今日は、江戸時代後期の1860年(万延元年閏3月19日)に、江戸幕府が最初の貿易統制令である「五品江戸廻送令」を発令した日です。
「五品江戸廻送令(ごひんえどかいそうれい)」は、とくに雑穀、水油、蝋(ろう)、呉服、生糸の五品に限り、各地の生産地から直接に横浜表に送荷するのを禁じ、江戸への積み廻しを命じ、江戸問屋を経由させることしました。1858年(安政5年6月19日)締結の「日米修好通商条約」や「安政の五か国条約」の締結により、1859年(安政6年6月)開港以来、生糸など多くの輸出品が産地から横浜へ直送されるようになったため、江戸送りの荷高は減少し、江戸問屋の特権的流通機構がくずれ、商品の需給の不均衡から物価が騰貴したのに対応したものです。
しかし、列強各国から、条約に規定する自由貿易を妨げる、と強い反発を受けることとなり、在方商人の横浜への進出は止めようもなくなりました。この結果、生糸を除く4品についてはかなりの減少しましたが、最大の貿易品である生糸についてはあまり効果がないこととなります。
1864年(元治元年9月)には外国側の圧力で江戸問屋の買取り制は廃止され、これによる貿易統制は実質的になくなりました。尚、以下に「五品江戸廻送令」(現代語訳・注釈付)を掲載しておきますのでご参照下さい。
〇「五品江戸廻送令」1860年(万延元年閏3月19日)発布
神奈川御開港[1]、外国貿易仰せ出され候に付、諸商人[2]共一己利徳に泥み[3]、競而相場糶上げ[4]、荷元[5]を買受け、直に御開港場所江相廻し候に付、御府内入津[6]之荷物相減、諸色払底[7]に相成、難儀致し候趣相聞候に付、当分之内左之通仰せ出され候。
一 雑穀、 一 水油[8]、 一 蝋、 一 呉服、 一 糸
右之品々に限り、貿易荷物之分者、都而御府内より相廻し候間、在々[9]より決而神奈川表江積出し候間敷候[10]。尤も貿易の御仕法[11]相改り候儀にはこれなく候間、御府内問屋ども方え積付け候荷物の内買取り、貿易致し候儀は苦しからず候。
『続徳川実記』より
【注釈】
[1]神奈川御開港:かながわごかいこう=「日米修好通商条約」により、1859年(安政6年6月5日)に開港した。
[2]諸商人:しょしょうにん=在郷商人のこと。
[3]一己利徳に泥み:いっこのりとくになずみ=自分だけの利益にこだわって。
[4]競而相場糶上げ:きそってそうばせりあげ=互いに競争して値段をつり上げること。
[5]荷元:きそってそうばせりあげ=賞品。
[6]御府内入津:ごふないにゅうしん=江戸へ入港すること。
[7]諸色払底:しょしきふってい=品不足になること。
[8]水油:みずあぶら=灯油のこと。
[9]在々:ざいざい=いなかのこと。この場合は、産地を意味する。
[10]間敷候:まじくそうろう=禁止する。
[11]御仕法:ごしほう=やり方。仕方。手段。
<現代語訳>
神奈川(横浜)が開港され外国貿易を命じられたことにつき、在郷商人達は自分に利益にこだわって、互いに競争して値段を吊り上げ、商品を買い受け、直接開港場に運送したので、江戸へ入って来るものが品不足になり、困っていると聞いているので、当分の間は左のように通達された。
一、雑穀 一、水油、一、蝋、一、呉服、一、糸(生糸)
右の品々に限り、貿易品の分は、江戸より送るので、産地より決して神奈川へ出荷してはいけない。もっとも貿易の仕方が改まった場合はこの限りではない。江戸の問屋共へ商品を送った内一部を買い取り、貿易するのは構わない。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1943年(昭和18) | 洋画家藤島武二の命日 | 詳細 |
1950年(昭和25) | 世界平和擁護大会で原爆禁止の「ストックホルム・アピール」が採択される | 詳細 |