今日は、江戸時代後期の1834年(天保5)に、政治家・佐賀藩士江藤新平が生まれた日ですが、新暦では3月18日となります。
江藤新平(えとう しんぺい)は、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩下級武士の父・江藤胤光と妻・浅子の長男として生まれましたが、名は胤雄(たねお)と言いました。1848年(嘉永元)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀でしたが、生活が苦しくなり弘道館を去ってから、1853年(嘉永6年)に19歳の時、国学者枝吉神陽の私塾に学びます。
1856年(安政3年)の22歳の時、開国の必要性を説いた『図海策』を執筆、翌年には藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務めました。1862年(文久2年)の29歳の時、脱藩し京都で活動、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触しましたが、帰藩後永蟄居に処せられ、1867年(慶応3)にそれを解除され、郡目付として復帰します。
翌年の王政復古の大号令で、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、副島種臣とともに京都に派遣され、戊辰戦争において東征大総督府が設置されると、軍監に就任しました。江戸無血開城後、大木喬任(軍務官判事)と共に、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出、上野戦争で戦い、彰義隊を瓦解させます。
1869年(明治2)に維新の功により賞典禄100石を賜わり、同年7月には、献言が通って、明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称されました。1870年(明治3)には佐賀に帰郷して佐賀藩権大参事(準家老)に就任して藩政改革を行いましたが、中央に呼び戻され、上京して太政官中弁となり、制度改革の建白を再三行なったものの、同年12月に虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷します。
1871年(明治4)に制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出、同年に文部大輔、左院副議長、翌年に司法卿となり、参議に上りました。1873年(明治6)に朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野、翌年に愛国公党の結成に加わり、「民撰議院設立建白書」に署名したものの、帰郷を決意します。
佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談し、佐賀征韓党首領として擁立され、同年2月16日に士族反乱である佐賀の乱を勃発させることになりました。しかし、戦いに敗れて逃亡し、鹿児島で西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られ、高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説きましたが失敗、四国で捕えられます。
1874年(明治7)4月13日に、裁判の結果、梟首の刑を申し渡され、夕方に佐賀の嘉瀬刑場において、数え年40歳で処刑されました。
〇佐賀の乱とは?
明治時代前期の1874年(明治7)2月、前参議江藤新平、前秋田権令島義勇らが佐賀県の征韓・憂国両党に結集する士族1万1,000余人と共に、征韓論反対の明治政府に対して起こした不平士族の反乱の一つでした。下野した参議江藤新平が,前年の明治6年10月の政変(征韓論分裂)で参議江藤新平は、参議西郷隆盛らと下野し、また板垣退助らと「民撰議院設立建白書」に名を連ねましたが、郷里の佐賀に帰ります。
当時の佐賀県には、強硬に征韓論を唱える征韓党があり、この江藤を首領としました。また、中央政府の推し進める強権的資本主義化に反対し、旧武士層の利害を代表して封建復活を唱える島義勇を首領とする憂国党があり、反明治新政府の行動を共にするようになります。
旧弘道館に本部を設置し、「征韓先鋒請願事務所」を名のり、2月1日に3,000余人(のち1万1,000余人に達する)が小野商会を襲って行動を起こしました。これを機に、明治政府は4日に、鎮圧のため出兵を命令し、参議大久保利通を全権とした鎮圧軍が佐賀へと向います。
反乱軍は13日に、「決戦の議」を発し、18日に佐賀県庁 (旧佐賀城) を占拠するなど抗戦を続けました。しかし、博多から南下した政府軍と朝日山で交戦したものの、最新兵器で武装した政府軍の前に歯が立たず敗走を重ねます。
高知、熊本、中津などからの期待した援軍も得られず、2週間ほどの戦闘の後、2月いっぱいで鎮圧されました。江藤と島は逃走しましたが、2月29日に江藤が四国で、3月7日には島が鹿児島でそれぞれ捕えられ、裁判の結果、ともに4月13日に晒首(さらしくび)の刑を受けます。
他に、400人余が処罰(斬罪11名、懲役130名を含む)されましたが、内乱鎮圧に対する明治政府の強い態度を示す重いものとなりました。その後、不平士族の反乱は、1876年(明治9)10月の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と続き、1877年(明治10)の西郷隆盛を大将に擁立した西南戦争へと至ります。
☆江藤新平関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1834年(天保5年2月9日) 肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)で、佐賀藩下級武士の父・江藤胤光と妻・浅子の長男として生まれる
・1848年(嘉永元年) 藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給される
・1850年(嘉永3年) 枝吉神陽が「義祭同盟」を結成すると、大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らとともに参加する
・1853年(嘉永6年) 19歳で国学者枝吉神陽の私塾に学ぶ
・1856年(安政3年) 22歳の時に開国の必要性を説いた『図海策』を執筆する
・1857年(安政4年) 江口千代子と結婚、藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める。
・1862年(文久2年) 29歳の時、脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触するが、帰藩後永蟄居に処せられる
・1867年(慶応3年12月) 永蟄居を解除され、郡目付として復帰する
・1868年(慶応3年12月9日) 王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される
・1868年(慶応4年2月9日) 新政府により東征大総督府が設置され、軍監に就任する
・1868年(慶応4年閏4月1日) 大木喬任(軍務官判事)と共に、佐賀藩論として「東西両都」の建白書を岩倉に提出する
・1868年(慶応4年5月15日) 軍監として上野戦争で戦い彰義隊を瓦解させる
・1868年(慶応4年7月17日) 尽力の結果「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ」詔書が発せられる
・1869年(明治2年) 維新の功により賞典禄100石を賜わる
・1869年(明治2年7月) 江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される
・1870年(明治3年1月) 佐賀に帰郷して佐賀藩権大参事(準家老)に就任して藩政改革を行う
・1870年(明治3年9月) 中央に呼び戻され、上京する
・1870年(明治3年11月) 太政官中弁となり、制度改革の建白を再三行なう
・1870年(明治3年12月) 虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する
・1871年(明治4年2月) 制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する
・1871年(明治4年7月) 文部大輔となる
・1871年(明治4年8月) 左院副議長となる
・1872年(明治5年4月) 司法卿となり、参議に上る
・1873年(明治6年)10月24日 朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野する
・1874年(明治7年)1月10日 愛国公党の結成に加わる
・1874年(明治7年)1月12日 「民撰議院設立建白書」に署名し、帰郷を決意する
・1874年(明治7年)1月13日 船便で九州へ向かう
・1874年(明治7年)2月2日 長崎の深堀に着き、しばらく様子を見る
・1874年(明治7年)2月5日 佐賀に対する追討令がだされる
・1874年(明治7年)2月11日 佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行う
・1874年(明治7年)2月12日 佐賀征韓党首領として擁立される
・1874年(明治7年)2月16日 夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱(佐賀戦争)が勃発する
・1874年(明治7年)3月1日 逃亡して、鹿児島鰻温泉で湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られる
・1874年(明治7年)3月25日 高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが失敗する
・1874年(明治7年)4月13日 梟首の刑を申し渡され、夕方に佐賀の嘉瀬刑場において、数え年40歳で処刑される
・1889年(明治22年) 「大日本帝国憲法」発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる
・1916年(大正5年)4月11日 正四位が贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1856年(安政3) | 外交官・政治家原敬の誕生日(新暦3月15日) | 詳細 |
1921年(大正10) | 小説家庄野潤三の誕生日 | 詳細 |