ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2020年02月

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 今日は、江戸時代中期の1772年(明和9)に、江戸で明和の大火(目黒行人坂大火)が起こり、死者1万4千人以上を出した日ですが、新暦では4月1日となります。
 明和の大火(めいわのたいか)は、江戸の目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)の大円寺で、午後1時頃に武州熊谷無宿の僧・真秀が盗みを働くために寺の蔵に火をつけたのが出火原因となりました。折からの強い南西風にあおられて、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して一旦は小塚原の辺りで鎮火したものの、午後6時頃に再び本郷から出火し、駒込、根岸を焼いています。
 その後、翌日の昼頃には再度鎮火したかに見えたのですが、翌々日の午前10時頃に馬喰町付近から再々出火し、今度は東に燃え広がって日本橋の界隈がほぼ壊滅しました。それらによって、934の町を焼き、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災、死者は1万4700人、行方不明者は4千人を超えたと言われています。
 それでも、115年前の1657年(明暦3)に起きた明暦の大火(死者10万人以上)と比べると死者も少なく、明暦の大火の教訓とその後の対策がある程度効果を発揮したとも言われてきました。この大火は、明暦の大火、文化の大火と共に江戸三大大火とされていますが、出火地の名をとって「目黒行人坂大火」とも呼ばれています。
 尚、江戸幕府は火事を起こした犯人である僧・真秀を捕らえて市中引き回しの上、小塚原で火刑に処しています。

 〇江戸時代の大火一覧

・1657年(明暦3年1月18日、19日) 江戸の「明暦の大火」江戸時代最大の火事で、死者は最大で10万7千人と推計、江戸城天守焼失
・1683年(天和2年12月28日) 江戸の「天和の大火」(八百屋お七の火事)死者830–3,500人
・1708年(宝永5年3月8日) 京都の「宝永の大火」 家屋1万軒以上を焼失
・1724年(享保9年3月21日) 大坂の「妙知(智)焼け」11,765軒を焼失、死者293人
・1760年(宝暦10年2月6日) 江戸の「宝暦の大火」460町、寺社80ヶ所焼失
・1772年(明和9年2月29日) 江戸の「明和の大火」死者1万4,700人、行方不明者4,060人
・1788年(天明8年1月30日) 京都の「天明の大火」京都の歴史上最大といわれ、家屋は3万6,797軒焼失、死者150人
・1806年(文化3年3月4日) 江戸の「文化の大火」焼失家屋12万6千戸、死者1,200人超、焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
・1829年(文政12年3月21日) 江戸の「文政の大火」死者2,800、焼失家屋37万戸
・1837年(天保8年2月19日) 大坂の「大塩焼け」大塩平八郎の乱によるもので、死者270人以上
・1863年(文久3年11月21日) 大坂の「新町焼け(新町橋焼け・五幸町の大火)」
・1864年(元治元年7月19日) 京都の「元治の大火」

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 今日は、江戸時代前期の1633年(寛永10)に、江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出された日ですが、新暦では4月6日となります。
 「寛永十年二月令(かんえいじゅうねんにがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の最初のもので、「第一次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止などとなっています。
 その後、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)、1636年(寛永13)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
 以下に、「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十年二月令」(第一次鎖国令) 1633年(寛永10年2月28日)発布

 一 異国江奉書船[1]之外舟遣候儀堅停止之事
 一 奉書船之外ニ日本人異国江遣申間敷候、若忍候而乗まいり候もの於有之ハ其ものハ死罪、其船并船主共ニ留置言上可仕之事
 一 異国江渡り住宅在之日本人来候ハゝ死罪可申付候、但不及是非仕合[2]有之而、異国致逗留、五年より内ニ罷帰候ものハ遂穿鑿[3]、日本ニとまり可申ニつきては御免、併異国江又可立帰ニおゐては死罪可申付候事
 一 伴天連[4]宗旨[5]有之所江ハ従両人可申遣之事
 一 伴天連[4]訴人ほうひの事
 附、上之訴人には銀百枚[6]、それより下ハ其忠にしたかひ可相計之事
 一 異国船申分有之而江戸江言上之間番船之事、如前々大村方[7]江可申越之事
 一 伴天連[4]宗旨[5]弘候南蛮人[8]其外悪名之もの有之時ハ、如前々大村方[7]之籠ニ可入置之事
 一 伴天連[4]之儀船中之改迄入念可申付事
 一 諸品一所江買取申儀停止之事
 一 奉公人於長崎異国船之荷物唐人[9]前より直ニ買取候儀停止之事
 一 異国船荷物之書立江戸江注進候而、返事無之以前にも如前々商売可申付事
 一 異国船ニつみ来り候白糸[10]直段[11]を立候而、不残五ケ所[6]へ割符[7]可仕之事
 一 糸之外諸色之儀糸之直段[11]極候而之上、相対次第商売可仕之事
 附、荷物代銀直段[11]立候而之上可為廿日切之事
 一 異国船もとり候事九月廿日切たるへき事
 但、遅来候船ハ着候而五十日切たる事
 一 異国船売残し之荷物預置候儀も又預り候事も停止之事
 一 五ケ所[12]之商人長崎江来着候儀七月廿日切たるへし、それより遅く参候者ハ割符[13]をはつし可申事
 一 薩摩・平戸其外いつれ之浦に着候船[14]も、長崎之糸之直段[11]之如くたるへし、長崎にて直段[11]立候ハぬ以前商売停止之事
 右条々可被守此旨もの也、仍執達[15]如件

  寛永十年酉二月廿八日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿

                   『徳川禁令考 前集第六』による

【注釈】

[1]奉書船:ほうしょせん=朱印状以外に海外渡航許可の老中奉書(許可状)を所持している船。
[2]不及是非仕合:ぜひにおよばざるしあわせ=やむを得ない理由。
[3]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[4]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[5]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[6]銀百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[7]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[8]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[9]唐人:からびと=外国人。異人。
[10]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[11]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[12]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[13]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[14]いつれ之浦に着候船:いずれのうらにつきそうろうふね=当時の外国船の寄港地となっていた鹿児島、坊津、山川、府内などのこと。
[15]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。

<現代語訳>

一、海外へ奉書船以外の船を派遣することを厳禁すること。
一、奉書船以外の船で日本人を外国へ派遣してはならない。もし、密航する者があれば、そのものは死罪、その船ならびに船主はともに抑留し、報告すること。
一、外国へ渡航し、住宅を持っている日本人が帰国してきたならば死罪を言い渡す。ただし、やむを得ない理由があって外国に滞在し、5年以内に帰国してきた者は、取り調べの上、日本に住む場合は無罪とする。しかし、外国へ帰る場合には死罪に処すること。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
付則、地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を広める南蛮人やその他に不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中も入念に調べるようすること。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、奉公人が長崎において、外国船の荷物を唐人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸商品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。
付則、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。
ただし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の長崎へ来着については7月20日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、薩摩・平戸、その他いずれの港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
 右の条文について守るべきものであること、通達する。

  寛永10年酉2月28日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿


☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1591年(天正19)商人・茶人千利休の命日(新暦4月21日)詳細
1864年(元治元)小説家二葉亭四迷の誕生日(新暦4月4日)詳細
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 今日は、昭和時代前期の1946年(昭和21)に、連合国最高司令官から日本政府へ「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が指令された日です。
 これは、太平洋戦争後の占領下において、1946年(昭和21)2月27日に連合国最高司令官(SCAP)から日本国政府に対して発せられた基本的施策を定める指示・訓令の一つで、指定された条件に従って、提案された計画を承認するものでした。その内容は、①無差別平等の原則、②公私分離の原則、③救済の国家責任、④必要な救済は制限しないという4原則(福祉四原則)となっています。
 この原則に基づいて、同年9月9日に「(旧)生活保護法」が公布(10月1日施行)され、5種類の扶助(生活・医療・助産・正業・葬祭)が制度化されました。しかし、同法は戦前の救貧法的色彩が強く残存しており、1950年(昭和25)5月4日に現行の「生活保護法」となり、その後何度かの改正を経て、現在は8種類の扶助(生活・教育・住宅・医療・出産・正業・葬祭・介護)が実施されるようになります。
 以下に、「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)の英語原文と日本語訳、並びに、日本政府のGHQに対する報告と連合国最高司令官総司令部公衆衛生福祉局の「政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇社会救済に関する覚書 (全文) (SCAPIN-775) 1946年(昭和21)2月27日


   AG 091 (27 Feb. 46) PH/GS/GA/CD          APO 500
   (SCAPIN 775)                    27 February 1946

   MEMORANDUM FOR : IMPERIAL JAPANESE GOVERNMENT
   THROUGH    : Central Liaison Office, Tokyo
   SUBJECT    : Public Assistance

1. With reference to C.L.O. Memorandum 1484 (1.1) dated 31 December 1945, subject "Relief and Welfare Plans, there is no objection to the Imperial Japanese Government proceeding with the proposed plan altered to conferm to the following conditions.

 a. The Imperial Japanese Government to establish a single National Government agency which through prefectural and local governmental channels will provide adequate food, clothing shelter and medical care equally to all indigent persons without discrimination or preferential treatment.

 b. Not labor than 30 April 1946 financial support and operational responsibility for this program to be assumed by the Imperial Japanese Government and thereafter not to be rendered or delegated to any private or quasi-official agency.

 c. Within the amount necessary to Prevent hardship no limitation to be placed on the amount of relief furnished.

2. The Imperial Japanese Government will submit the follow reports to this Headquarters.

 a. Copies of all legislation and instructions issued by the Imperial Japanese Government to accomplish the terms of this directive.

 b. Commencing with the period March 1946, a monthly report delivered by the 25th day of the following month stating the number of families and individuals granted assistance and the amount of funds expended by prefecture.

FOR THE SUPREME COMMANDER:

           「国立国会図書館デジタルコレクション」より
 
<日本語訳>

 AG 091 (27 Feb. 46) PH/GS/GA/CD   APO 500
 (SCAPIN-775)         1946年2月27日

 日本帝国政府への指令
 経由:中央連絡事務所、東京。
 件名:社会救済

1. 「救済福祉計画」ニ関スル件1945年12月31日付C・L・O覚書1484ニ関シテハ提出計画案ヲ次ノ条件ニ合スル様変更ノ処置ヲトラバ日本帝国ニ対シ何等異議アルモノニ非ズ

 a. 日本帝国政府ハ都道府県並ニ地方政府機関ヲ通ジ差別又ハ優先的ニ取扱ヲスルコトナク平等ニ困窮者ニ対シテ適当ナル食糧、衣料、住宅並ニ医療措置ヲ与エルベキ単一ノ全国的政府機関ヲ設立スベキコト

 b. 日本帝国政府ハ1946年4月30日マデニ本計画ニ対スル財政的援助並ニ実施ノ責任態勢ヲ確立スべキコト
   従ッテ私的又ハ準政府機関ニ対シ委譲サレ又ハ委任サルベカラザルコト

 c. 困窮ヲ防止スルニ必要ナル総額ノ範囲内ニオイテ与エラレル救済ノ総額ニ何等ノ制限ヲ設ケザルコト

2. 日本帝国政府ハ本司令部ニ次ノ報告ヲ提出スベシ

 a. 此ノ指令ノ条項ヲ完遂スル為メニ日本帝国政府ニヨッテ発セラレタアラユル法令並ニ通牒ノ写

 b. 1946年3月ノ期間ニ始マリ次ノ月ノ25日マデニ届ケラレタル救助ヲ与エラレタル家族並ニ個人ノ数及ビ都道府県ニヨリ支出サレタル資金ノ額ヲ記載シタル月報

  最高司令官に代り、
 

(参考)〇日本政府のGHQに対する報告
     救済福祉に関する政府決定事項に関する件報告(21.4.30.)

 昭和20年12月8日付及昭和21年2月27日付連合国最高司令部覚書ニ基ク救済福祉事業ニ関シテハ大要左記ニ依リ実務ノ態勢ヲ決定セルニ付此段及報告侯

                        記

1. 全困窮者ニ対スル救済ハ凡テ政府ノ斉任ニ於テ平等ニシテ且差別スルコトナク其ノ徹底ヲ期スル為救済福 祉事業ノ実施主体ハ左ノ系統図ニ示スガ如ク単一ノ政府機関ニ依リ之ヲ行フコトトシ且事業実施ニ伴フ経費トシテ昭和21年国庫予算ニ差当リ4億2994万2340円ヲ計上スルコトトセリ。

2. 救済事業ノ指導監督ニ遺憾ナキヲ期スル為前項実施主体ノ強化ヲ図ルコトトシ新ニ厚生省社会局ニ職員20名(2級事務官2人、3級事務官8人、雇10人)ヲ増員スルト共ニ都道府県ニ対シテハ救済事業ノ専任指導職員トシテ 414人(1地方庁当リ2級事務官3人、3級事務官6人、計9人)ヲ増員配置シ人的機構ヲ整備拡充シ市町村関係職員及方面委員ニ対スル十分ナル指導ヲ為スコトトセリ。

    (内閣総理大臣)    厚 生 大 臣
    ( 戦災復興院 )     社  会  局
       │        (勤労局・衛生局)
       └───────────┤
                地 方 長 官
                 社 会 課
                   │
                地方事務所長
                 社 会 課
                   │
                市 町 村 長
        ┌───────社会課又ハ社会係
     補 助 機 関       │
      方 面 委 員         │
                被 救 済 者

  尚右人的機構ノ整備拡充ニ要スル経費及市町村関係職員、方面委員ノ指導ニ要スル経費トシテ昭和21年度ニ於テ左ノ通り国庫予算ヲ計上スルコトトセリ。

  厚生省ニ於ケル職員増員ニ要スル費用  33,000円
  都道府県ニ於ケル専任指導職員ノ設置
   ニ要スル費用            681,030円
  方面事業ノ指導ニ要スル費用      92,000円
  救済事業ノ指導ニ要スル費用      233,476円
    計               1,039,506円

3. 全困窮者ニ対スル救済給与金ニ付テハ六大都市ニ於ケル標準世帯(1世帯5人家族)ニ在リテハ月額 250円ヲ給与ノ限度額トシ、其ノ他ノ市町村ニ在リテハ一定ノ低減率ニ依リ給与額ハ一応ノ標準限度額ヲ示セルモノニシテ給与ノ実際ニ当リテハ地方長官ヲシテ其ノ世帯ノ実情ニ即シ給与額ノ増額ヲ為シ得ルコトトセリ。

4. 社会救済ニ関スル法律ノ実施ニ至ル迄(4月ヨリ6月末日迄)ノ間不取敢実施スベキ生活困窮者ニ対スル緊急生活援護ニ関シテハ事業ノ性質上政府ノ公基金支出ヲ俟ツコトヲ得ザルヲ以テ既ニ昨年末ヨリ実施中ノ方法ニ做ヒ都道府県庁又ハ同胞援護会ヲシテ借入金等ニ依リ資金ノ調達ヲ為サシメ生活費ノ給与、副食物ノ補給、医療(助産ヲ含ム)、生業扶助、生活必需物資ノ配付、家庭常備薬ノ配付、収容施設ノ買収並ニ借上、授産施設ノ設置、救済用物資ノ入取並ニ配付ヲ実施セシムルコトトセリ。
  更ニ又社会救済ニ関スル法律ノ実施後ニ於テモ救済ヲ要スル者ノ生活状態ニ応ジ各期救済ノ実施等社会救済ニ関スル法律ニ基カザル各種ノ法外援護ヲ実施シ一段ト救済ノ徹底ヲ期スルコトトセリ。
  右ノ緊急生活援護ニ要スル経費並ニ社会救済ニ関スル法律実施後ニ於テモ必要トスル各種法外援護ノ為ニ要スル経費ニ付テハ其ノ金額ヲ国庫ニ於テ負担スルコトトシ昭和21年度ニ於テ左ノ通リ国庫予算ヲ計上スルコトトセリ。

  (1) 緊急生活援護ニ要スル経費
     生活費ノ給与、副食物ノ補給、医療
     (助産)、生業扶助ニ要スル費用  106,725,215円
     埋葬二要スル費用           435,398円
     生活必需物資ノ配付ニ要スル費用   14,623,983円
     家庭常備薬ノ配付ニ要スル費用    3,072,952円
     収容施設ノ買収並ニ借上等ニ要ス
      ル費用              17,195,519円
     投産施設ノ設置ニ要スル費用     2,524,894円
     救済用物資ノ輸送並ニ配付等ニ要
      スル費用             6,531,826円
       計              151,109,787円
  (2) 各種法外援護ニ要スル経費       73,289,235円
  (3) 合計                224,339,022円

5. 単一包括的社会救済法タル「生活保護法」ハ来ルベキ帝国議会ニ提案付議ノ上7月ヨリ実施スル予定ノ下ニ諸般ノ準備ヲ進メツツアルモ本法ニ依ル救済ハ政府ノ責任ニ於テ全困窮者ニ対シ最低生活ノ維持ニ必要ナル最少限度ノ生活費ヲ補給スルコトヲ基本原則トシ救済ノ実施機関ハ市町村長之ニ当リ方面委員ハ補助機関トシテ市町村長ノ救済事務ヲ補助セシムルコトトシ都道府県長官ハ市町村長ノ行フ救済事務ニ関スル第一次的監督ヲ行フコトトセリ。
  而シテ本法ニ依ル救済ノ種類ハ最低生活ヲ維持スルニ必要ナル生活扶助、医療、助産、生業扶助及助葬ノ五種目トシ其ノ程度及方法ハ連合軍司令部ノ覚書ニ適当スルヤウ特ニ留意シ別紙(1)ノ如キ法律案要綱(未確定)ヲ作成セリ。
  尚本法施行ニ要スル経費ニ付テハ国庫及地方費ヲ以テ負担スルコトトシ昭和21年度ニ於テ左ノ通リ国庫予算ヲ計上スルコトトセリ。

     生活扶助ニ要スル費用       171,173,976円
     医療ニ要スル費用          9,120,000円
     助産ニ要スル費用           130,500円
     生業扶助ニ要スル費用        3,626,479円
     助葬ニ要スル費用           895,500円
     施設ノ建設費、事務費等ニ要
      スル費用             15,057,357円
     方面委員ノ費用弁償ニ要スル費用   4,500,000円
       計              204,503,812円

6. 救済事業ノ実効ヲ挙グル為ニハ末端機関タル方面委員ノ活動ニ俟ツ所大ナルモノアルニ鑑ミ前項ノ社会救済ニ関スル法律ノ制定ト併行シテ現行方面委員令ヲ改正シ新事態ニ即応セル方面委員制度ノ強化拡充ヲ図ルコトトセリ。

7. 困窺者ニ対スル住宅ノ斡旋供給ニ関シテハ12月31日付「救済福祉計画」回答ノ際6月迄ノ住宅供給計画トシテハ6万7000戸ノ住宅建設ト16万9000人分ノ現存建物ノ住宅転用ヲ図ルコトトシ之ガ実施ニ努力セル所現在迄住宅建設ニ在リテハ4万3000戸ヲ、現存建物ノ住宅転用ニ在リテハ15万人分ノ実績ヲ収メ得ル見込ニシテ之ニ要スル経費ハ1億1372万7000円ニ上ル見込ナルモ此後ニ於テハ連合軍総司令部ノ要求ニ基ク住宅建設ノ為相当ノ資材ヲ必要トスルニ因リ当初計画通リノ数量ヲ実現スルコトハ甚ダ困難ナル状態ニ在ルモ戦災復興院ト十分ナル連絡ヲ図リ出来得ル限リ既存建物ノ住宅転用ニ努ムル等最善ノ方途ヲ尽シ住宅ノ供給ニ遺憾ナキヲ期スルコトトセリ。

  別紙(略)
 

(参考)〇政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件

                連合国最高司令官総司令部公衆衛生福祉局
                         1946年10月30日

主題:政府の私設社会事業団体に対する補助に関する件

1.上記の主題に関する会合が社会保健福祉部に於て昭和21年10月30日に開催せられて公的扶助と主題する昭和21年2月27日の日本政府に対する進駐軍司令部の覚書の第一項(B)項の条項を確認したのである。次の人々が会談に参加した。
 ・フェルドマン氏 マ司令部社会保健福祉部福祉課
 ・安田社会局庶務課長、養老、松本社会局庶務課事務官
 ・内藤、吉田各社全局保護課事務官
 ・斎田厚生省渉外事務官

2.私設社会事業団体に対する政府の財政的援助に関する昭和21年2月27日の日本政府に対する進駐軍司令部覚書の第一項(B)項は次の如く解釈せられ、明確にされねばならぬ。
 a.政府資金は私設社会事業団体に対し、以下の(C)項に述べる場合を除いて一時多額の補助金として使用されてはならぬ。
 b.私設社会事業団体の創設又は再興に対して政府、府県又は市町村当局は補助金を交付してはならない。
 c.国庫資金は、国、府、県、市町村の何れを問わず、次の場合に於てのみ、生活困窮者に対する保護として現存の私設社会事業団体の再興、修理、拡張を行う事に関して使用してよろしい。即ち或る地方に於ける之等の困窮者に対してそれが最も経済的な且実行し易き方法であると認められたときにのみ国庫資金の使用が可能である。他の公設又は私設社会事業団体で困窮者に対し適用し得るものが存在する場合には政府資金は上述の目的の為に使用してはならない。
 d.上述の(C)項の計画に対する資金の割当は、如何なる場合でも先づ公設社会事業団体に優先的に与えられねばならぬ。
 e.公設社会事業団体が不適当てあったり役に立たぬときは公的扶助で収容を必要とする者を私設社会事業団体に入れてよろしい。かかる場合には政府資金は之等の団体(病院を含む)に対し平均1人当りの保護費を超過しない額に於て補償する為に使用してよろしい。此の額は団体の収入金を控除して現に使用している額に基づいて決定せられるであろう。
 f.国庫からの資金が上述の計画に用いられる時は常に厚生大臣の予めの許可が必要である。
 g.昭和21年4月30日以降の政府の補助金で上述の条項に反するものは、直ちに中止せらるべきである。但し個々の場合に於てマ司令部の特別許可があった時のみ補助を継続してよろしい。

3.厚生大臣は都道府県に対し上述の政策の解釈と鮮明化に関し通牒し、且今回の政策に反するすべての既通牒を廃止すべきである。厚生大臣はこの会議の結果発せられる指令の英訳の写をマ司令部社会救済部へ提出しなければならない。

                                エッチ・ダブリュ・フェルドマン

                「厚生省文書庫保存文書」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園小石川植物園が開園する詳細


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 今日は、平成時代の2003年(平成15)に、編集者・紀行作家宮脇俊三の亡くなった日です。
 宮脇 俊三(みやわき しゅんぞう)は、大正時代の1926年(大正15)12月9日に、埼玉県川越市で、陸軍大佐だった父・宮脇長吉の7人兄弟の末子(三男)として生まれました。父の陸軍予備役編入と共に、東京市渋谷町(現在の東京都渋谷区)に一家で移住します。
 東京府青山師範学校附属小学校を経て、旧制成蹊高等学校卒業後、1945年(昭和20)に東京帝国大学理学部地質学科に入学しました。その後、文学部西洋史学科に移って、1951年(昭和26)に卒業、中央公論社(現在の中央公論新社)に入社します。
 翌年に肺結核のために休職し、熱海の妻の実家で療養しましたが、1954年(昭和29)には休職期限が切れ退社しました。1956年(昭和31)に中央公論社に復帰、以後編集者として活躍し、『中央公論』編集長に就任、以後『婦人公論』編集長、開発室長、編集局長、常務取締役などを歴任します。
 その間に、「世界の歴史」シリーズ、「日本の歴史」シリーズ、「中公新書」などの刊行に関わりました。1978年(昭和53)に中央公論社を退社、同年に国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビューし、第5回日本ノンフィクション賞と第9回新評賞を受賞します。
 その後、1981年(昭和56)に『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞、1985年(昭和60)に短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞、1992年(平成4)に『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞、1999年(平成11)には、作家活動全般に対して第47回菊池寛賞を受賞するなど数々の栄誉に輝きました。鉄道紀行文を文芸ジャンルとして確立し、小説や歴史紀行も手がけましたが、2003年(平成15)2月26日に入院中の東京・虎の門病院で肺炎のため、76歳で亡くなっています。

〇宮脇俊三の主要な著作

・『時刻表2万キロ』(1978年)第5回日本ノンフィクション賞・第9回新評賞受賞
・『最長片道切符の旅』(1979年)
・『汽車旅12カ月』(1979年)
・『時刻表昭和史』(1980年)交通図書賞受賞
・『台湾鉄路千公里』(1980年)
・『終着駅は始発駅』(1982年)
・『シベリア鉄道9400キロ』(1983年)
・『殺意の風景』(1985年)第13回泉鏡花文学賞受賞
・『中国火車旅行』(1988年)
・『古代史紀行』(1990年)
・『韓国・サハリン鉄道紀行』(1992年)第1回JTB紀行文学大賞受賞
・『平安鎌倉史紀行』(1994年)
・『昭和八年澁谷驛』(1995年)
・『室町戦国史紀行』(2000年)

☆宮脇俊三関係略年表

・1926年(大正15)12月9日 埼玉県川越市で7人きょうだいの末子(三男)として生まれる
・1942年(昭和17) 開通した関門トンネルを通ってみたいが故に、戦時下にもかかわらず列車に乗って旅行に行く
・1945年(昭和20) 東京帝国大学理学部地質学科に入学する
・1951年(昭和26) 東京大学文学部西洋史学科卒業、中央公論社(現在の中央公論新社)に入社する
・1951年(昭和26)10月、日本女子大学史学科の学生だった荒木愛子と結婚する
・1952年(昭和27) 肺結核のために休職し、熱海の妻の実家で療養する
・1953年(昭和28) 脳出血で父親が急逝する
・1954年(昭和29)、休職期限が切れ退社する
・1956年(昭和31)9月 中央公論社に復帰する。以後編集者として活躍
・1965年(昭和40) 5年前から別居していた妻・愛子と離婚する
・1977年(昭和52)5月28日 国鉄足尾線を最後に国鉄全線を完乗する
・1978年(昭和53)6月30日 常務取締役編集局長を最後に中央公論社を退社する
・1978年(昭和53)7月10日 国鉄全線完乗の旅をつづった『時刻表2万キロ』で作家デビューする
・1978年(昭和53)12月12日  『時刻表2万キロ』で第5回日本ノンフィクション賞を受賞する
・1981年(昭和56) 『時刻表昭和史』で第6回交通図書賞を受賞する
・1985年(昭和60) 短編小説集『殺意の風景』で第13回泉鏡花文学賞を受賞する
・1992年(平成4) 『韓国・サハリン鉄道紀行』でJTB第1回紀行文学大賞を受賞する
・1999年(平成11) 第47回菊池寛賞を受賞する
・2003年(平成15)2月26日 入院中の東京・虎の門病院で肺炎のため、76歳で亡くなる
・2008年(平成20)7月12日~9月15日 東京都世田谷区の世田谷文学館で「没後5年 宮脇俊三と鉄道紀行展」が開催される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1873年(明治6)俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日詳細
1936年(昭和11)二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる 詳細

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1944年(昭和19年)に、東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定された日です。
 「決戦非常措置要綱(けっせんひじょうそちようこう)」は、東条英機内閣による、国家総動員の実効を上げるための閣議決定です。内容は、①学徒動員体制の徹底、②国民勤労体制の刷新、③防空体制の強化、④簡素生活徹底の覚悟と食糧配給の改善整備、⑤空地利用の徹底、 ⑥製造禁止品目の拡大と規格統一の徹底、⑦高級享楽の停止、⑧重点輸送の強化、⑨海運力の刷新強化、⑩平時的または長期計画的事務及事業の停止、⑪中央監督事務の地方委任、⑫裁判検察の迅速化、⑬保有物資の積極的活用、⑭信賞必罰の徹底と査察の強化、⑮国民運動の展開、⑯国民指導啓発、⑰官庁休日を縮減し常時執務の態勢を確立の17項目からなっていました。これに関連して、さらに以下の閣議決定が行われ、具体化されていきます。
・「決戦非常措置要綱ニ依ル国民学校児童学校給食、空地利用徹底等ニ関スル件」(1944年3月3日)
・「決戦非常措置要綱ニ依ル大都市国民学校児童学校給食ニ関スル件」(3月3日)
・「一般疎開促進要綱」 (3月3日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」(3月7日)
・「決戦非常措置要綱ニ依ル食糧加工貯蔵ノ徹底ニ関スル件」(3月10日)
・「旅客ノ輸送制限ニ関スル件」 (3月14日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク中央行政官庁ノ許認可等ノ事務ノ廃止及地方委譲ニ関スル件」(3月18日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク旅行輸送ノ制限ニ関スル件」(3月27日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク地方鉄道軌道鉄道車輌修理ノ確保ニ関スル件」(3月31日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク電気通信ノ緊急措置ニ関スル件」(4月11日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク電気通信設備ノ動員ニ関スル件」(5月3日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク官公営繕工事ノ措置方針ニ関スル件」(5月5日)
・「決戦非常措置要綱ニ基ク工場防空強化対策実施要領ニ関スル件」(5月17日)
 これらによって、国民生活は多大な影響を受け、国民学校初等科以外の授業の4月から1年停止と全学徒の勤労総動員や女子挺身隊の強化、学童疎開など地方への疎開の推進、旅行の制限、高級享楽の停止(待合、カフェー、遊郭、劇場などの休業)、官庁の休日削減、電力開発などの公共事業停止、設備修繕の最小限化、空地の食糧増産への活用などが実施されました。この措置はいろいろと強化されながら、1945年(昭和20)8月15日の太平洋戦争敗戦まで継続されます。
 尚、以下に「決戦非常措置要綱」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「決戦非常措置要綱」1944年(昭和19)2月25日 閣議決定

決戦ノ現段階ニ即応シ国民即戦士ノ覚悟ニ徹シ国ヲ挙ゲテ精進刻苦其ノ総力ヲ直接戦力増強ノ一点ニ集中シ当面ノ各緊要施策ノ急速徹底ヲ図ルノ外先ツ左ノ非常措置ヲ講ズ

一、学徒動員体制ノ徹底
(1)原則トシテ中等学校程度以上ノ学生生徒ハ総テ今後一年、常時之ヲ勤労其ノ他非常任務ニ出動セシメ得ル組織的態勢ニ置キ必要ニ応ジ随時活発ナル動員ヲ実施ス
(2)理科系ノモノハ其ノ専門ニ応ジ概ネ之ヲ軍関係工場病院等ノ職場ニ配置シテ勤労ニ従事セシム
(3)学校校舎ハ必要アル場合ハ軍需工場化シ又ハ之ヲ軍用、非常倉庫用、非常病院用、避難住宅用其ノ他緊要ノ用途ニ之ヲ転用ス

二、国民勤労体制ノ刷新
職業転換、適正配置並ニ勤労管理特ニ学徒、女子及応徴者等ニ関スル受入体制ノ急速ナル刷新強化ヲ図ルト共ニ家庭ノ根軸タル者ヲ除ク女子ノ女子挺身隊強制加入ノ途ヲ拓キ且之ニ即応シテ官庁側ノ指導、斡旋、保護ノ充実ニ遺憾ナカラシム
右ニ関連シ速ニ動員機構ヲ整備シ特ニ軍動員トノ関係ノ緊密化ヲ図ル

三、防空体制ノ強化
(1)重要工場ニ付キ能フ限リノ防空施設ヲ行フト共ニ工場防空組織ヲ完備スル等工場防空ノ急速ナル強化ヲ図ル
(2)空襲被害極限等ニ付テノ準備訓練ヲ徹底ス
(3)空襲ニ依ル物的被害ノ修理復旧、食糧配給ノ確保、救護、空襲時用簡易住宅ノ建設等空襲時ノ善後措置ニ関スル準備ノ急速完成ヲ図ル
(4)一般疎開ノ実施ヲ強度ニ促進スルト共ニ第二次官庁疎開、脆弱木造官庁建物ノ移転除却、統制会又ハ団体建物及地方会社出張所、社交倶楽部等ノ整理ヲ行フ
(5)養老院、精神病院、刑務所(生産ニ影響ナキモノ)等ハ極力速ニ地方ニ疎開又ハ整理セシム
(6)空襲被害ニ備ヘ近府県農村又ハ小都市所在ノ親戚、知人ノ許ニ最少限必要ノ衣類身廻品ヲ預託スルコトヲ徹底セシム
(7)前各項ノ外防空並ニ疎開ニ付急速徹底セル各般ノ措置ヲ講ズ

四、簡素生活徹底ノ覚悟ト食糧配給ノ改善整備
(1)時局突破ノ為ニハ国民生活ヲ徹底的ニ簡素化シ第一線将兵ノ困苦欠乏ヲ想ヒ如何ナル生活ニモ耐フルノ覚悟ヲ固メシム
(2)大都市ニ於ケル当面食糧ノ配給ノ改善特ニ少年等ニ対スルモノニ付格段ノ措置ヲ講ズ
(3)藷類ノ乾燥、魚類ノ塩漬等食糧ノ加工貯蔵ヲ徹底ス

五、空地利用ノ徹底
 家庭、隣組、学校生徒、青少年団、壮年団、産業報国会其ノ他ヲ動員シ特ニ大都市ニ於ケル公園、庭園、花卉園等ハ勿論、校庭、工場周辺空地其ノ他ノ空閑地ハ徹底的ニ之ヲ食糧作物ニ利用セシム

六、製造禁止品目ノ拡大ト規格統一ノ徹底
 製造禁止品ノ範囲ヲ拡大スルト共ニ規格ノ統一ヲ徹底ス

七、高級享楽ノ停止
 高級料理店待合ハ之ヲ休業セシメ、又高級興行歓楽場等ハ一時之ヲ閉鎖シ其ノ施設ハ必要ニ応ジ之ヲ他ニ利用スルト共ニ其ノ関係者ハ時局ニ即応シテ之ガ活用ヲ図ル

八、重点輸送ノ強化
 旅行ヲ徹底的ニ制限シ、線路ノ転用ヲ強化シ、以テ戦力増強並ニ防空疎開ニ必要ナル輸送ヲ強化ス

九、海運力ノ刷新強化
 海運行政ノ刷新強化ヲ行フト共ニ船舶建造ノ急速増加ト船舶運航効率ノ画期的向上トヲ図リ以テ海運力ノ徹底的増強ヲ図ル

一〇、平時的又ハ長期計画的事務及事業ノ停止
官庁、公共団体其ノ他ノ標記事務及事業ハ差当リ一年間ハ全部之ヲ停止シ又ハ保存ニ必要ナル最少限度ノ範囲ニ縮少シ、其ノ職員ハ他ノ緊要事務ニ之ヲ充当ス
尚右ニ即応シ原則トシテ差当リ一年間官庁新規営繕工事ハ之ヲ休止シ又諮問的委員会ノ停止等ヲ行フモノトス

一一、中央監督事務ノ地方委任
中央各官庁ノ許認可等監督的事務ハ差当リ一年間原則トシテ総テ之ヲ夫々ノ地方官庁又ハ官吏ニ委任シ、要スレバ予メ大綱ヲ準則的ニ指示シ又ハ事後報告ヲ徴スルモノトス

一二、裁判検察ノ迅速化
裁判検察ノ迅速化ヲ徹底シ特ニ時局犯罪ニ対スル迅速処理ノ方途ヲ講ズ

一三、保有物資ノ積極的活用
広ク官公署、会社、家庭等ニ於ケル保有物資ノ積極的ナル活用供出ヲ図ル(之ガ為例ヘバ各官公署、会社等ニ於ケル物資ノ保存年限等ヲ極度ニ短縮ス)

一四、信賞必罰ノ徹底ト査察ノ強化
官吏、公務員其ノ他時局産業関係者等ニ付信賞必罰ヲ敏活徹底的ニ行フト共ニ行政ノ全般ニ亘リ強力ナル査察ヲ実施ス

一五、国民運動ノ展開
皇国隆替ノ岐路ニ際シ挙国必勝ノ信念ニ徹底シ国民総動員体制ヲ強化シ真ニ其ノ総力ヲ竭シテ戦力増強、食糧増産等夫々ノ職域ニ邁進スルト共ニ時局突破ノ為国民生活ヲ徹底的ニ簡素化シ凡ユル忍耐ヲ覚悟スルノ真摯熱烈ナル国民運動ヲ展開ス

一六、国民指導啓発
時局ノ真相ヲ国民特ニ指導階級ニ大胆率直ニ周知セシメ、之ガ奮起ヲ図ルト共ニ徹底セル敵愾心昂揚ノ方途ヲ講ズ

一七、官庁休日ヲ縮減シ常時執務ノ態勢ヲ確立ス

         「国立国会図書館リサーチ・ナビ」より

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