ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年02月

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 今日は、江戸時代中期の1704年(元禄17)に、俳人・蕉門十哲の一人内藤丈草の亡くなった日ですが、新暦では3月29日となります。
 内藤 丈草(ないとう じょうそう)は、1662年(寛文2)に尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で、尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれましたが、名は本常(もとつね)と言いました。3歳の時に生母と死別し、継母に育てられ、10歳頃から俳諧に親しむようになります。
 漢学を穂積武平に学び、漢詩に通じるようになり、禅を玉堂和尚に教えられて、20歳頃から傾倒しました。1688年(貞享5年)に病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り、出家して中村史邦を頼って上京し、向井去来と親交を結びます。
 翌年に落姉舎で松尾芭蕉に会い入門、1691年(元禄4)発刊の去来・凡兆撰『猿蓑』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書くまでになりました。蕉門俳壇の中でしだいに重きをなし、芭蕉の信頼も得て、1693年(元禄6)には近江国に移り、義仲寺無名庵に住みます。
 翌年10月12日に師の芭蕉が亡くなると、3年間の喪に服し、1696年(元禄9)には近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結びました。1700年(元禄13)に郷里に一時帰省後、帰庵して3年間庵に籠り、芭蕉追善のために千部の法華経を読誦します。
 温厚篤実、名利に恬淡な人柄で、洒脱な面もあり諸人に慕われましたが、1704年(元禄17年2月24日)に近江において、数え年43歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「ほととぎす 啼くや枝も梅桜」(寝ころび草)
・「柊に さえかえりわたる月夜かな」(寝ころび草)
・「初秋や をのづととれし 雲の角」(寝ころび草)
・「郭公(ほととぎす)鳴や湖水のさゝにごり」(芭蕉庵小文庫)
・「狼の声そろふなり雪のくれ」
・「うづくまる薬缶の下の寒さ哉」(去来抄)
・「ねばりなき空に走るや秋の雲」
・「眞先に見し枝ならんちる櫻」(猿蓑)
・「角いれし人をかしらや花の友」(続猿蓑)
・「大はらや蝶の出てまふ朧月」(炭俵)

〇内藤丈草の主要な著作

・編著『寝ころび草』(1694年)
・漢詩集『驢鳴草』
・『丈草発句集』(1774年)

☆内藤丈草関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年) 尾張国犬山(現在の愛知県犬山市)で尾張藩犬山領主成瀬家家臣・内藤源左衛門の長子として生まれる
・1664年(寛文4年) 3歳の時に生母と死別し、継母に育てられる
・1671年(寛文11年) 10歳頃から俳諧に親しむ
・1681年(天和元年) 20歳頃から禅に傾倒する
・1688年(貞享5年8月) 病弱のため武士を捨て、異母弟に家督を譲り出家する
・1689年(元禄2年) 落姉舎で松尾芭蕉に会い入門する
・1691年(元禄4年) 『猿蓑(さるみの)』に発句12句が入集し、跋(ばつ)を書く
・1693年(元禄6年) 近江国に移り、義仲寺無名庵に住む
・1694年(元禄7年10月12日) 師の松尾芭蕉が亡くなる
・1696年(元禄9年) 近江国竜が岡(現在の滋賀県大津市)に仏幻庵を結ぶ
・1700年(元禄13年) 郷里に一時帰省する
・1701年(元禄14年) 初春から3年間庵に籠り、芭蕉追善の為に千部の法華経を読誦する
・1704年(元禄17年2月24日) 近江において、数え年43歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1610年(慶長15)絵師長谷川等伯の命日(新暦3月19日)詳細
1934年(昭和9)小説家・脚本家・映画監督直木三十五の命日(南国忌)詳細
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 今日は、明治時代後期の日露戦争下の1904年(明治37)に、「日韓議定書」が調印された日です。
 日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日本と大韓帝国(韓国)との間で締結された協約で、漢城(現在のソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国の外部大臣臨時署理李址鎔によって調印されました。1904年(明治37)1月21日、大韓帝国は日露開戦に備えて局外中立を宣言しましたが、日本はこれを無視し、同年2月9日に仁川に日本軍を上陸させ、さらに漢城(ソウル)に進駐、同月23日には公使林権助が外相李址鎔を買収し、他の閣僚を強迫して締結に及んだとされています。
 その内容は、大韓帝国の領土と王室の保全をうたいつつ、日本のの忠告を入れた施政改善、内乱や第三国の朝鮮侵害には日本が介入、日露戦争遂行上必要な日本軍の行動の自由と軍略上必要な土地の収用の承認、この協定の違反になるような協約を第三国と結ばないなどで、日本の韓国植民地化の第一歩となりました。これに対し朝鮮民衆は反対運動に立ち上がり、大韓帝国の中枢院も動揺、李址鎔邸などへの投爆などが起こります。
 この間、同年8月22日の「第一次日韓協約」、翌年11月17日の「第二次日韓協約」、1907年(明治40)7月24日の「第三次日韓協約」の調印を経て、1910年(明治43)の「韓国併合に関する条約」へと至りました。
 以下に、「日韓議定書」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「日韓議定書」 1904年(明治37年)2月23日調印

大日本帝國皇帝陛下ノ特命全權公使林權助及大韓帝國皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍參將李址鎔ハ各相當ノ委任ヲ受ケ左ノ條款ヲ協定ス
第一條 日韓兩帝國間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル爲メ大韓帝國政府ハ大日本帝國政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ關シ其忠告ヲ容ルゝ事
第二條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ皇室ヲ確實ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事
第三條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ獨立及領土保全ヲ確實ニ保證スル事
第四條 第三國ノ侵害ニ依リ若クハ内亂ノ爲メ大韓帝國ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危險アル場合ハ大日本帝國政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝國政府ハ右大日本帝國政府ノ行動ヲ容易ナラシムル爲メ十分便宜ヲ與フル事
大日本帝國政府ハ前項ノ目的ヲ達スル爲メ軍略上必要ノ地點ヲ臨機收用スルコトヲ得ル事
第五條 兩國政府ハ相互ノ承認ヲ經スシテ後來本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三國トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事
第六條 本協約ニ關聯スル未悉ノ細條ハ大日本帝國代表者ト大韓帝國外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事

明治三十七年二月二十三日

特命全權公使 林權助(印)

光武八年二月二十三日

外部大臣臨時署理
陸軍參將 李址鎔(印)

       『日本外交文書』第37巻より

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 今日は、飛鳥時代の622年(推古天皇30)に、政治家・宗教的思想家聖徳太子が亡くなったとされる日ですが、新暦では4月8日となります。
 聖徳太子(しょうとくたいし)は、574年(敏達天皇3年1月1日)に、飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれたとされますが、名は廏戸豊聡耳皇子と言いました。585年(用明天皇元)に敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位しましたが、587年(用明天皇2)に亡くなり、皇位を巡って争いになり、物部守屋討伐に関わったとされます。
 戦後に蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につけたものの、対立が激化し、592年(崇峻天皇5)に馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させました。翌年に馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して、初の女帝として皇位につけ、聖徳太子が皇太子となって、馬子と共に天皇を補佐することになります。
 同年に摂津国難波に四天王寺を建立し、翌年には「仏教興隆の詔」を発しました。601年(推古天皇9)に斑鳩宮を造営、603年(推古天皇11)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15)に屯倉を各国に設置、高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘るなど政治・経済面の整備を行います。
 また、同年に小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り、翌年に返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れ、608年(推古天皇16)には、返書と裴世清の帰国のため、妹子を高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣するなど外交面でも活躍しました。さらに、615年(推古天皇23)までに『三経義疏』を著し、620年(推古天皇28)には、馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂するなどしています。
 しかし、622年(推古天皇30)に斑鳩宮で倒れ、妃の膳大郎女が亡くなった翌2月22日に、大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなり、墓所は磯長墓(現在の大阪府太子町叡福寺)とされました。尚、『日本書紀』では、621年(推古天皇29年2月5日)のことと記しています。

〇聖徳太子関係略年表(日付は旧暦です)

・574年(敏達天皇3年1月1日) 飛鳥池辺雙槻宮において、用明天皇の第2皇子(母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女)として生まれる
・585年(用明天皇元年) 敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子(用明天皇)が即位する
・587年(用明天皇2年4月9日) 用明天皇が崩御する
・587年(用明天皇2年8月2日) 皇位を巡って争いになり、戦後に馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)を皇位につける
・592年(崇峻天皇5年11月3日) 馬子は東漢駒に崇峻天皇を暗殺させる
・593年(崇峻天皇5年12月8日) 馬子は豊御食炊屋姫(推古天皇)を擁立して皇位につけ(初の女帝)、
・593年(推古天皇元年4月10日) 厩戸皇子は皇太子となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・605年(推古天皇13年) 斑鳩宮へ移り住む
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月21日) 厩戸皇子妃・膳大郎女が亡くなる
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、数え年49歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1239年(延応元)第82代の天皇後鳥羽天皇の命日(新暦3月28日)詳細
1989年(平成元)佐賀県吉野ヶ里遺跡で弥生時代後期の国内最大規模の環濠集落発見と報道される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1800年(寛政12)に、第120代の天皇とされる仁孝天皇の生まれた日ですが、新暦では3月16日となります。
 仁孝天皇(にんこうてんのう)は、京都において、光格天皇第六皇子(母は権大納言勧修寺経逸の女婧子)として生まれましたが、名は恵仁(あやひと)と言いました。1807年(文化4)に異母兄の温仁親王の死去により、儲君に治定され、1809年(文化6)に父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子されます。
 1817年(文化14)に父・光格天皇の譲位により、受禅し、同年9月21日に第120代とされる天皇として即位しましたが、父が院政を行いました。1840年(天保11)に父・光格天皇が亡くなってからは親政となり、父の意を受けて朝儀復興に尽力、学問を奨励して古典講釈会を催したりします。
 また、皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、1842年(天保13)には、江戸幕府の承認を得て学校の設立が決定しました。しかし、講堂の完成前の1846年(弘化3年1月26日)に京都において、数え年47歳で亡くなり、陵墓は後月輪陵(現在の京都市東山区今熊野)とされます。
 尚、没後に第8皇女として和宮親子内親王(のちの第14代将軍徳川家茂の正室)が誕生しました。翌年には、御所の建春門外に公家講学の所として学習所(学習院の前身)が開設され、主に和漢の学問が講じられ、次第に尊王論者が集まるようになります。

〇仁孝天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1800年(寛政12年2月21日) 京都で光格天皇第六皇子(母は権大納言勧修寺経逸の女婧子)として生まれる
・1807年(文化4年7月18日) 異母兄の温仁親王の死去により、儲君に治定される
・1809年(文化6年3月24日) 父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子される
・1813年(文化10年) 関白鷹司政煕の娘鷹司繋子が入内する
・1817年(文化14年3月22日) 父・光格天皇の譲位により、受禅する
・1817年(文化14年9月21日) 第120代とされる天皇として即位するが、父が院政を行う
・1830年(文政13年7月2日) 京都大地震が発生し、大きな被害が出て、御所では石垣や塀が崩れる
・1831年(天保2年6月14日) 第4皇子として統仁親王(のちの光明天皇)が誕生する
・1840年(天保11年11月18日) 父・光格天皇が亡くなる
・1842年(天保13年) 学校創立を実現させるべくこれに着手、江戸幕府の承認を得て学校の設立が決定する
・1846年(弘化3年1月26日) 京都において、数え年47歳で亡くなる
・1846年(弘化3年閏5月10日) 第8皇女として和宮親子内親王(のちの第14代将軍徳川家茂の正室)が誕生する
・1847年(弘化4年) 天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立される


〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

799年(延暦18)奈良時代から平安時代初期の貴族和気清麻呂の命日(新暦4月4日)詳細
1942年(昭和17)食糧管理法」公布される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、はじめての男子普通選挙制(通称:普通選挙法)に基づく第16回衆議院議員総選挙の投票が行われた日です。
 第16回衆議院議員総選挙(だい16かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1928年(昭和3年)2月20日に投票された帝国議会(衆議院)議員の総選挙で、1925年(大正15年)に全面改正されたされた衆議院議員選挙法(通称:普通選挙法)に基づくものでした。
 1889年(明治22)に「大日本帝国憲法」の発布、「議院法」、「衆議院議員選挙法」が公布され、翌年に第1回衆議院議員総選挙が実施されています。しかし、「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」という制限選挙で、1900年(明治33)に「満25歳以上、直接国税10円以上を納める男子」、1919年(大正8)に「満25歳以上、直接国税3円以上を納める男子」と改正されて、選挙権が拡充されてきました。
 その中で、大正デモクラシーの勃興により、普通選挙実施の世論が高まり、第2次護憲運動によって成立した加藤高明を首相とする護憲三派内閣によって、1925年(大正14)に「衆議院議員選挙法」が改正(男子普通選挙制成立)され、納税額による制限選挙を撤廃、25歳以上の成年男性による普通選挙が実現します。それに基づいて、1928年(昭和3)2月20日投票の第16回衆議院議員総選挙で、はじめての国政選挙による男子普通選挙制が実施され、有権者数は、それまで307万人程度(人口比約5.5%)であったものが、1,240万人(人口比20.1%)と、4倍になりました。
 その結果、与党の立憲政友会は218議席、野党第1党の立憲民政党は216議席といずれも過半数を得られず、残る32議席がキャスティングボートを握る情勢となります。また、労働農民党(労農党)、日本労農党、社会民衆党、日本農民党のいわゆる無産政党、無産諸派が、候補者を擁立し、選挙戦を戦い計8議席を得ました。田中儀一内閣は、普通選挙により無産政党を合法化した一方で、1928年(昭和3)3月15日、「治安維持法」により、取り締まりを強化していくこととなりました。
 尚、婦人参政権については、太平洋戦争後の1945年(昭和20)12月に改正「衆議院議員選挙法」公布により、全ての成人男女による完全普通選挙が行われることによって実現します。

〇第16回衆議院議員総選挙の選挙結果

<投票率> 80.33%(前回比-10.85%)

<党派別獲得議席>

・立憲政友会―218議席
・立憲民政党―216議席
・実業同志会―4議席
・革新党―3議席
・労働農民党―2議席
・社会民衆党―4議席
・日本労農党―1議席
・九州民憲党―1議席
・中立―15議席
・その他―2議席

☆日本の選挙制度の歴史

・1874年(明治7) 板垣退助ら「民選議院設立建白書」を提出する
・1881年(明治14) 「国会を開設する旨の勅諭」が出される
・1889年(明治22) 「大日本帝国憲法」を発布、「議院法」「衆議院議員選挙法」を公布
・1890年(明治23) 第1回衆議院議員総選挙の実施「満25歳以上、直接国税15円以上を納める男子」
・1900年(明治33) 衆議院議員選挙法改正「満25歳以上、直接国税10円以上を納める男子」、「治安警察法」公布
・1919年(大正8) 衆議院議員選挙法改正「満25歳以上、直接国税3円以上を納める男子」
・1925年(大正14) 衆議院議員選挙法改正(男子普通選挙制成立)「満25歳以上のすべての男子」、「治安維持法」公布
・1928年(昭和3) 第16回衆議院議員総選挙(最初の普通選挙)―有権者が人口の20%を超える
・1942年(昭和17) 第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)―軍部支持の翼賛政治体制協議会が推薦する候補者が議席の8割を占める
・1945年(昭和20) 衆議院議員選挙法改正―女性の参政権を認め、満20歳以上のすべての国民が選挙権を有する「完全な普通選挙」が実現
・1946年(昭和21) 「日本国憲法」の公布、貴族院の廃止
・1950年(昭和25) 各選挙法をまとめた「公職選挙法」を公布
・1994年(平成6) 公職選挙法改正―衆議院議員選挙に「小選挙区比例代表並立制」を採用
・1996年(平成8) 公職選挙法改正後初の衆議院議員総選挙―過去最低の投票率(60.3%)
・1997年(平成9) 公職選挙法改正―投票時間の延長等の投票環境向上策
・1998年(平成10) 公職選挙法改正―在外選挙制度の創設(比例代表選挙のみ)
・2000年(平成12) 公職選挙法改正―衆議院・参議院議員の定数削減
・2001年(平成13) 電子投票特例法成立
・2003年(平成15) 公職選挙法改正―期日前投票制度の創設、郵便投票対象者の拡大及び代理記載制度の創設
・2006年(平成18) 公職選挙法改正―在外選挙の対象を選挙区選挙にも拡大。国外での不在者投票制度の創設

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1886年(明治19)歌人石川啄木の誕生日詳細
1949年(昭和24)秋田県で第一次能代大火が起き、2,237棟が焼失する詳細
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