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 今日は、江戸時代前期の1633年(寛永10)に、江戸幕府により「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)が出された日ですが、新暦では4月6日となります。
 「寛永十年二月令(かんえいじゅうねんにがつれい)」は、江戸幕府の鎖国政策の一環をなす法令の最初のもので、「第一次鎖国令」とも呼ばれてきました。内容は、奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止などとなっています。
 その後、1634年(寛永11)に「第二次鎖国令」(第一次鎖国令の再通達、長崎に出島の建設を開始)、1635年(寛永12)に「第三次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)、1636年(寛永13)に「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)、1639年(寛永16)に「第五次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出され、1641年(寛永18年)の平戸オランダ商館の出島移転によって整いました。これにより、キリスト教国(スペインとポルトガル)の人の来航と日本人の東南アジア方面への出入国を禁止し、貿易を管理・統制・制限した対外政策が続けられることとなります。
 この状態は、ペリーの来航による1854年(嘉永7)の「日米和親条約」締結まで続くこととなりました。
 以下に、「寛永十年二月令」(第一次鎖国令)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「寛永十年二月令」(第一次鎖国令) 1633年(寛永10年2月28日)発布

 一 異国江奉書船[1]之外舟遣候儀堅停止之事
 一 奉書船之外ニ日本人異国江遣申間敷候、若忍候而乗まいり候もの於有之ハ其ものハ死罪、其船并船主共ニ留置言上可仕之事
 一 異国江渡り住宅在之日本人来候ハゝ死罪可申付候、但不及是非仕合[2]有之而、異国致逗留、五年より内ニ罷帰候ものハ遂穿鑿[3]、日本ニとまり可申ニつきては御免、併異国江又可立帰ニおゐては死罪可申付候事
 一 伴天連[4]宗旨[5]有之所江ハ従両人可申遣之事
 一 伴天連[4]訴人ほうひの事
 附、上之訴人には銀百枚[6]、それより下ハ其忠にしたかひ可相計之事
 一 異国船申分有之而江戸江言上之間番船之事、如前々大村方[7]江可申越之事
 一 伴天連[4]宗旨[5]弘候南蛮人[8]其外悪名之もの有之時ハ、如前々大村方[7]之籠ニ可入置之事
 一 伴天連[4]之儀船中之改迄入念可申付事
 一 諸品一所江買取申儀停止之事
 一 奉公人於長崎異国船之荷物唐人[9]前より直ニ買取候儀停止之事
 一 異国船荷物之書立江戸江注進候而、返事無之以前にも如前々商売可申付事
 一 異国船ニつみ来り候白糸[10]直段[11]を立候而、不残五ケ所[6]へ割符[7]可仕之事
 一 糸之外諸色之儀糸之直段[11]極候而之上、相対次第商売可仕之事
 附、荷物代銀直段[11]立候而之上可為廿日切之事
 一 異国船もとり候事九月廿日切たるへき事
 但、遅来候船ハ着候而五十日切たる事
 一 異国船売残し之荷物預置候儀も又預り候事も停止之事
 一 五ケ所[12]之商人長崎江来着候儀七月廿日切たるへし、それより遅く参候者ハ割符[13]をはつし可申事
 一 薩摩・平戸其外いつれ之浦に着候船[14]も、長崎之糸之直段[11]之如くたるへし、長崎にて直段[11]立候ハぬ以前商売停止之事
 右条々可被守此旨もの也、仍執達[15]如件

  寛永十年酉二月廿八日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿

                   『徳川禁令考 前集第六』による

【注釈】

[1]奉書船:ほうしょせん=朱印状以外に海外渡航許可の老中奉書(許可状)を所持している船。
[2]不及是非仕合:ぜひにおよばざるしあわせ=やむを得ない理由。
[3]穿鑿:せんさく=吟味。取り調べ。
[4]伴天連:ばてれん=キリスト教が日本に伝来した当時のカトリックの宣教師。
[5]宗旨:しゅうし=ある宗教・宗派の教義の中心となる趣旨。
[6]銀百枚:ぎんひゃくまい=一枚は銀43匁で、百枚は金83両となる。
[7]大村方:おおむらかた=大村藩のこと。
[8]南蛮人:なんばんじん=日本に渡来したポルトガル人・スペイン人などの称。
[9]唐人:からびと=外国人。異人。
[10]白糸:しろいと=中国産の上質な生糸のこと。
[11]直段:ねだん=売買の相場。あたい。代価。価格。
[12]五ケ所:ごかしょ=江戸、京都、大坂。堺、長崎の五ヶ所の特権商人のこと。
[13]割符:わっぷ=輸入生糸配分について五ヶ所の商人の糸割符仲間に与えた証明目録。
[14]いつれ之浦に着候船:いずれのうらにつきそうろうふね=当時の外国船の寄港地となっていた鹿児島、坊津、山川、府内などのこと。
[15]執達:しったつ=上位の者の意向・命令などを下位の者に伝えること。通達。

<現代語訳>

一、海外へ奉書船以外の船を派遣することを厳禁すること。
一、奉書船以外の船で日本人を外国へ派遣してはならない。もし、密航する者があれば、そのものは死罪、その船ならびに船主はともに抑留し、報告すること。
一、外国へ渡航し、住宅を持っている日本人が帰国してきたならば死罪を言い渡す。ただし、やむを得ない理由があって外国に滞在し、5年以内に帰国してきた者は、取り調べの上、日本に住む場合は無罪とする。しかし、外国へ帰る場合には死罪に処すること。
一、バテレンの宗旨がある所へは両奉行を派遣して調べること。
一、バテレンを密告した者には褒美を与えること。
付則、地位の高いバテレンを密告した者には銀百枚、それより地位が下の者の場合にはその忠義心によって褒美の額を考慮すること。
一、外国船について言い分があって、江戸へ言上する場合は、番船の事については、以前のように大村藩へ申し入れること。
一、バテレンの宗旨を広める南蛮人やその他に不届きな者がある時は、以前のように大村藩の牢へ入れ置くこと。
一、バテレンについては船の中も入念に調べるようすること。
一、諸品を一ヶ所で買い取ることは停止すること。
一、奉公人が長崎において、外国船の荷物を唐人より直接に買い取ることは停止すること。
一、外国船の荷物の目録を江戸へ注進し、返事が来る前でも、以前のように商売が出来るべきこと。
一、外国船で輸入した生糸は価格を決定して、残らず五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)商人へ分配すること。
一、生糸の他の諸商品について、生糸の直段を決めた上、当事者同士の成り行きで商売してもよいこと。
付則、商品代金については、銀の相場が立ったならば、20日を限度として取り引きすること。
一、外国船が帰国できるのは9月20日を期限とすること。
ただし、遅く到着した船は着いてから50日を期限とすること。
一、外国船が売残した荷物を預り置くことも、また預ることも停止すること。
一、五ヶ所(江戸・京都・大坂・堺・長崎)の商人の長崎へ来着については7月20日を限度とし、それより遅く到着した者は分配対象から外すべきこと。
一、薩摩・平戸、その他いずれの港に入港した船も、長崎の生糸の直段に従うようにせよ。長崎において直段を決定しない以前の取引は停止すること。
 右の条文について守るべきものであること、通達する。

  寛永10年酉2月28日
      伊賀(内藤忠重)  信濃(永井尚政)
      讃岐(酒井忠勝)  大炊(土井利勝)
   曽我又左衛門(古祐)殿
   今村伝四郎(正長)殿


☆「鎖国」完成までの略年表(日付は旧暦です)

・1612年(慶長17年3月) 幕領に禁教令を出す
・1616年(元和2年8月) 明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定する
・1620年(元和6年) 平山常陳事件で英蘭が協力してポルトガルの交易を妨害し、元和の大殉教に繋がる
・1623年(元和9年11月) イギリスが業績不振のため平戸商館を閉鎖する
・1624年(寛永元年3月) スペインとの国交を断絶、来航を禁止する
・1628年(寛永5年) タイオワン事件の影響で、オランダとの交易が4年間途絶える
・1631年(寛永8年6月) 奉書船制度の開始で朱印船に朱印状以外に老中の奉書が必要となる
・1633年(寛永10年2月28日) 「第1次鎖国令」(奉書船以外の渡航禁止、海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁止)が出される
・1634年(寛永11年) 「第2次鎖国令」(第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始)が出される
・1635年(寛永12年5月) 「第3次鎖国令」(中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定、東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁止)が出される
・1636年(寛永13年5月19日) 「第4次鎖国令」(貿易に関係のないポルトガル人とその妻子287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す)が出される
・1637年(寛永14年) 島原の乱が始まり、幕府に武器弾薬をオランダが援助する
・1639年(寛永16年7月5日) 「第5次鎖国令」(ポルトガル船の入港禁止)が出される
・1640年(寛永17年) マカオから通商再開依頼のためポルトガル船来航、徳川幕府が使者61名を処刑する
・1641年(寛永18年4月) オランダ商館を平戸から出島に移す
・1643年(寛永20年) ブレスケンス号事件でオランダ船は日本中どこに入港しても良いとの徳川家康の朱印状が否定される
・1644年(正保元年) 中国にて明が滅亡し、満州の清が李自成の順を撃破して中国本土に進出。明再興を目指す勢力が日本に支援を求める(日本乞師)が、徳川幕府は拒絶を続ける
・1647年(正保4年) ポルトガル船2隻、国交回復依頼に来航、徳川幕府は再びこれを拒否、以後、ポルトガル船の来航が絶える
・1673年(延宝元年1月) リターン号事件でイギリスとの交易の再開を拒否、以降100年以上、オランダ以外のヨーロッパ船の来航が途絶える

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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