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 今日は、江戸時代後期の1800年(寛政12)に、第120代の天皇とされる仁孝天皇の生まれた日ですが、新暦では3月16日となります。
 仁孝天皇(にんこうてんのう)は、京都において、光格天皇第六皇子(母は権大納言勧修寺経逸の女婧子)として生まれましたが、名は恵仁(あやひと)と言いました。1807年(文化4)に異母兄の温仁親王の死去により、儲君に治定され、1809年(文化6)に父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子されます。
 1817年(文化14)に父・光格天皇の譲位により、受禅し、同年9月21日に第120代とされる天皇として即位しましたが、父が院政を行いました。1840年(天保11)に父・光格天皇が亡くなってからは親政となり、父の意を受けて朝儀復興に尽力、学問を奨励して古典講釈会を催したりします。
 また、皇族や公家の子弟のための教育機関の設置を志し、1842年(天保13)には、江戸幕府の承認を得て学校の設立が決定しました。しかし、講堂の完成前の1846年(弘化3年1月26日)に京都において、数え年47歳で亡くなり、陵墓は後月輪陵(現在の京都市東山区今熊野)とされます。
 尚、没後に第8皇女として和宮親子内親王(のちの第14代将軍徳川家茂の正室)が誕生しました。翌年には、御所の建春門外に公家講学の所として学習所(学習院の前身)が開設され、主に和漢の学問が講じられ、次第に尊王論者が集まるようになります。

〇仁孝天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1800年(寛政12年2月21日) 京都で光格天皇第六皇子(母は権大納言勧修寺経逸の女婧子)として生まれる
・1807年(文化4年7月18日) 異母兄の温仁親王の死去により、儲君に治定される
・1809年(文化6年3月24日) 父帝の中宮欣子内親王(新清和院)の養子として立太子される
・1813年(文化10年) 関白鷹司政煕の娘鷹司繋子が入内する
・1817年(文化14年3月22日) 父・光格天皇の譲位により、受禅する
・1817年(文化14年9月21日) 第120代とされる天皇として即位するが、父が院政を行う
・1830年(文政13年7月2日) 京都大地震が発生し、大きな被害が出て、御所では石垣や塀が崩れる
・1831年(天保2年6月14日) 第4皇子として統仁親王(のちの光明天皇)が誕生する
・1840年(天保11年11月18日) 父・光格天皇が亡くなる
・1842年(天保13年) 学校創立を実現させるべくこれに着手、江戸幕府の承認を得て学校の設立が決定する
・1846年(弘化3年1月26日) 京都において、数え年47歳で亡くなる
・1846年(弘化3年閏5月10日) 第8皇女として和宮親子内親王(のちの第14代将軍徳川家茂の正室)が誕生する
・1847年(弘化4年) 天皇の遺志によって御所の建春門外に公家講学の所として学習所が設立される


〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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