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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、詩人蒲原有明の誕生日です。
 蒲原有明(かんばら ありあけ)は、東京市麹町区隼町で、佐賀藩士だった父・蒲原忠蔵、母・石川ツネの子として生まれましたが、本名は隼雄(はやお)と言いました。1881年(明治14)、8歳の時に生母ツネは、父に離婚され、その後は継母に育てられます。
 1892年(明治25)に東京府立尋常中学校(現在の日比谷高校)を卒業し、翌年に神田の国民英学会に入り、英語・英文学を学び、詩に親しむようになりました。1894年(明治27)に「落穂双紙」を創刊し、詩作を発表、翌年に紀行文『松浦あがた』を発表、1898年(明治31)には、「読売新聞」の懸賞小説(尾崎紅葉選)に『大慈悲』が一等当選します。
 詩作に専念するようになり、1902年(明治35)に第1詩集『草わかば』、1903年(明治36)に第2詩集『独絃哀歌』を刊行し、新しい詩人として注目されました。続いて、1905年(明治38)に第3詩集『春鳥集』、1908年(明治41)に第4詩集『有明集』を刊行し、象徴詩人として薄田泣菫と併称されるようになります。
 自然主義の流れに向か合う中で、文壇から激しく批判されて孤立、ノイローゼに陥って、大正以後は文壇を離れました。1919年(大正8)に鎌倉に移住したものの、1923年(大正12)の関東大震災で家屋が損傷し、静岡へ移転を余儀なくされます。
 1938年(昭和13)に随筆集『飛雲抄』を刊行したりしましたが、1945年(昭和20)の敗戦後に鎌倉へ戻りました。1946年(昭和21)に随筆集『野ざらしの夢』、翌年に自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』を刊行しています。
 1948年(昭和23)には、日本芸術院会員に選ばれたものの、病を得て、1952年(昭和27)2月3日に急性肺炎のため鎌倉の自宅において、77歳で亡くなりました。

〇蒲原有明の主要な著作

・紀行文『松浦あがた』(1895年)
・小説『大慈悲』(1997年)「読売新聞」の懸賞1等当選
・第1詩集『草わかば』新声社刊(1902年)
・第2詩集『独絃哀歌』白鳩社刊(1903年)
・第3詩集『春鳥集』本郷書院刊(1905年)
・第4詩集『有明集』易風社刊(1908年)
・『有明詩集』アルス刊(1922年)
・『有明詩抄』岩波文庫刊(1928年)
・随筆集『飛雲抄』書物展望社刊(1938年)
・随筆集『野ざらしの夢』生活社刊(1946年)
・自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』東京出版刊(1947年)

☆蒲原有明関係略年表

・1875年(明治8)3月15日 東京市麹町区隼町で、佐賀藩士だった父・蒲原忠蔵、母・石川ツネの子として生まれる
・1881年(明治14) 8歳の時に生母ツネは、父に離婚される
・1892年(明治25) 東京府立尋常中学校(現在の日比谷高校)を卒業する
・1893年(明治26) 神田の国民英学会に入り、英語・英文学を学ぶ
・1894年(明治27) 「落穂双紙」を創刊し、詩作を発表する
・1895年(明治28) 紀行文『松浦あがた』を発表する
・1898年(明治31) 「読売新聞」の懸賞小説(尾崎紅葉選)に『大慈悲』が一等当選する
・1890年(明治33) 「新声」詩壇の撰者となる
・1902年(明治35) 第1詩集『草わかば』(新声社)を刊行する
・1903年(明治36) 第2詩集『独絃哀歌』(白鳩社)を刊行する
・1905年(明治38) 第3詩集『春鳥集』(本郷書院)を刊行する
・1906年(明治39) 西山キミと結婚する 
・1908年(明治41) 第4詩集『有明集』(易風社)を刊行する
・1919年(大正8) 鎌倉に移住する
・1922年(大正11) 『有明詩集』(アルス)を刊行する
・1923年(大正12) 関東大震災で家屋が損傷し、静岡へ移転する
・1938年(昭和13) 随筆集『飛雲抄』(書物展望社)を刊行する
・1945年(昭和20) 敗戦後に鎌倉へ戻る
・1946年(昭和21) 随筆集『野ざらしの夢』(生活社)を刊行する
・1947年(昭和22) 自伝小説『夢は呼び交す-黙子覚書』(東京出版)を刊行する
・1948年(昭和23) 日本芸術院会員に選ばれる
・1952年(昭和27)2月3日 急性肺炎のため鎌倉の自宅において、77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)明治政府が、民政方針を示す「五榜の掲示」の高札を設置する(新暦4月7日)詳細
1890年(明治23)琵琶湖疎水の第一期工事が完成し、全線通水が完了する詳細