今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1945年(昭和20)に、小磯国昭内閣で「学童疎開強化要綱」が閣議決定された日です。
「学童疎開強化要綱(がくどうそかいきょうかようこう)」は、「学童疎開ノ徹底強化ヲ図ル」ために、国民学校初等科3年以上の児童についてはその全員を疎開させ、1、2年の児童については、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象に加えることにしたものでした。同月16日には、追加の閣議決定がなされ、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるものとされます。
この背景には、アメリカ軍のB29爆撃機等による都市部の空襲が激しくなったことがあり、同年4月には京都・舞鶴・広島・呉の各都市が追加され、疎開学童は約45万人と推計されルに至りました。この状態は、敗戦後まで続いて、ようやく戻ることが許され、同年10月~11月に集団疎開からの復帰が完了しています。
以下に、「学童疎開強化要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇学童疎開とは?
昭和時代前期の太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による日本本土爆撃に備え、東京、大阪、名古屋、横浜など大都市の国民学校初等科児童を集団的、個人的に、半強制により農村地帯へ移動させた措置のことです。アメリカ軍の爆撃機による直接的な本土攻撃の危機が増大した1943年(昭和18)12月「都市疎開実施要綱」が閣議決定されて都市施設の地方分散がはかられ、東京都での学童疎開も始まっていました。しかし、1944年(昭和19)6月15日に、アメリカ軍がサイパン島に上陸し、さらにその危険が増大することになり対策の強化が迫られたのです。
その中で、同年6月30日、東条英機内閣は「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、「縁故疎開」を「強力ニ勧奨スル」とともに、縁故のない児童について「集団疎開」を実施することになりました。そして、同年8月から学校単位の集団疎開が実施され、1945年(昭和20)の疎開児童数は約45万人に達したのです。
これにらの疎開先では公会堂、社寺、旅館などが宿舎とされ、そこで授業等も行われましたが、戦争末期の食糧不足、物資の欠乏により、その調達に追われる日々で、まとも教育はあまり行われませんでした。そんな中で、1944年(昭和19)8月22日、沖縄県の児童、教員、保護者を乗せた疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍潜水艦に撃沈され、犠牲者数1,476名(内、疎開学童780名)を出すという、いたましい対馬丸事件も発生したのです。
〇「学童疎開強化要綱」 1945年(昭和20)3月9日閣議決定
第一 方針
昭和20年度学童集団疎開継続ニ関シテハ本年1月12日閣議決定ヲ経タル処其ノ後ノ戦局ノ推移ニ鑑ミ左ノ要領ニ依リ学童疎開ノ徹底強化ヲ図ルモノトス
第二 要領
一、現下ノ戦局ニ鑑ミ防空防衛上ノ見地ヨリ学童ノ疎開ヲ必要トスル地域及疎開受入ニ適当ナル地域ニ関シ関係各省協議ノ上基本計画ヲ樹立スルモノトス
二、学童疎開ヲ実施スル地域ヲ甲地域及乙地域ニ別チ甲地域ニ於テハ徹底的ナル疎開ヲ実施セシムルコトトシ乙地域ニ於テハ概ネ現在行ヒツツアル程度ノ疎開ヲ実施セシムルモノトス
三、甲地域ニ於ケル初等科第3学年乃至第6学年児童ハ極力縁故疎開ヲ為サシメ之ヲ為シ得ザルモノニ付テハ集団疎開ノ方法ニ依リ全員ヲ疎開セシムルモノトス
四、甲地域ニ於ケル初等科第1学年及第2学年児童ハ強力ナル勧奨ニ依リ縁故疎開ヲ実施セシムルモノトス縁故疎開ヲ為シ得ザルモノニ対シテハ学校ニ於ケル授業ハ之ヲ行ハザルモ実情ニ応ジ適当ナル方法ニ於テ訓育ヲ主トスル教育ヲ継続スル方途ヲ講ズルモノトス但シ保護者ノ申出アリ且当該都府県ニ於テ適当ト認メタルトキハ集団疎開ヲ為サシメ得ルモノトス
五、甲地域ニ於ケル国民学校ノ校舎ハ事務室等所要ノ一部ヲ除キ部隊ノ駐在其ノ他緊急ナル用途ニ転用スルモノトス
六、甲地域及乙地域ハ関係各省ト協議ノ上文部大臣之ヲ指定シ其ノ範囲ハ実情ニ即シ逐次之ヲ拡張スルモノトス尚疎開受入地域ニ付テモ集団疎開ノ場合ハ勿論縁故疎開ノ場合ニ於テモ関係各省ト協議ノ上文部大臣ニ於テ大体ノ範囲ヲ指示スルモノトス
七、集団疎開学童ハ地方ノ実情ニ即シ農耕作業,家畜ノ飼育,薪炭ノ生産等ヲ為サシメ食糧,燃料其ノ他生活必需物資ノ自給ニ資セシムルモノトス
八、疎開学童受入府県ヲシテ集団疎開学童ニ対スル教育養護ノ協力ヲ一層徹底セシムルト共ニ縁故疎開学童ニ対スル受入施設ニ付テモ亦之ヲ整備セシムル措置ヲ講ズルモノトス
九、本要綱実施ニ伴ヒ別途必要ナル予算的措置ヲ講ズルモノトス
備考
(一)現在ノ集団疎開受入地ニシテ防空防衛上不適当ト認ムルニ到リタルモノアルトキハ之ガ再疎開ヲ実施スルモノトス
(二)空襲等敵ノ行為ニ因ル罹災学童ニシテ集団疎開ニ該当スルモノアルトキハ其ノ保護者ノ申出ニ依リ其ノ学童ノ在学スル国民学校ノ集団疎開ニ急速ニ参加セシムルモノトス但シ縁故疎開ヲ希望スルモノニ対シテハ極力之ガ便宜ヲ図ルモノトス
(三)本年1月12日ノ閣議決定ニ於テハ学童疎開実施期間ハ之ヲ昭和21年3月迄延長スルコトトナリ居ルモ戦局ノ推移ニ依リテハ更ニ之ヲ延長スルモノトス
「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より
〇「学童疎開強化要綱(追加)」 1945年(昭和20)3月16日閣議決定
(「第二 要領」の四の後に次の1項を追加する)
五、甲地域ニ於ケル高等科児童ニ付テモ可及的縁故疎開ヲ為サシムルコトトシ之ヲ為シ得ザルモノニ付テハ男子児童ハ農業増産其ノ他ニ勤労動員スルモノトシ女子児童ハ実情ニ応ジ適当ナル場所ニ於テ軽度ノ勤労ニ服セシムルモノトス
「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より
☆「学童疎開」関係略年表
<1943年(昭和18)>
・12月10日 文部省により縁故による学童疎開促進が発表される
・12月21日 東條内閣により「都市疎開実施要綱」が閣議決定される
<1944年(昭和19)>
・3月10日 東京都は「学童疎開奨励ニ関スル件」を通牒し、縁故・養護学園を利用する疎開実施につき指示する
・4月 東京都では縁故のない児童のための疎開学園設置が進められる
・6月30日 東条英機内閣が「学童疎開促進要綱」を閣議決定し、集団的な学童疎開が促進される
・7月5日 防空総本部は「帝都学童疎開実施細目」を定め、実施が勧奨される
・7月7日 緊急閣議により沖縄の疎開が決定される
・7月12日 文部省は「帝都学童集団疎開実施細目」により、国民学校初等科第3~6学年児童約47万人中20万人の集団疎開計画を示す
・7月19日 沖縄県は「学童集団疎開準備ニ関スル件」を通牒し、疎開を準備するよう命じる
・7月22日 文部省は「帝都学童集団疎開実施要領」「同実施細目」に準じ、疎開都市として、横浜、川崎、横須賀、大阪、神戸、尼崎、名古屋、門司、小倉、戸畑、若松、八幡の12都市を追加指定する
・8月16日 沖縄県の九州などへの疎開が開始される
・8月22日 沖縄から本土への学童疎開のための「対馬丸」が米軍潜水艦により撃沈される(対馬丸事件)
・8月~9月 約35万人の児童が、約7,000ヶ所の旅館、寺院などに集団疎開する
・9月 文部省は指令を改め、旅館を宿舎とする場合は一ヶ月25円、その他は23円以内とし、特別の事情ある場合は文部大臣の承認を受けることとする
・9月29日 「疎開学童対策協議会規程」と「疎開学童ニ関スル措置要領」が閣議決定される
<1945年(昭和20)>
・1月12日 「昭和20年度学童集団疎開継続ニ関スル措置要領」を閣議決定する
・3月9日 「学童疎開強化要綱」を閣議決定し、初等科3年以上の児童は全員を疎開させ、1、2年の児童は、縁故疎開を強力に勧奨するとともに、集団疎開の対象にも加える
・3月15日 空襲に対処するため「大都市における疎開強化要綱」が閣議決定される(学童、母子など続々緊急疎開)
・3月16日 「学童疎開強化要綱(追加)」を再度閣議決定し、高等科の児童についても可能なかぎり縁故疎開をすすめるとする
・4月 疎開都市に京都、舞鶴、広島、呉の4都市を追加指定する
・8月16日 東京都は学童集団疎開を昭和21年3月まで継続する方針を明示する
・10月10日 東京都の学童集団疎開引揚げ第一陣が東京へ着く
・11月 集団疎開からの復帰が完了する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1894年(明治27) | 日本初の記念切手(明治天皇銀婚記念切手)が発行される(記念切手記念日) | 詳細 |
1968年(昭和43) | イタイイタイ病の患者・遺族が原因企業の三井金属鉱業に損害賠償を提訴する | 詳細 |