今日は、明治時代後期の日露戦争下の1904年(明治37)に、「日韓議定書」が調印された日です。
日韓議定書(にっかんぎていしょ)は、日本と大韓帝国(韓国)との間で締結された協約で、漢城(現在のソウル)において、日本の特命全権公使林権助と韓国の外部大臣臨時署理李址鎔によって調印されました。1904年(明治37)1月21日、大韓帝国は日露開戦に備えて局外中立を宣言しましたが、日本はこれを無視し、同年2月9日に仁川に日本軍を上陸させ、さらに漢城(ソウル)に進駐、同月23日には公使林権助が外相李址鎔を買収し、他の閣僚を強迫して締結に及んだとされています。
その内容は、大韓帝国の領土と王室の保全をうたいつつ、日本のの忠告を入れた施政改善、内乱や第三国の朝鮮侵害には日本が介入、日露戦争遂行上必要な日本軍の行動の自由と軍略上必要な土地の収用の承認、この協定の違反になるような協約を第三国と結ばないなどで、日本の韓国植民地化の第一歩となりました。これに対し朝鮮民衆は反対運動に立ち上がり、大韓帝国の中枢院も動揺、李址鎔邸などへの投爆などが起こります。
この間、同年8月22日の「第一次日韓協約」、翌年11月17日の「第二次日韓協約」、1907年(明治40)7月24日の「第三次日韓協約」の調印を経て、1910年(明治43)の「韓国併合に関する条約」へと至りました。
以下に、「日韓議定書」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「日韓議定書」 1904年(明治37年)2月23日調印
大日本帝國皇帝陛下ノ特命全權公使林權助及大韓帝國皇帝陛下ノ外部大臣臨時署理陸軍參將李址鎔ハ各相當ノ委任ヲ受ケ左ノ條款ヲ協定ス
第一條 日韓兩帝國間ニ恒久不易ノ親交ヲ保持シ東洋ノ平和ヲ確立スル爲メ大韓帝國政府ハ大日本帝國政府ヲ確信シ施設ノ改善ニ關シ其忠告ヲ容ルゝ事
第二條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ皇室ヲ確實ナル親誼ヲ以テ安全康寧ナラシムル事
第三條 大日本帝國政府ハ大韓帝國ノ獨立及領土保全ヲ確實ニ保證スル事
第四條 第三國ノ侵害ニ依リ若クハ内亂ノ爲メ大韓帝國ノ皇室ノ安寧或ハ領土ノ保全ニ危險アル場合ハ大日本帝國政府ハ速ニ臨機必要ノ措置ヲ取ルヘシ而シテ大韓帝國政府ハ右大日本帝國政府ノ行動ヲ容易ナラシムル爲メ十分便宜ヲ與フル事
大日本帝國政府ハ前項ノ目的ヲ達スル爲メ軍略上必要ノ地點ヲ臨機收用スルコトヲ得ル事
第五條 兩國政府ハ相互ノ承認ヲ經スシテ後來本協約ノ趣意ニ違反スヘキ協約ヲ第三國トノ間ニ訂立スル事ヲ得サル事
第六條 本協約ニ關聯スル未悉ノ細條ハ大日本帝國代表者ト大韓帝國外部大臣トノ間ニ臨機協定スル事
明治三十七年二月二十三日
特命全權公使 林權助(印)
光武八年二月二十三日
外部大臣臨時署理
陸軍參將 李址鎔(印)
『日本外交文書』第37巻より