ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年03月

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、旧「教育基本法」(昭和22年3月31日 法律25号)が公布・施行された日です。
 旧「教育基本法(きょういくきほんほう)」は、前年11月3日に公布された「日本国憲法」の精神に基づいて、戦後の新しい日本の教育の根本理念を確定した法律で、「学校教育法」と共に制定されました。前文と11条からなり、「教育勅語」に代わって、教育を国民自らのものとする教育権利宣言であると共に、教育諸法令の基本法としての性格を持つものとなります。
 前文で「憲法の理想の実現は、根本において教育の力にまつべきもの」とし、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」とうたい、教育の目的、方針、機会均等、義務教育、男女共学、学校教育、社会教育、政治教育、宗教教育、教育行政にわたる10ヶ条と補則(第11条)から成っていました。戦前の教育が戦争に大きく関わったことを踏まえ、敗戦後の1946年(昭和21)のアメリカ教育使節団の報告書に基づき、安倍能成を中心とした教育刷新委員会が作成したものです。
 しかし、第一次安倍晋三内閣によって、2006年(平成18)に全面改訂され、前文と4章18条となるものに変わりました。
 以下に、1947年(昭和22)制定当初の旧「教育基本法」(昭和22年3月31日 法律25号)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇 旧「教育基本法」(昭和22年3月31日 法律25号)

朕は、枢密顧問の諮詢を経て、帝国議会の協賛を経た教育基本法を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

教育基本法

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

第一条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身とも健康な国民の育成を期して行われなければならない。

第二条(教育の方針) 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

第三条(教育の機会均等) ① すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。

② 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

第四条(義務教育) ① 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。

② 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。

第五条(男女共学) 男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。

第六条(学校教育) ① 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。

② 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

第七条(社会教育) ① 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。 

② 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。

第八条(政治教育) ① 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。

② 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

第九条(宗教教育) ① 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。

② 国及び地方公共団体の設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

第十条(教育行政) ① 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。

② 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

第十一条(補則) この法律に掲げる諸条項を実施するために必要がある場合には、適当な法令が制定されなければならない。

附則

 この法律は、公布の日から、これを施行する。
 
    「文部科学省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)政府が全国17の私鉄を買収することを定めた「鉄道国有法」を公布する詳細
物理学者朝永振一郎の誕生日詳細


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 今日は、江戸時代後期の1827年(文政10)に、医学者・蘭学者大槻玄沢の亡くなった日ですが、新暦では4月25日となります。
 大槻玄沢(おおつき げんたく)は、1757年(宝暦7年9月28日)に、一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれましたが、名は茂質(しげかた)と言いました。1765年(明和2)、9歳の時に父が藩医となったので、翌年に一関に転居、1769年(明和6)、13歳の時に同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示します。
 1778年(安永7)、22歳の時に江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学び、1780年(安永9)に良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合いました。1781年(安永10)に蘭学の入門書『蘭学階梯』を起草し、2年後に完成させます。
 1784年(天明4)、28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになり、翌年に長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かいました。オランダ通詞本木良永のもとに寄宿、オランダ語を学び、1786年(天明6)には江戸に戻ります。
 本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられ、蘭学界での地位を確立して、1789年(寛政元)には、江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たりました。1790年(寛政2)に『解体新書』の改訂を命ぜられて着手、1794年(寛政6)にはオランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わし、太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀正月」の会を芝蘭堂で催します。
 1804年(文化元)に『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出され、漂流民の事歴を聴取した『環海異聞』(1807年)、たばこの研究書『焉録』(1809年)なども刊行されました。1810年(文化7)に幕府天文台蕃書和解御用局員となり、ショメールの百科事典の翻訳『厚生新編』の訳業に参加します。
 1825年(文政8)には、ローレンツ・ハイスターの外科書の翻訳『瘍医新書』を刊行したものの、1827年(文政10年3月30日)に江戸において、数え年71歳で亡くなりました。尚、多くの弟子を育てましたが、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と称されています。

〇大槻玄沢の主要な著作

・『蘭学階梯(かいてい)』(1783年)
・『西賓対晤(せいひんたいご)』
・『環海異聞』(1807年)
・『焉録』(1809年)
・翻訳『瘍医(ようい)新書』4冊(1825年)
・翻訳『重訂解体新書』13冊(1826年)
・『六物新志』

☆大槻玄沢関係略年表(日付は旧暦です)

・1757年(宝暦7年9月28日) 一関藩の医師でのちに藩医となった大槻玄梁の長子として陸奥国磐井郡中里に生まれる
・1765年(明和2年) 玄沢9歳の時、オランダ流外科の開業医であった父が藩医となる
・1766年(明和3年) 一関に転居する
・1769年(明和6年) 13歳の時、同じ郷里の医師建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示す
・1778年(安永7年) 22歳の時、江戸への遊学、杉田玄白の私塾・天真楼で医術を修め、前野良沢にオランダ語を学ぶ
・1780年(安永9年) 良沢のもとを訪れた仙台藩江戸詰の藩医工藤平助と知り合う
・1781年(安永10年) 『蘭学階梯』2巻を起草する
・1783年(天明3年) 『蘭学階梯(かいてい)』2巻が完成する
・1784年(天明4年) 28歳の時に父が亡くなり、家督を継ぐことになる
・1785年(天明5年10月) 長崎遊学を許され、江戸・大阪を経て長崎に向かう
・1786年(天明6年5月) 江戸に戻る
・1786年(天明6年8月) 本材木町に単身居を構える
・1786年(天明6年) 本藩の仙台藩医に抜擢されて江戸定詰を命じられる
・1788年(天明8年) 蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立する
・1789年(寛政元年) 江戸三十間堀に私塾・芝蘭堂をひらいて多くの人材育成に当たる
・1790年(寛政2年) 『解体新書』の改訂を命ぜられ、着手する
・1794年(寛政6年) オランダ商館長の参府一行を定宿の長崎屋に訪れ、質疑応答を交わす
・1794年(寛政6年閏11月11日) 太陽暦の新年を祝して、「阿蘭陀(おらんだ)正月」の会を芝蘭堂で催す
・1804年(文化元年) 『解体新書』の改訂作業はにいちおう完了し、『重訂解体新書』が出される
・1807年(文化4年) 『環海異聞』を出す
・1809年(文化6年) 『焉録』を蘭学塾芝蘭堂の私家版として出版する
・1810年(文化7年) 幕府天文台蕃書和解御用局員となる
・1811年(文化8年) 江戸幕府の天文台に出仕して『厚生新編』の訳業に参加する
・1816年(文化13年3月) 工藤平助の医書『救瘟袖暦』に序を書く
・1825年(文政8年) 翻訳書『瘍医新書』4冊が完成し、刊行する
・1827年(文政10年3月30日) 江戸において、数え年71歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

585年(敏達天皇14)物部守屋の仏教排斥により、仏像・寺院等が焼打ちされる(新暦5月4日)詳細
1985年(昭和60)小説家・翻訳家野上弥生子の命日詳細
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 今日は、室町時代の1401年(応永8)に、第101代の天皇とされる称光天皇の生まれた日ですが、新暦では5月12日となります。
 称光天皇(しょうこうてんのう)は、京都において、後小松天皇の第一皇子(母は日野資国の娘資子)として生まれましたが、名は躬仁・実仁(みひと)と言いました。1411年(応永18)に親王宣下を受け、3日後に11歳で元服し、加冠役は第4代将軍で内大臣の足利義持が務めます。
 翌年に父・後小松天皇の譲位を受けて、践祚しましたが、父が院政を行い、1414年(応永21)には、第101代とされる天皇として即位しました。1421年(応永28)に諸国に飢饉、疫病が流行し、翌年以降、体調を崩し、病気が進行し、病弱な体質となります。
 一族の日野光子を典侍として迎えたものの子を成さず、1422年(応永29)に義持と仙洞御所で相談し、天皇の弟である小川宮を東宮(皇太弟)としました。1422年(応永29)に病が奇跡的に回復しましたが、1425年(応永32)には小川宮(皇太弟)が亡くなっています。
 1425年(応永32)に重病に倒れ、翌年にいったん病気が全快しましたが、1426年(応永33)に近江坂本の馬借一揆が京都へ入るなど政情は不安定でした。1428年(正長元)に危篤に陥り、同年7月20日には、京都において、数え年28歳で亡くなっています。
 尚、陵墓は深草北陵(京都府京都市伏見区深草坊町)とされました。

〇称光天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1401年(応永8年3月29日) 京都において、後小松天皇の第一皇子(母は日野資国の娘資子)として生まれました
・1411年(応永18年11月25日) 親王宣下を受ける
・1411年(応永18年11月28日) 11歳で元服し、加冠役は第4代将軍で内大臣の足利義持が務める
・1412年(応永19年8月29日) 父・後小松天皇の譲位を受けて、践祚するが、父が院政を行う
・1414年(応永21年12月) 第101代とされる天皇として即位する
・1421年(応永28年) 諸国に飢饉、疫病が流行する
・1422年(応永29年3月下旬) 以降、天皇は体調を崩す
・1422年(応永29年6月) ますます病気が進行する
・1422年(応永29年8月) 義持と仙洞御所で相談し、天皇の弟である小川宮を東宮(皇太弟)とする
・1422年(応永29年9月11日) 第4代将軍・足利義持が代理として伊勢神宮に参拝し、その回復を願う
・1422年(応永29年12月) 病が奇跡的に回復する
・1425年(応永32年2月16日) 小川宮(皇太弟)が亡くなる
・1425年(応永32年7月25日) 重病に倒れる
・1425年(応永32年8月5日) 病気が全快する
・1426年(応永33年6月) 近江坂本の馬借一揆が京都へ入る
・1428年(正長元年7月6日) 危篤に陥る
・1428年(正長元年7月20日) 京都において、数え年28歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1897年(明治30)金本位制の「貨幣法」が公布される詳細
1933年(昭和8)米穀統制法」が公布される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、「国宝保存法」が公布(施行は同年7月1日)された日です。
 「国宝保存法(こくほうほぞんほう)」は、日本の文化財を保護するために制定された法律(昭和4年3月28日法律第17号)でした。それまで、1897年(明治31)制定の「古社寺保存法」があったのですが、古社寺以外でも、旧大名家が所蔵する宝物類が散逸する等の状況があり、旧幕府体制の崩壊後放置されていた城郭建築等の文化財保護の観点などから、これに代わって制定されます。
 この法律では、古社寺の所有要件をはずし、国有、公有、私有であっても「国宝」の指定対象とし、「古社寺保存法」による「特別保護建造物」は「国宝」と称することとなりました。これによって、社寺有以外の絵画、書跡等も指定が進められ、宝物類3,705件、建造物845件が「国宝」となり、その輸出又は移出は禁止されることになります。
 太平洋戦争後、1950年(昭和25)8月29日の「文化財保護法」施行に伴い廃止されましたが、それまでの「国宝」(旧国宝とも呼ばれる)は、新法の規定による「重要文化財」に指定したものとされました。
 以下に、「国宝保存法」(昭和4年3月28日法律第17号) を全文掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「国宝保存法」(昭和4年3月28日法律第17号)

第一条 建造物、宝物其ノ他ノ物件ニシテ特ニ歴史ノ証徴又ハ美術ノ模範ト為ルベキモノハ主務大臣国宝保存会ニ諮問シ之ヲ国宝トシテ指定スルコトヲ得

第二条 主務大臣前条ノ規定ニ依ル指定ヲ為シタルトキハ其ノ旨ヲ官報ヲ以テ告示シ且当該物件ノ所有者ニ通知ス

第三条 国宝ハ之ヲ輸出又ハ移出スルコトヲ得ズ但シ主務大臣ノ許可ヲ受ケタルトキハ此ノ限ニ在ラズ

第四条 国宝ノ現状ヲ変更セントスルトキハ主務大臣ノ許可ヲ受クベシ但シ維持修理ヲ為スハ此ノ限ニ在ラズ

第五条 主務大臣前二条ノ規定ニ依ル許可ヲ為サントスルトキハ国宝保存会ニ諮問スベシ

第六条 国宝ノ所有者ニ付変更アリタルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ所有者ヨリ主務大臣ニ届出ヲ為スベシ国宝滅失又ハ毀損シタルトキ亦同ジ

第七条 国宝ノ所有者ハ主務大臣ノ命令ニ依リ一年内ノ期間ヲ限リ帝室、官立又ハ公立ノ博物館又ハ美術館ニ其ノ国宝ヲ出陳スル義務アルモノトス但シ祭祀法用又ハ公務執行ノ為必要アルトキ其ノ他已ムコトヲ得ザル事由アルトキハ此ノ限ニ在ラズ
2 前項ノ命令ニ対シテ不服アル者ハ訴願ヲ為スコトヲ得

第八条 前条ノ規定ニ依リテ国宝ヲ出陳シタル者ニ対シテハ命令ノ定ムル所ニ依リ国庫ヨリ補給金ヲ交付ス

第九条 第七条ノ規定ニ依リテ出陳シタル国宝其ノ出陳中滅失又ハ毀損シタルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ国庫ヨリ其ノ所有者ニ対シ通常生ズベキ損害ヲ補償ス但シ不可抗力ニ因リタル場合ハ此ノ限ニ在ラズ
2 前項ノ損害補償額ハ主務大臣之ヲ決定ス其ノ決定ニ対シテ不服アル者ハ決定通知ノ日ヨリ三月内ニ通常裁判所ニ出訴スルコトヲ得

第十条 第七条ノ規定ニ依リテ出陳シタル国宝ニ付其ノ出陳中所有者ノ変更アリタルトキハ新所有者ハ当該国宝ニ関シ本法ニ規定スル旧所有者ノ権利義務ヲ承継ス

第十一条 公益上其ノ他特殊ノ事由ニ依リ必要アルトキハ主務大臣国宝保存会ニ諮問シ国宝ノ指定解除ヲ為スコトヲ得
2 主務大臣前項ノ規定ニ依ル指定解除ヲ為シタルトキハ其ノ旨ヲ官報ヲ以テ告示シ且当該物件ノ所有者ニ通知ス

第十二条 神社又ハ寺院(仏堂ヲ含ム以下同ジ)ノ所有ニ属スル国宝ハ神社ニ在リテハ神職(官国幣社ニ在リテハ宮司、府県郷社ニ在リテハ社司、村社以下ニ在リテハ社掌)、寺院ニ在リテハ住職(仏堂ニ在リテハ受持僧侶)之ヲ管理ス但シ主務大臣ノ許可ヲ受ケ別ニ管理者ヲ定ムルコトヲ得

第十三条 神社又ハ寺院ノ所有ニ属スル国宝ハ之ヲ処分シ、担保ニ供シ又ハ差押フルコトヲ得ズ但シ主務大臣ノ許可ヲ受ケ処分シ又ハ担保ニ供スルハ此ノ限ニ在ラズ
2 主務大臣前項ノ規定ニ依ル許可ヲ為サントスルトキハ国宝保存会ニ諮問スベシ
3 主務大臣ノ許可ヲ受ケズシテ神社又ハ寺院ノ所有ニ属スル国宝ヲ処分シ又ハ担保ニ供シタルトキハ之ヲ無効トス

第十四条 神社又ハ寺院其ノ所有ニ属スル国宝ヲ維持修理スルコト能ハザルトキハ主務大臣国宝保存会ニ諮問シ之ニ対シ補助金ヲ交付スルコトヲ得
2 特ニ必要アルトキハ神社又ハ寺院以外ノモノノ所有ニ属スル国宝ニ付前項ノ規定ヲ準用ス

第十五条 補助金ハ予算額ヲ以テ之ヲ交付スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ精算ノ上剰余アルトキハ之ヲ還付セシムルコトヲ得

第十六条 補助金及補給金トシテ国庫ヨリ支出スベキ金額ハ毎年度十五万円以上二十万円以下トス
2 前項ノ金額ノ外特ニ必要アルトキハ予算ノ定ムル所ニ依リ臨時ニ補助金又ハ補給金ヲ支出スルコトヲ得

第十七条 国宝保存会ノ組織及権限ニ関スル事項ハ本法ニ規定スルモノノ外勅令ヲ以テ之ヲ定ム

第十八条 神社又ハ寺院ノ所有ニ属スル国宝ノ管理ニ関スル事項ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム

第十九条 国ノ所有ニ属スル国宝ニ関シテハ勅令ヲ以テ別段ノ定ヲ為スコトヲ得

第二十条 主務大臣ノ許可ナクシテ国宝ヲ輸出又ハ移出シタル者ハ五年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二千円以下ノ罰金ニ処ス

第二十一条 国宝ヲ損壊、毀棄又ハ隠匿シタル者ハ五年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ五百円以下ノ罰金ニ処ス
2 前項ノ国宝自己ノ所有ニ係ルトキハ二年以下ノ懲役若ハ禁錮又ハ二百円以下ノ罰金若ハ科料ニ処ス

第二十二条 第四条ノ規定ニ違反シ許可ヲ受クベキ者之ヲ受ケズシテ国宝ノ現状ヲ変更シタルトキハ五百円以下ノ過料ニ処ス

第二十三条 第六条ノ規定ニ違反シ届出ヲ為サザル者ハ百円以下ノ過料ニ処ス

第二十四条 第七条ノ規定ニ依リテ出陳シタル国宝ノ管理者又ハ神社若ハ寺院ノ所有ニ属スル国宝ノ管理者怠慢ニ因リ其ノ管理スル国宝ヲ滅失又ハ毀損スルニ至ラシメタルトキハ五百円以下ノ過料ニ処ス

第二十五条 非訟事件手続法第二百六条乃至第二百八条ノ規定ハ本法ニ規定スル過料ニ付之ヲ準用ス

  附 則

1 本法施行ノ期日ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
2 古社寺保存法ハ之ヲ廃止ス
3 古社寺保存法ニ依リテ特別保護建造物又ハ国宝ノ資格アルモノト定メラレタル物件ハ之ヲ本法ニ依リテ国宝トシテ指定セラレタル物件ト看做ス
4 古社寺保存法ニ依リテ下付シタル保存金ハ之ヲ本法ニ依リテ交付シタル補助金ト看做ス

           「官報」より

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 今日は、江戸時代後期の1837年(天保8)に、元大坂東町奉行所与力・陽明学者大塩平八郎が市中潜伏中に幕吏に囲まれ、自刃した日ですが、新暦では5月1日となります。
 大塩平八郎(おおしお へいはちろう)は、1793年(寛政5年1月22日)に、大坂天満の与力邸で父・大塩敬高の子(母は大西氏)として生まれましたが、名は正高(のち後素)と言いました。幼くして父母を失い、祖父に育てられ、1806年(文化3)頃に東町奉行所に出仕します。
 1820年(文政3)に東町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となり、1824年(文政7)には儒学者の頼山陽と知り合いました。職務に精励し名与力と評され、1827年(文政10)の豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教の弾圧、1829年(文政12)の不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断、1830年(天保元)の破戒僧数十名を遠島の刑に処するなどの働きをします。
 同年に、東町奉行高井山城守実徳の辞職と共に養子格之助に職を譲り、38歳で隠退しました。その後は学問に専念、家塾洗心洞で子弟を教育したり、『古本大学刮目』や『洗心洞劄記』などを著したりします。
 1836年(天保7)の天保の大飢饉の中で、当局にしばしば救済策を上申するものの拒否され、立ち上がることを決意し、翌年2月に蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行いました。近在農民に挙兵の檄文を撒き、同月19日に民衆と共に蜂起(大塩平八郎の乱)しましたが、すぐに鎮圧されて敗走、約40日後の3月27日に、市中潜伏中に幕吏に囲まれ、数え年45歳で自刃しています。

〇大塩平八郎の主要な著作

・『古本大学刮目(かつもく)』8巻(1832年成立)
・『洗心洞劄記(さっき)』上下2巻(1832年成立)
・『儒門空虚聚語(しゅうご)』2巻
・『同附録』1巻
・『増補孝経彙註(いちゅう)』1巻

〇大塩平八郎の乱とは?

 江戸時代後期の1837年(天保8年2月19日)に、大塩平八郎(元大坂東町奉行所与力・陽明学者)が、天保の飢饉で苦しむ民衆の救済と腐敗した江戸幕府の改革を訴え、門弟の武士や農民ら約300人を率いて蜂起した反乱です。
 1828年(文政11)に九州大洪水が起き、断続的に天災による諸国異作が続き、1836年(天保7)には、天保の大飢饉となりました。大坂でも餓死者が続出しましたが、大坂町奉行・跡部山城守良弼(老中・水野忠邦の実弟)は、なんら救済策を講じることなく、逆に大量の米を江戸へ回送(徳川家慶の新将軍就任の儀式用)したため、米を買占めた豪商らは暴利を博します。
 東町奉行跡部山城守良弼に何度か救急策を建議するが容れられず、このような大坂町奉行諸役人と特権豪商らに対し誅伐を加え、隠匿されている米穀、金銭を窮民に分け与えるため、挙兵を決意しました。2ヶ月前から蔵書1,241部を金668両余りで売り払らって資金調達し、家族を離縁した上で、難民救済と共に、大砲などの火器や爆薬を整えます。
 ひそかに門弟の与力や同心、近辺の富農らとはかり、2,040字に及ぶ幕政批判の檄文を飛ばし、「救民」の旗印を掲げて2月19日に、決起しました。私塾「洗心洞」に集う門弟20数名と共に、自邸に火を放ち、豪商が軒を並べる船場へと繰り出しましたが、一党は約300人となります。
 豪商宅を襲って金穀を奪ったり、放火したりしましたが、幕府方によって半日で鎮圧されました。しかし、兵火は翌日の夜まで燃え続け、大坂市中の5分の1を焼き、約7万人ほどが焼け出され、焼死者は270人以上にのぼり、「大塩焼け」と呼ばれる大火災となります。
 反乱側は18人が死亡、大塩平八郎は約40日後、隠れ家で見つかり、自害しますが、多くが捕縛され、重罪(死罪33人、遠島4人ほか)に問われました。
 その後、越後柏崎の生田万の乱、備後三原の一揆、摂津能勢の山田屋大助の騒動など、各地で暴動が続くことになります。

☆大塩平八郎関係略年表(日付は旧暦です)

・1793年(寛政5年1月22日) 大坂天満の与力邸で父・大塩敬高の子(母は大西氏)として生まれる
・1806年(文化3年)頃 東町奉行所に出仕する
・1820年(文政3年) 東町奉行高井山城守実徳に重用され吟味役となる
・1824年(文政7年) 頼山陽と知り合う
・1827年(文政10年) 豊田貢(みつぎ)らのキリシタン類似の宗教を弾圧する
・1829年(文政12年) 不正を働いた西町奉行所筆頭与力弓削新右衛門を処断する
・1830年(天保元年) 破戒僧数十名を遠島の刑に処する
・1830年(天保元年) 38歳で、東町奉行高井山城守実徳の辞職と共に養子格之助に職を譲り隠退する
・1832年(天保3年) 『古本大学刮目』8巻が成立する
・1833年(天保4年) 『洗心洞劄記』を家塾板として出版する
・1835年(天保6年) 『洗心洞劄記』を門人による跋文を加えて精義堂より再版する
・1836年(天保7年) 天保の大飢饉の中で、当局に救済策を上申するが拒否される
・1837年(天保8年2月) 蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行う
・1837年(天保8年2月19日) 民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)
・1837年(天保8年3月27日) 市中潜伏中に幕吏に囲まれ、数え年45歳で自刃する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1926年(大正15)歌人島木赤彦の命日(赤彦忌)詳細
1998年(平成10)小説家・ノンフィクション作家山本茂実の命日詳細
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