今日は、鎌倉時代の1212年(建暦2)に、第86代の天皇とされる後堀河天皇が生まれた日ですが、新暦では3月22日となります。
後堀河天皇(ごほりかわてんのう)は、京都において、高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子(母は持明院基家の娘)として生まれましたが、名は茂仁(ゆたひと)と言いました。幼くして、贈大僧正仁慶の弟子として十楽院に入室していたものの、1221年(承久3年)に承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流、仲恭天皇が退位させられ、西園寺公経の推挙により践祚します。
第86代とされる天皇として即位したのですが、まだ10歳だったので、出家していた父が還俗し、太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行いました。承久の乱の後処理が行われていましたが、1223年(貞応2)に父の守貞親王が亡くなると親政となります。
1229年(寛喜元年)に、摂政関白左大臣九条道家の娘である竴子が入内して翌年中宮となり、1231年(寛喜3)には第一皇子の秀仁親王(のちの四条天皇)が生まれました。1232年(貞永元)に藤原定家に「新勅撰和歌集」の撰進を命じたものの、同年10月4日には院政を行うべく、まだ2歳の秀仁親王(四条天皇)に譲位し、太上天皇となります。
1234年(文暦元)に藤原定家より「新勅撰和歌集」の未定稿本を奏覧されましたが、同年8月6日に京都において、数え年23歳で亡くなり、陵墓は観音寺陵(現在の京都市東山区今熊野泉山町)とされました。歌も良くし、「新勅撰和歌集」に五首入集、御集もあったとされますが、伝わっていません。
<代表的な歌>
・「あらたまの 年も変はらで 立つ春は 霞ばかりぞ 空に知りける」(新勅撰和歌集)
・「和歌の浦 あし辺のたづの 鳴く声に 夜わたる月の かげぞ久しき」(新勅撰和歌集)
〇後堀河天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1212年(建暦2年2月18日) 京都において、高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子(母は持明院基家の娘)として生まれる
・1221年(承久3年) 承久の乱により、鎌倉幕府は後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇の三上皇を配流する
・1221年(承久3年7月9日) 仲恭天皇の退位により践祚する
・1221年(承久3年12月1日) 10歳で第86代とされる天皇として即位し、父の守貞親王が太上天皇の尊号を奉り上皇(後高倉院)として、院政を行う
・1223年(貞応2年5月) 父の後高倉院が亡くなる
・1229年(寛喜元年) 九条竴子が入内し、女御となる
・1230年(寛喜2年) 九条竴子が中宮となる
・1231年(寛喜3年2月12日) 第一皇子の秀仁親王(のちの四条天皇)が生まれる
・1232年(貞永元年6月) 藤原定家に「新勅撰和歌集」の撰進を命ずる
・1232年(貞永元年10月4日) 院政を行うべく、まだ2歳の秀仁親王(四条天皇)に譲位する
・1232年(貞永元年10月7日) 太上天皇となる
・1234年(文暦元年6月) 藤原定家より「新勅撰和歌集」の未定稿本を奏覧される
・1234年(天福2年8月6日) 京都において、数え年23歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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