今日は、江戸時代中期の1731年(享保16)に、俳人・蕉門十哲の一人各務支考の亡くなった日ですが、新暦では3月14日となります。
各務 支考(かがみ しこう)は、1665年(寛文5)に美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜県岐阜市)の村瀬吉三郎の二男として生まれました。1671年(寛文11)の5歳の時、父が亡くなり、大智寺第4世の弟子として大智寺に住居するようになり、1675年(延宝3年)の10歳の時、はじめて俳句を作ったとされます。
1683年(天和3)の18歳の時、姉の嫁ぎ先である各務甚平の養子となり、伊勢山田に行き、医学・俳諧・漢学の勉強を始め、翌年には、還俗して乞食僧として諸国行脚を開始しました。1690年(元禄3)の25歳の時、涼菟の仲立ちで近江の大津にある無名庵を訪ねて芭蕉の弟子になり身の回りの世話をし、各務支考と名乗るようになります。
1692年(元禄5)の27歳の時、春から夏にかけて奥羽を行脚し、俳論書『葛の松原』上梓しました。1694年(元禄7)に芭蕉の難波への旅立に、惟然と共に同行、同年10月12日には、芭蕉を看病して、遺書を代筆し、臨終を看取り、『芭蕉翁追善之日記』を著します。
翌年に美濃派の一風を樹立して、芭蕉の遺吟・遺文を集めて『笈日記』を編集、伊勢山田に草庵「十一庵」を結び拠点としました。1698年(元禄11)には西国を旅して蕉風俳諧の伝播に努め、『続猿蓑』の編纂にも加わり、刊行します。
1701年(元禄14)に近江から越前、加賀、越中の旅し、1705年(宝永2年 に讃岐から伊予の間を徘徊、翌年には越後を行脚するなど各地を訪れて、普及活動をしました。1711年(正徳元)の46歳の時、伊勢を去り、故郷北野村に戻って「獅子庵」を営み、「終焉記」を書いて、自らの葬儀を催す佯死事件を起こし、風狂な面も見せます。
1718年(享保3)に『本朝文鑑』を編纂、翌年に『俳諧十論』を刊行、旅先で加賀千代女を発掘するなどしました。俳壇形成や俳諧の理論的普及に努めましたが、1730年(享保15)に蘆元坊を美濃派の後継とし、翌年2月7日に美濃国山県郡北野村で、数え年67歳で亡くなり、大智寺に葬られ、法名を「梅花仙」とされます。
<代表的な句>
・「野に死なば 野を見て思へ 草の花」(越の名残)
・「鶯の 肝つぶしたる 寒さかな」
・「腹立てる 人にぬめくる なまこ哉」
・「気みじかし 夜ながし老いの 物狂ひ」
・「賭にして 降出されけり さくら狩」(続猿蓑)
・「むめが香の 筋に立よる はつ日哉」(炭俵)
・「牛呵(しか)る 声に鴫(しぎ)立つ ゆふべかな」
・「宇治に似て 山なつかしき 新茶かな」
〇各務支考の主要な著作
・俳論書『葛の松原』(1692年)
・『芭蕉翁追善之日記』(1694年)
・芭蕉の遺吟・遺文集『笈 (おい) 日記』(1695年)
・俳論書『続五論』(1698年)
・編纂『続猿蓑』(1698年)
・編纂『西華集』(1699年刊)
・編纂『東華集』(1700年刊)
・俳論書『十論為弁抄』(1699年)
・編纂『本朝文鑑』(1718年)
・俳論書『俳諧十論』(1719年刊)
・編纂『和漢文操』(1723年序)
・編纂『三日月日記』(1730年序)
・『論語先後鈔』(1731年)絶筆
・俳論書『二十五箇条』
・『俳諧古今抄』
・『伊勢新百韻』
☆各務支考関係略年表(日付は旧暦です)
・1665年(寛文5年) 美濃国山県郡北野村西山(現在の岐阜市)の村瀬吉三郎の二男として生まれる
・1671年(寛文11年) 5歳の時、父が亡くなり、大智寺第4世の弟子として大智寺に住居する
・1675年(延宝3年) 10歳の時、はじめて俳句を作る
・1683年(天和3年) 18歳の時、姉の嫁ぎ先 各務甚平の養子となり、伊勢山田に行き、医学・俳諧・漢学の勉強をはじめる
・1684年(貞享元年) 19歳の時、還俗して乞食僧として諸国行脚を開始する
・1690年(元禄3年) 25歳の時、涼菟の仲立ちで滋賀県大津にある無名庵を訪ねて芭蕉の弟子になり身の回りの世話をし、各務支考と名乗る
・1691年(元禄4年閏10月23日) 芭蕉の鳳来寺山登山に、天野桃隣、白雪の子桃先・桃後らと共に同行する
・1692年(元禄5年) 27歳の時、春から夏にかけて奥羽を行脚し、俳論書『葛の松原』上梓する
・1694年(元禄7年9月8日) 芭蕉の難波への旅立に、惟然と共に同行する
・1694年(元禄7年10月12日) 芭蕉を看病して、遺書を代筆し、臨終を看取る
・1694年(元禄7年) 『芭蕉翁追善之日記』を著す
・1695年(元禄8年) 30歳の時、俳句の仲間、「美濃派」を作り、『笈 (おい) 日記』を編集する
・1696年(元禄9年) 十丈が伊勢に訪ねてくる
・1698年(元禄11年4月20日) 難波津を出発し西国へと向かう
・1698年(元禄11年7月9日 長崎に着く
・1698年(元禄11年9月) 下関に着く
・1698年(元禄11年) 『続五論』を書き、『続猿蓑』を刊行する
・1699年(元禄12年) 『西華集』を刊行、『十論為弁抄』を著す
・1700年(元禄13年9月) 『東華集』刊行する
・1701年(元禄14年) 京を出発して、近江から越前、加賀、越中の旅をする
・1702年(元禄15年2月20日) 浪化を案内して向井去来を訪ねる
・1705年(宝永2年) 讃岐から伊予の間を徘徊、川之江の大師堂を訪れる
・1706年(宝永3年) 越後を行脚する
・1708年(宝永5年4月) 木曽から越後へ旅をする
・1708年(宝永5年7月~9月13日) 直江津および高田に滞在する
・1709年(宝永6年) 編纂した『白扇集』を出す
・1711年(正徳元年) 46歳の時、郷里北野村に帰り「獅子庵」に住む
・1711年(正徳元年8月15日) 「終焉記」を書き、自らの葬儀を催す佯死事件を起こす
・1718年(享保3年) 『本朝文鑑』を編纂する
・1719年(享保4年) 『俳諧十論』を刊行し、旅先で加賀千代女を発掘する
・1723年(享保8年) 『和漢文操』を編纂し序を書く
・1729年(享保14年) 也柳が美濃に支考を訪ねてくるが、疝痛療養のため長良川畔に病床を移していた
・1730年(享保15年) 蘆元坊を後継とする
・1730年(享保15年8月) 編纂した『三日月日記』に自序を書く
・1731年(享保16年2月7日) 美濃国山県郡北野村で、数え年67歳で亡くなり、大智寺に葬られ、法名を「梅花仙」とされました
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1184年(治承8) | 一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日) | 詳細 |
1692年(元禄4) | 孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日) | 詳細 |