今日は、江戸時代中期の1716年(正徳6)に、画家伊藤若冲の生まれた日ですが、新暦では3月1日となります。
伊藤若冲(いとう じゃくちゅう)は、京都・錦小路にあった青物問屋の桝屋源左衛門の長男として生まれましたが、名は汝釣(じょきん)と言いました。家業のかたわら、15歳頃から絵を学びはじめ、狩野派の流れを汲む大岡春卜に師事したとされますが、宋・元・明画なども学んでいます。
1738年(元文3)の23歳の時、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名しました。しかし、商売にはあまり熱心でなく、遊び事はあまりしませんでしたが、妻もめとらず、1755年(宝暦5)の40歳の時、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居してしまいます。
1758年(宝暦8年)頃から「動植綵絵」を描き始め、翌年には鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を制作しました。1765年(明和2年)の50歳の時、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進、翌年の父の三十三回忌には相国寺にさらに6幅を寄進しています。
1771年(明和8年)に枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤めましたが、市場の営業を巡っていさかいがあり、紆余曲折の末、1774年(安永3)に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認されました。1788年(天明8年)の天明の大火で自宅を焼失し、翌年頃 京都・海宝寺の方丈へ「群鶏図障壁画」、翌々年には豊中・西福寺の「仙人掌群鶏図襖」を描いています。
晩年は、伏見深草の石峯寺に隠遁し、義妹の心寂と暮らしていましたが、1800年(寛政12年9月10日)に数え年85歳で亡くなり、同寺に埋葬されました。
〇伊藤若冲の主要な作品
・『鹿苑寺大書院障壁画』(1759年)京都市・鹿苑寺蔵 国指定重要文化財
・『釈迦三尊像』3幅(1765年)相国寺蔵
・『野菜涅槃図』京都国立博物館蔵 国指定重要文化財
・『動植綵絵(どうしょくさいえ)』30幅(1757~66年) 宮内庁蔵
・『群鶏図障壁画』(1789年頃)京都・海宝寺蔵
・『仙人掌群鶏図襖絵(さぼてんぐんけいずふすまえ)』(1790年)豊中市・西福寺蔵 国指定重要文化財
☆伊藤若冲関係略年表(日付は旧暦です)
・1716年(正徳6年2月8日) 京都・錦小路にあった青物問屋「枡屋」の長男として生まれる
・1730年(享保15年)頃 15歳頃から絵を学びはじめ、狩野派の流れを汲む大岡春卜に師事する
・1738年(元文3年) 23歳の時、父・源左衛門の死去に伴い、4代目枡屋(伊藤)源左衛門を襲名する
・1755年(宝暦5年) 40歳の時、家督を3歳下の弟・白歳(宗巌)に譲り、名も「茂右衛門」と改め、はやばやと隠居する
・1758年(宝暦8年)頃 「動植綵絵」を描き始める
・1759年(宝暦9年10月) 鹿苑寺(金閣寺)大書院障壁画を制作する
・1764年(明和元年) 金刀比羅宮奥書院襖絵を描く
・1765年(明和2年) 50歳の時、枡屋の跡取りにしようと考えていた末弟・宗寂が死去、「動植綵絵」(全30幅のうちの)24幅と「釈迦三尊図」3幅を相国寺に寄進する
・1766年(明和3年) 父の三十三回忌には相国寺にさらに6幅を寄進する
・1771年(明和8年) 枡屋があった中魚町の隣にある帯屋町の町年寄を勤める
・1771年(明和8年12月) 京都東町奉行所から帯屋町と貝屋町に奉行所へ出頭するよう通達が来る
・1771年(明和9年1月15日) 帯屋町・貝屋町・中魚屋町・西魚屋町の営業停止の裁定が下される
・1771年(明和9年2月末) 冥加金を年16枚上納することを条件に一旦市場は再開される
・1771年(明和9年7月) 再び営業停止になる
・1773年(安永2年) 萬福寺住職伯珣照浩から印可を得て、「革叟」の号と僧衣を貰う
・1774年(安永3年8月29日) 年に銀35枚の冥加金を納める条件でついに市場は公認される
・1776年(安永5年) 石峯寺五百羅漢石像の下図を描く、
・1788年(天明8年) 天明の大火で、自宅を焼失する
・1789年(天明9年)頃 京都・海宝寺の方丈へ「群鶏図障壁画」を描く、
・1790年(天明10年) 「仙人掌群鶏図襖」(大阪西福寺蔵)を描く
・1800年(寛政12年9月10日) 京都において、数え年85歳で亡くなり、石峯寺に土葬される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1899年(明治32) | 「高等女学校令」が公布される | 詳細 |
1915年(大正3) | 歌人・小説家長塚節の命日(節忌) | 詳細 |