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 今日は、江戸時代後期の1789年(寛政元)に、哲学者・経済学者・思想家三浦梅園が亡くなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 三浦梅園(みうら ばいえん)は、1723年(享保8年8月2日)に、豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれましたが、本名は晋(すすむ)と言いました。若い頃に杵築藩の儒者綾部絅斎や中津藩の儒者藤田敬所に学びます。
 20歳頃までに天文学、和算を学び、家業を継ぎながら、梅園塾での門人の教育にも当たりました。その中で、長崎・大宰府・熊本に遊学や伊勢参宮をしたり、1752年(宝暦2年)の30歳の時、天球儀を作成するなど、自然の思索に没頭します。
 1763年(宝暦13)、41歳の時に経世論『敢語』一巻が成り、翌年に医学書『身生餘譚』、1773年(安永2)に経済論『価原』、1775年(安永4)に哲学書『玄語』8巻を完成させるなど、多分野の学問を探求しました。1786年(天明6)、64歳の時に杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉り、詩の研究書『詩轍』も著しています。
 独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱え、1789年(寛政元)には倫理書『贅語』を完成させましたが、同年3月14日に郷里において、数え年67歳で亡くなりました。尚、後世には帆足万里、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人に数えられるようになります。

〇三浦梅園の主要な著作

・経世論『敢語(かんご)』(1763年)
・医学書『身生餘譚』(1764年)
・経済論『価原(かげん)』(1773年)
・哲学書『玄語』全8巻(1775年)
・医学書『造物餘譚』(1781年)
・治世意見書『丙午封事』(1786年)
・詩の研究書『詩轍(してつ)』(1786年)
・倫理書『贅語』全14巻(1789年)
・『帰山録』(1778年)
・『玄語手引艸(てびきぐさ)』
・読書日記『浦子手記』

☆三浦梅園関係略年表(日付は旧暦です)

・1723年(享保8年8月2日) 豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれる
・1734年(享保19年) 12歳の頃、隣村の西伯寺に山越えをして通い、その寺にある字で難字について調べる
・1736年(元文元年) 14歳の時、『和漢朗詠集』を写す  
・1737年(元文2年) 15歳の時、はじめて詩に志す  
・1739年(元文4年) 17歳の時、中津の藤田敬所に学び、滞在1ヵ月にて帰る
・1743年(寛保3年) 21歳の時、春再び藤田敬所の門に遊ぶ
・1745年(延享2年)秋、23歳の時、長崎・大宰府・熊本に遊ぶ
・1750年(寛延3年2月11日~3月23日) 28歳の時、伊勢参宮旅行をする 
・1752年(宝暦2年) 30歳の時、天球儀を作成する
・1760年(宝暦10年1月) 38歳の時、父・義一が75歳で亡くなる
・1763年(宝暦13年) 41歳の時、経世論『敢語』一巻が成る
・1764年(明和元年) 42歳の時、長男黄鶴(修齢)が誕生する
・1764年(明和元年) 医学書『身生餘譚』一巻が成る 
・1764年(明和元年) 英彦山に上り大宰府に泰賀上人を訪ねる
・1773年(安永2年) 51歳の時、経済論『価原』が成る
・1775年(安永4年) 53歳の時、哲学書『玄語』8巻が完成する
・1781年(天明元年2月21日~3月15日) 59歳の時、小倉・中津を旅行する
・1781年(天明元年) 医学書『造物餘譚』が成る
・1786年(天明6年) 64歳の時、杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉る
・1786年(天明6年) 詩の研究書『詩轍』が成る
・1789年(寛政元年) 67歳の時、倫理書『贅語』が完成する
・1789年(寛政元年3月14日) 豊後国国東郡富永村で、数え年67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細