用麁布、一日莫停。凡王以下及至庶民、不得營殯。凡自畿內及諸国等、宜定一所而使收埋、不得汚穢散埋處々。凡人死亡之時、若經自殉・或絞人殉及强殉亡人之馬・或爲亡人藏寶於墓・或爲亡人斷髮刺股而誄、如此舊俗一皆悉斷(或本云、無藏金銀錦綾五綵。又曰、凡自諸臣及至于民、不得用金銀)。縱有違詔、犯所禁者、必罪其族。

<読み下し文>

甲申、詔して曰く。朕聞く、西土[1]の君其の民を戒めて曰く、古への葬は高きに因りて墓と爲す、封かず樹ゑず[2]、棺槨[3]は以て骨を朽すに足り、衣衿[4]は以て宍[5]を朽すに足るのみ。故れ、吾れ此の丘墟[6]・不食[7]なる地を營りて、代を易へむ後に其の所を知らざらしめむ欲す。無金銀銅鐵を藏むること、一に瓦器[8]を以て、古の塗車[9]・蒭靈[10]の義に合へ、棺は際會に漆り、三たび過よ。飯含むるに珠玉[11]をもってすることなけれ、珠の襦[12]、玉の柙[13]を施くこと無れ。諸の愚俗[14]の爲る所なり。又曰く、夫れ葬は藏なり、人の不見ることを得ざらむことを欲す。

廼者、我が民の貧絶しきこと、專墓[15]を營るに由る。爰に其の制を陳べて、尊卑[16]別あらしむ。夫れ王[17]より以上の墓は、其の內[18]の長さ九尺・濶さ[19]五尺、其の外域は方九尋[20]・高さ五尋[20]、役[21]一千人・七日に訖らしめて[22]、其の葬らむ時の帷帳[23]等には白布を用ゐよ、轜車[24]有れ。上臣の墓は、其の內[18]の長さ濶さ[19]及び高さは皆上に准へ[25]よ、其の外域・方七尋[20]・高さ三尋[20]、役[21]五百人・五日に訖らしめ[22]、其の葬らむ時の帷帳[23]等には白布を用ゐよ、擔ひて[26]行け(蓋し此は肩を以て輿を擔ひて[26]送るか)。下臣の墓は、其の內[18]の長さ濶さ[19]及び高さは皆上に准へ[25]よ、其の外域・方五尋[20]・高さ二尋[20]半、役[21]二百五十人・三日に訖らしめ[22]、其の葬らむ時の帷帳[23]等には白布を用ゐること、亦た上に准へ[25]よ。大仁[27]・小仁[28]の墓は、其の內[18]の長さ九尺・高さ濶さ[19]各四尺、封つかずして平かならしめ、役[21]一百人・一日に訖らしめ[22]よ。大禮[29]以下小智[30]以上の墓は、皆大仁[27]に准へ[25]、役[21]五十人・一日に訖らしめ[22]よ。凡そ王[17]以下小智[30]以上の墓は、宜しく小き石を用ゐよ、其の帷帳[23]等には宜しく白布を用ゐよ。庶民亡なむ時には、地に收め埋め、其の帷帳[23]等には麁布[31]を用ゐるべし、一日も莫停むること。凡そ王[17]以下及び庶民に至るまで、殯[32]を營ることを得じ。凡そ畿內[33]より諸国等に及ぶまで、宜しく一所に定めて收め埋めしめよ、汚穢しく處々に散らし埋むろことを得ず。凡そ人死亡ぬる時に、若しくは經ぎて自ら殉[34]ひ・或は人を絞きて殉[34]はしめ、及び强ちに亡人の馬を殉[34]へ・或は亡したる人の爲めに寶を墓に藏め・或は亡したる人の爲めに髮を斷り股を刺して誄[35]す、此の如き舊俗[36]は一に皆悉に斷めよ。(或本に云ふ、金銀、錦綾[37]、五綵[38]を藏むること無かれ。又曰く、凡そ諸臣より民に及至るまで、金銀を用ゐることを得ず)。縱し詔に違ひて、禁むる所を犯す者有らば、必ず其の族を罪せむ。

【注釈】

[1]西土:もろこし=昔、日本から中国を呼んだ称。唐。唐土。
[2]封かず樹ゑず:つちつかずきうえず=封土も植樹もない。
[3]棺槨:かんかく=死体をおさめる箱。ひつぎ。
[4]衣衿:いきん=衣服。着物。
[5]宍:しし=にく。人体の肉。人間の肉体。
[6]丘墟:きゅうきょ=小高い丘で、墳丘のこと。
[7]不食:ふしょく=不毛。何も育てていない空地。
[8]瓦器:がき=素焼き土器の総称。かわらけ。
[9]塗車:くるまかた=死者の守りとしてともにほうむった土製の車。
[10]蒭靈:くさひとかた=草や藁で作った人形。藁人形。草のひとかた。
[11]珠玉:たま=宝石のこと。
[12]珠の襦:たまのこしころも=王様の服の上着。
[13]玉の柙:たまのはこ=王様の服の下。
[14]愚俗:ぐぞく=おろかな世俗。また、その人々。
[15]専墓:たかめはか=氏族のための墓。
[16]尊卑:そんぴ=身分などが尊いことと卑しいこと。貴賤(きせん)。
[17]王:みこ=皇族。
[18]内:うち=内部。ここでは玄室の意味。
[19]濶さ:ひろさ=幅の大きさ。巾。はば。
[20]尋:ひろ=両手を広げた長さ。
[21]役:え=人民に公の労務を課すこと。労役。夫役(ぶやく)。えだち。
[22]訖らしめ:おわらしめ=終わらせる。終えさせる。
[23]帷帳:いちょう=室内に垂れ下げて隔てとする布。とばり。垂れ絹。
[24]轜車:きぐるま=貴人の葬儀に、棺を載せて運ぶ車。きぐるま。喪車。
[25]准へ:なそへ=なぞらえる。準ずる。
[26]擔ひて:にないて=になう。かつぐ。引き受ける。
[27]大仁:だいじん=冠位十二階の一つ。第三番目の位。
[28]小仁:しょうじん=冠位十二階の一つ。第四番目の位。
[29]大禮:だいらい=冠位十二階の一つ。第五番目の位。
[30]小智:しょうち=冠位十二階の一つ。第一二番目の位。
[31]麁布:そふ=粗末な布。また、織目のあらい布。
[32]殯:もがり=本葬まで貴人の遺体を棺に納め仮に安置してまつること。
[33]畿內:きない=王城の周辺の地の意味。
[34]殉:したが/じゅん=死者の後を追って死ぬこと。殉死。。
[35]誄:しのびごと=死者を弔い、生前の業績などをたたえる言葉。弔辞。
[36]舊俗:きゅうぞく=昔からの風俗・習慣。旧習。
[37]錦綾:にしきあや=錦と綾。ともに美しく立派な絹織物。
[38]五綵:ごさい=五つのあや。五色模様。五様のいろどり。

<現代語訳>

(孝徳天皇2年の条)
3月22日、詔して言うのに、「私が聞くのに、中国の君主はその民を戒めて、『古代の葬式は高い丘陵を墓とした。土を盛り上げず、植樹もしない。ひつぎは骨が朽ち果てるくらいのもので足りる、衣服は人間の肉体が朽ち果てるくらいのもので足りる。従って、私の墳丘は不毛の土地に造営し、代替わりした後世には、その場所が知られないようにしてほしい。金・銀・銅・鉄を収めることは無きように。土器で、古代の車の形を作り・草で作った人形を収蔵してほしい。お棺の隙間に漆を塗るのは3年に一度でいい。死者の口に飯を含ませるのに、宝石を用いることは無きように。王様の服の上着と服の下を着せることの無きように。こういう諸々のことはおろかな世俗がすることだ。』と述べている。また言うのに、『その葬式は隠すことだ。人に見られないようにすることを欲する。』と。

この頃、我が人民の貧しさが絶しているのは、氏族のための墓を造営することによる。ここにその制度を設けて、身分が尊いものと卑しいものを分けておこう。皇族より以上の地位の墓は、その玄室の長さは9尺、巾は5尺。その外域は縦横は9尋、高さは5尋。労役させる民は1,000人。7日で終えさせなさい。葬る時の垂れ絹などには白い布を用いなさい。棺を載せて運ぶ車はあっていい。上臣の墓は玄室の長さと巾および高さは、みな上記に準ずる。その外域は縦横7尋、高さは3尋。労役させる民は500人で5日で終えさせなさい。その葬る時の垂れ絹などには白い布を用いなさい。(遺体は)担いで行け(思うにこれは肩を以て輿を担いで送ることか)。下臣の墓はその玄室の長さと巾および高さは、みな上記に準ずる。その外域は縦横5尋、高さは2尋半。労役させる民は250人。3日で終えさせなさい。その葬る時の垂れ絹などには白い布を用いること。また上記に準ずる。大仁・小仁の墓はその玄室の長さ9尺、高さと巾はそれぞれ4尺。土を盛り上げず、平らにしなさい。労役させる民は100人。1日で終えさせなさい。大礼より以下、小智より以上のものはみな、大仁に準ずる。労役させる民は50人。1日で終えさせなさい。すべての皇族より以下、小智よりも以上の墓では小さい石を用いなさい。その垂れ絹などは適宜白い布を用いなさい。庶民が亡くなった時は地中に埋めなさい。その垂れ絹には目の粗い布を用いなさい。1日も作業しないで終えなさい。皇族より以下、庶民に至るまで、殯を造営するしてはいけない。畿内から諸国に至るまで、場所を定めて、収め埋め、穢らわしくても、方々に散らして埋めてはならない。およそ人が死ぬ時に、自殺して殉死したり、人を絞め殺して殉死させたり、無理やりに死者の馬を殉死させたり、死者のために宝物を墓に納めたり、死者のために、髪を切ったり股を刺して、死者を弔い、生前の業績などをたたえる言葉をかけること。こう言った昔からの習俗は、一切、ことごとくやめなさい。(ある本では、金・銀・錦と綾・五色模様を藏めてもいけない。また言うことには、およそ諸臣より庶民に至るまで、金銀を使用してはならないとある。)もし、詔に背いて、禁令を犯すことがあれば、必ずその一族を罪に問う。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1943年(昭和18)童話作家新見南吉の命日詳細
2007年(平成19)小説家・経済学者城山三郎の命日詳細
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