今日は、明治時代前期の1889年(明治22)に、黒田清隆内閣総理大臣が地方長官らに対し超然主義演説をした日です。これは、「大日本帝国憲法」公布の翌日に、東京の鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上で行われたものでした。
超然主義(ちょうぜんしゅぎ)は、他の物事に関係せず、自分の考えで独自に事を行う主義のことです。しかし、「大日本帝国憲法」発布直後の黒田清隆首相および伊藤博文枢密院議長の超然主義演説にみられる、憲法運用上内閣は政党に左右されず、不偏不党を堅持すると主張し政党内閣を否認したものとされてきました。
藩閥官僚政府が、政党の影響をうけずに政治を運用しようとした政治姿勢とされています。その後、政党勢力が増大すると議会運営の立場から政党と提携せざるを得なくなり、1900年(明治33)に伊藤博文はみずから立憲政友会を組織することになりました。
以下に、黒田清隆内閣総理大臣が地方長官らに対して行った超然主義演説を全文掲載(現代語訳・注釈付き)しておきますので、ご参照下さい。
〇黒田清隆首相の超然主義演説
黒田清隆内閣總理大臣の地方長官に対する訓示[於:鹿鳴館]1889年(明治22)2月12日
今般憲法発布式を挙行ありて、大日本帝国憲法及之に付随する諸法令[1]を公布せられたり。謹て惟ふに、明治十四年十月詔を下して二十三年を期し国会を開く旨を宣言[2]せられ、爾來政府は孜々として立憲設備の事を務め、昨年四月枢密院[3]設立の後は直に憲法及諸法令の草案を同院に下され、会議毎に聖上臨御[4]ましまし、深く宸慮[5]を尽し親しく裁定[6]あらせられたり、叡旨[7]の帰する所を要するに、益々国体[8]の本源に基き、祖宗の遺訓[9]に遵ひ、永遠の基業を定めて則を後昆[10]に垂れ、国本を鞏固[11]にして衆庶と福祉を共にするに在り、仍て将来百般[12]の行政は此科條に準拠して進路を取り、以て聖上惓々図治の盛意[13]に副はんことを務むるは、行政の責に当る者の職任にして、宜く日夜黽勉[14]し以て従事すへきなり。帝国議会[15]は明年を以て開設せらるべし。凡そ我臣民たる者誰か公権を優重せられ公議を伸張[16]せらるる聖上無彊[17]の恩徳を欽仰[18]せさらんや。議会開設の時に至り議員の選に当たる者は、各忠実の誠を尽して国事に参預し、上下和融[19]の美を成し、以て慈仁[20]の旨に奉答せんこと今より切に望む所なり。若し奔競[21]浮躁[22]徒に紛擾[23]を事とし、議会の対面を損し、自ら其信用を公衆に失ふか如きことあらは、遂に立憲の盛意[13]を昿くする[24]に至らん。地方牧民[25]の責に当たる各員[26]意を加へて誘導啓発あらんことを欲するなり。憲法は敢えて臣民の一辞を容るゝ[27]所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相殺して団結をなし、所謂政党[28]なる者の社会に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然[29]として政党[28]の外に立ち、至公至正[30]の道に居らさる可らす、各員[26]宜く意を此に留め、不偏不党[31]の心を以て人民に臨み、撫馭[32]宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。政府は従来経費の節減を謀り民力の休養[33]を勉むと雖も、外來の事変常に予期の外に出て其必需の用に供せさるを得す。去る十八年官制改革[34]以来鋭意に冗員[35]を汰し、繁文[36]を省き浮費を減することに従事するも、更に将来に向て不急の用を節して国力を充実することを務めんとす。抑凡百[37]の事業は進歩と整理と併行して始て結果を收むるは普遍[38]の道理なり。故に進歩の中に整理を顧み順序を逐て運動し、堅忍不拔[39]一意貫徹[40]、功を浅近に求めすして事を永遠に慮り、浮華[41]虚飾の弊を矯め勤倹の風を養成し、且つ民治上務て煩苛[42]の失を除き、政務の機関をして活動せしめんことを期待するなり。以上陳述する所は、今回国家大典[43]の発布を祝すると共に、将来聖意旨を遵行して国家に尽す所の趣旨を伸明[44]するに外ならす、各員[26]の能く体諒[45]せられんことを冀望[46]す。
『明治政史』より
【注釈】
[1]附隨する諸法令:ふずいするしょほうれい=「議員法」「貴族院令」「衆議院議員選挙法」などのこと。
[2]国会を開く旨を宣言:こっかいをひらくむねをせんげん=1881年(明治14)10月12日発布の「国会開設の勅諭」のこと。
[3]枢密院:すうみついん=1888年(明治21)4月に「大日本帝国憲法」草案審議のため設置された天皇の諮問機関のこと。
[4]聖上臨御:せいじょうりんぎょ=天皇が自ら出向いてその場にのぞむこと。
[5]宸慮:しんりょ=天子の考え。叡慮 (えいりょ) 。
[6]裁定:さいてい=物事の是非などを考えて決定すること。
[7]叡旨:えいし=天子の意向。天子の考え。
[8]国体:こくたい=天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方。
[9]祖宗の遺訓:そそうのいくん=歴代の天皇の残した教え、子孫への教訓。
[10]後昆:こうこん=後人。 また、子孫。後裔(こうえい)。「―
[11]鞏固:きょうこ=強く固いさま。強堅。主に 精神的なものについていう。
[12]百般:ひゃっぱん=いろいろな方面。さまざまな事柄。「
[13]盛意:せいい=厚い気持。親切の心。厚意。
[14]黽勉:びんべん=つとめはげむこと。精を出すこと。
[15]帝国議会:ていこくぎかい=「大日本帝国憲法」下における立法機関。貴族院と衆議院の二院から成る。
[16]伸張:しんちょう=長さや力などが伸びること。また、伸ばすこと。
[17]無疆:むきょう=きわまりがないこと。はてしないこと。また、そのさま。
[18]欽仰:きんぎょう=尊敬し慕うこと。きんこう。きんごう。
[19]和融:わゆう=間柄がやわらぐこと。仲直りすること。
[20]慈仁:じじん=なさけ深いこと。仁慈(じんじ)。
[21]奔競:ほんきょう=われがちに争うこと。利益や官職 を争って求めること。
[22]浮躁:ふそう=落ち着きのないこと。軽率。うわっ調子。
[23]紛擾:ふんじょう=もめること。ごたごた。紛争。紛糾。
[24]昿くする:むなしくする=こわしてしまう。むだにする。
[25]牧民:ぼくみん=人民を治めること。
[26]各員:かくいん=各地方長官。
[27]一辞を容るゝ:いちじをいるる=口をさしはさむ。
[28]政党:せいとう=「Political Party」の訳語。正論党派。
[29]超然:ちょうぜん=俗世間から離れていること。ある物事に関係せず、その外にいて行う主義。
[30]至公至正:しこうしせい=この上なく公平で正しいこと。
[31]不偏不党:ふへんふとう=いずれの主義や党派にも加わらないこと。偏ることなく、公正・中立な立場をとること。
[32]撫馭:ぶぎょ=なだめるおさめる。
[33]民力の休養:みんりょくのきゅうよう=租税や課役を軽くして、人民の財力や労力を保持強化すること。
[34]十八年官制改革:じゅうはちねんかんせいかいかく=1885年(明治18)に内閣制度が発足したこと。
[35]冗員:じょういん=むだな人員。過剰の人員。
[36]繁文:はんぶん=規則などが多くてわずらわしいこと。
[37]凡百:ぼんびゃく=いろいろのもの。かずかず。もろもろ。
[38]普遍:ふへん=全体に広く行き渡ること。例外なくすべてのものにあてはまること。
[39]堅忍不拔:けんにんふばつ=意志が堅くどんなことにも耐え忍んで心を動かさないこと。
[40]一意貫徹:いちいかんてつ=ひたすらに考え方などを貫き通すこと。
[41]浮華:ふか=うわべは華やかで、実質の乏しいこと。また、そのさま。
[42]煩苛:はんか=煩雑で苛酷なこと。また、そのさま。
[43]国家大典:こっかたいてん=国の重要な法典。ここでは、「大日本帝国憲法」のこと。
[44]伸明:しんめい=明らかに申し述べる。
[45]体諒:たいりょう=心を汲む、他人の気持ちを察する。
[46]冀望:きぼう=希望。ある事の実現を願いのぞむこと。また、その願い。のぞみ。
<現代語訳>
今回憲法発布式が挙行されて、「大日本帝国憲法」およびこれに附隨する諸法令(「議員法」、「貴族院令」、「衆議院議員選挙法」など)が公布された。つつしみて思うことは、1881年(明治14)10月に「国会開設の勅諭」を下されて、1890年(明治23)を期して国会を開設する旨を宣言せられ、以来政府は一生懸命に励み努力して憲法制定の準備に務め、昨年4月の枢密院設立後は、ただちに憲法および諸法令の草案を同院に下付し、会議毎に明治天皇が御自ら出向いてその場に臨まれ、深くお考えを尽くし、御自ら裁定せられた。天皇のご意向の存する所を要約すると、ますます天皇中心とする国の在り方の本源に基づいて、歴代の天皇の残した教えに従い、永遠の基礎となる事業を定めて規範を子孫に教訓として示し、国の根本を強固にして人々と福祉を共にすることに在る。よって将来の様々な行政は、この箇条に準拠して進路を取り、もって天皇のまごころを尽くしてはかり治める厚い気持ちにそおおうと勤めることは、行政の任にあたる者の職責であって、ぜひとも日夜精を出し、もって従事すべきである。帝国議会は来年に開設されることになっている。およそ我臣民である者で誰が、公法上の権利を優重せられ公平な議論を伸ばそうとしている天皇のはてしない恩徳を尊敬し慕うことをわからないというのであろうか。議会開設の時に至って議員選挙によって当選した者は、各自が忠実に誠意を尽くして国事に参与し、上下関係をやわらぐようにし、もってなさけ深いご意向に謹んで答えることを今より切に望むものである。もし、我勝ちに争い軽率にもいたずらに紛争を起こし、議会の体面を損ない、自らその信用を人々の前に失墜させることがあるならば、ついには立憲の厚い気持を壊すに至ってしまう。地方の人民を治める任に当たる各地方長官は思量を加えて誘導啓発されることを求めるものである。憲法には国民が意見をさしはさむべきものでないことは勿論である。だが、施政上の意見は各人により異なり、同じ意見の物同士が団結し、政党などができることは時代の流れでやむを得ない。しかしながら、政府はいつも一定の主義を守り、政党の動きにとらわれることなく政党の外に立ち、この上なく公正な立場にいなければならない。各地方長官はよくこのことを認識し、偏ることなく、公正・中立な立場をとって、うまく人民をなだめ治めて、国家隆盛の一端を担うように努めるべきである。政府は従来から経費の節減をはかり、租税や課役を軽くして、人民の財力や労力を保持強化することに勉んできたといっても、外来の事変が常に予期しえないところで起き、その必要のために用いざるを得ないものもある。去る1885年(明治18)の内閣制度発足以来、鋭意に無駄な人員を削減し、繁多な規則などを省き余分な経費を減らすことにしてきたが、さらに将来に向かって不急の経費を節約して国力を充実することに務めようと思う。およそ諸々の事業は進歩と整理と併行して、はじめて結果が出ることは広くいきわたった道理である。従って、進歩の中に整理して振り返り、順序に従って働きかけ、意志堅固に耐え忍んで心を動かさずひたすらに貫き通し、効果を当面のことに求めないで事を永遠におもんばかって、うわべの華やかさや虚飾にとらわれず勤倹の気風を養成し、かつ民治上の勤めにおいて煩雑で苛酷な失敗を除き、政務の機関をして活動していくことを期待するものである。以上陳述する所は、今回「大日本帝国憲法」の発布を祝賀すると共に、将来天皇のご意向の旨に従って行ない、国家につくす所の趣旨を明らかに申し述べたことに外ならない。各地方長官はよくこの心を汲まれんことを希望する。
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