今日は、平安時代中期の940年(天慶3年)に、武将平将門が下野の豪族藤原秀郷と国香の子貞盛らの軍勢により、猿島の北山(現在の茨城県坂東市)で討たれた日ですが、新暦では3月25日となります。
平将門(たいら の まさかど)は、生年不詳ですが、桓武平氏高望の孫(父は鎮守府将軍良持または良将)として生まれたとされてきました。若い頃に上京して一時期摂関藤原忠平に仕えたこともあったとされますが志を得ず、本拠地の下総国に戻って勢力を養ったと伝えられています。
931年(承平元)に「女論」によって伯父の下総介平良兼と争い、935年(承平5)には、常陸国西部の豪族常陸大掾源護と平直樹との争いに巻き込まれ、護の女婿であった国香、良正、良兼らのおじと争いました。翌年に平良兼が攻めてきましたが、奇襲をかけて敗走させ、下野国(栃木県)の国衙に保護を求め、源護の訴訟により京都に召喚されて、検非違使庁で訊問を受けることとなります。
しかし、同年の朱雀天皇元服の大赦によって帰郷したものの、良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻め、将門は敗走しました。939年(天慶2)に武蔵国において権守の興世王、介の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たりましたが、失敗して経基によって朝廷に訴えられ、将門は上書を認め、常陸・下総・下野・武蔵・上野5ヶ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送ります。
この問題が未解決の内、同年11月に常陸国府(茨城県石岡市)に出兵してこれを焼き払い、将門の行動は国家に対する反乱(平将門の乱)となりました。続いて下野国に出兵、守藤原弘雅・大中臣完行らを国外に放逐、さらに上野国に出兵、藤原尚範らを国外に放逐、上野の国庁に入り、弟や従者を伊豆と関東諸国の受領に任じ、「新皇」と称するようになります。
翌940年(天慶3)に参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、討伐軍長官として出立、関東では、将門も手勢を率いて出陣し、下総国川口で戦となりますが、退却を余儀なくされました。下野の豪族藤原秀郷と国香の子貞盛らの軍勢が将門の本拠石井にも攻め寄せてきて焼き払らわれ、同年2月14日には、猿島の北山(現在の茨城県坂東市)で討たれ、非業の死を遂げます。
その後、その霊は東京の神田神社、坂東市岩井の国王神社などに祀られました。
〇平将門関係略年表(日付は旧暦です)
・生年不詳? 桓武平氏高望の孫(父は鎮守府将軍良持または良将とも伝え、母は犬養春枝の娘とする説あり)として生まれる
・931年(承平元年) 「女論」によって伯父の下総介良兼と争う
・935年(承平5年) 常陸国西部の豪族常陸大掾源護と平直樹との争いに巻き込まれ、護の女婿であった国香、良正、良兼らのおじと争う
・935年(承平5年2月) 源護の子・扶らに常陸国真壁郡野本(筑西市)にて襲撃されるが、これらを撃退し扶らは討ち死にする
・935年(承平5年10月) 源護と姻戚関係にある一族の平良正は軍勢を集め鬼怒川沿いの新治郷川曲(現在の八千代町)に陣を構えて将門と対峙する
・936年(承平6年6月26日) 平良兼が上総国を発ち攻めて来るが、奇襲を受かけて敗走させ、良兼は下野国(栃木県)の国衙に保護を求める
・936年(承平6年10月) 源護の訴訟により京都に召喚されて、検非違使庁で訊問を受ける
・937年(承平7年4月7日) 朱雀天皇元服の大赦によって帰郷する
・937年(承平7年8月6日) 良兼は将門の父良将や高望王など父祖の肖像を掲げて将門の常羽御厩を攻められ、将門は敗走する
・937年(承平7年9月10日) 将門の妻子が出奔し将門の元に戻る
・937年(承平7年11月5日) 朝廷は1つの太政官符を出す
・939年(天慶2年2月) 武蔵国において権守の興世王、介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たるったが、経基によって朝廷に訴えられる
・939年(天慶2年5月2日) 将門は上書を認め、常陸・下総・下野・武蔵・上野5ヶ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書をそえて送る
・939年(天慶2年11月21日) 常陸国府(現在の茨城県石岡市)に出兵してこれを焼き払い、将門の行動は国家に対する反乱となる
・939年(天慶2年12月11日) 下野に出兵、事前にこれを察知した守藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐する
・939年(天慶2年12月15日) 上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範を捕らえて助命する代わりに印綬を接収して国外に放逐する
・939年(天慶2年12月19日) 上野の国庁に入り、弟や従者を伊豆と関東諸国の受領に任じ、「新皇」と称するようになる
・940年(天慶3年1月9日) 源経基が以前の密告が現実になったことが賞されて従五位下に叙される
・940年(天慶3年1月19日) 参議藤原忠文が征東大将軍に任じられ、討伐軍長官として出立する
・940年(天慶3年1月中旬) 関東では、将門が兵5000を率いて常陸国へ出陣して、平貞盛と維幾の子為憲の行方を捜索する
・940年(天慶3年2月13日) 将門の本拠石井に攻め寄せてきて、焼き払らわれる
・940年(天慶3年2月14日) 下野の豪族藤原秀郷と国香の子貞盛らの軍勢により、猿島の北山(現在の茨城県坂東市)で討たれる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
741年(天平13) | 聖武天皇が「国分寺建立の詔」を出す(新暦3月5日) | 詳細 |
1967年(昭和42) | 小説家山本周五郎の命日 | 詳細 |