今日は、平安時代中期の959年(天徳3年3月2日)に、第64代の天皇とされる円融天皇の生まれた日ですが、新暦では4月12日となります。
円融天皇(えんゆうてんのう)は、京都において、村上天皇の第五皇子(母は藤原安子)として生まれましたが、名は守平(もりひら)と言いました。964年(応和4)に幼くして母・安子を亡くし、967年(康保4)には、父・村上天皇も亡くなって、同母兄憲平親王(冷泉天皇)が即位します。
同年9月1日に、9歳で立太子、969年(安和2)に安和の変が起こり源高明が失脚すると、同年9月23日に冷泉天皇が譲位して、円融天皇として即位しました。幼い天皇に代わって政治を担当したのは藤原実頼でしたが、970年(天禄元)に実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継いだものの、翌年亡くなっています。
972年(天禄3)に元服を迎え、翌年には藤原兼通の娘・媓子を入内させ中宮としました。976年(貞元元)に内裏が焼亡し、堀河院(兼通第)に移り、翌年には新造なった内裏に戻っています。
977年(貞元2)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とし、翌年に藤原兼家も次女・詮子を入内させ、980年(天元3)には、女御となった詮子が天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けました。980年(天元3)に内裏が再び火災に遭い、翌年に藤原頼忠の四条坊門大宮第(四条後院)に移りましたが、982年(天元5)には三たび内裏が焼亡しています。
984年(永観2)に息子の懐仁親王の立太子を条件に兄・冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位し、太上天皇となりました。985年(寛和元)には、紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、当代の著名歌人に和歌を奉らせるなど、自由な上皇の身で和歌、漢詩、管絃等で遊び、石清水社、石山寺、南都の諸寺巡礼などへの御幸を行っています。
986年(寛和2)の寛和の変により花山帝が譲位し、息子の懐仁親王(一条天皇)が数え年7歳で即位すると、出家して金剛法と号し、円融院に住むようになりました。しかし、991年(正暦2年2月12日)に京都において、数え年33歳の若さで亡くなり、陵墓は後村上陵(現在の京都市右京区宇多野福王子町)とされます。
尚、特に和歌を愛好し、『拾遺和歌集』以下の勅撰集に24首入集、『円融院御集』も伝わってきました。
<代表的な歌>
・「春日野に 多くの年は つみつれど 老いせぬ物は 若菜なりけり」(拾遺和歌集)
・「月かげの 初秋風と ふけゆけば 心づくしに 物をこそ思へ」(新古今和歌集)
・「思ひかね ながめしかども 鳥辺山 はてはけぶりも みえずなりにき」(詞花和歌集)
〇円融天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・959年(天徳3年3月2日) 京都において、村上天皇の第五皇子(母は藤原安子)として生まれる
・964年(応和4年4月29日) 幼くして母・安子を亡くす
・967年(康保4年5月25日) 父・村上天皇が亡くなり、同母兄憲平親王(冷泉天皇)が即位する
・967年(康保4年9月1日) 9歳の守平親王が立太子する
・969年(安和2年3月) 安和の変が起こり源高明が失脚する
・969年(安和2年9月23日) 冷泉天皇が譲位、守平親王は円融天皇として即位する
・970年(天禄元年5月18日) 藤原実頼が亡くなると、天皇の外舅藤原伊尹が摂政を引き継ぐ
・972年(天禄3年1月3日) 元服を迎える
・973年(天禄4年7月1日) 藤原兼通の娘・媓子を入内させ中宮とする
・976年(貞元元年5月) 内裏が焼亡する
・976年(貞元元年7月) 堀河院(兼通第)に移る
・977年(貞元2年) 新造なった内裏に戻る
・977年(貞元2年) 関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とする
・978年(天元元年8月) 藤原兼家も次女・詮子を入内させる
・979年(天元2年6月3日) 中宮媓子の崩御し中宮職が空きとなる
・980年(天元3年6月1日) 女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲ける
・980年(天元3年11月) 内裏が再び火災に遭う
・981年(天元4年) 藤原頼忠の四条坊門大宮第(四条後院)に移る
・982年(天元5年) 三たび内裏が焼亡する
・982年(天元5年7月) 入内していた頼忠の娘の遵子を中宮に冊立する
・984年(永観2年8月24日) 息子の懐仁親王の立太子を条件に兄・冷泉帝の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位し、太上天皇となる
・985年(寛和元年2月13日) 紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、当代の著名歌人に和歌を奉らせる
・986年(寛和2年6月23日) 寛和の変により花山帝が譲位し、数え年7歳の懐仁親王(一条天皇)が立つ
・986年(寛和2年8月) 出家して金剛法と号し、円融院に住む
・991年(正暦2年2月12日) 京都において、数え年33歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1886年(明治19) | 「帝国大学令」が公布される | 詳細 |
1943年(昭和18) | 敵性語をやめ、野球用語も全面日本語化することを職業野球の理事会で決定する | 詳細 |