今日は、江戸時代後期の1818年(文化15)に、北方探検家・著述家松浦武四郎が生まれた日ですが、新暦では3月12日となります。
松浦武四郎(まつうら たけしろう)は、伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市)で、松浦氏の一族とされる郷士の父・松浦桂介と母・とく子の四男として生まれましたが、名は弘(ひろむ)と言いました。1830年(天保元)、13歳の時に津の儒者平松楽斎の塾に入り、猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得、山本亡羊に本草学を学びます。
1833年(天保4年)、16歳の時に江戸に行き、その後諸国を遊歴、名所旧跡を訪ね、日本のいろいろな山にも登りましたが、1838年(天保9年)に平戸で僧となり文桂と名乗りました。1844年(弘化元年)に還俗して蝦夷地探検に出発、翌年に場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達、1846年(弘化3年)に樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、北海道を探査、1849年(嘉永2年)には国後島・択捉島を探検します。
1855年(安政2年)に江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢され、翌年には箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回、初の詳細な蝦夷地誌である『蝦夷日誌』155巻を著して幕府に呈上しました。また、1857年(安政4)に東西蝦夷山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査し、1859年(安政6年)には『東西蝦夷山川地理取調図』、『東西蝦夷山川取調日誌』を完成させます。
しかし、アイヌに対する過酷な扱いを記した日誌を公表できなかったこともあって、同年職を辞し、以後約10年間著作活動に専念しました。1868年(明治元年)の明治維新後の新政府から東京府付属に任命され、翌年に「蝦夷開拓御用掛」とされ、8月には開拓判官に任じられ、蝦夷地に「北海道」と命名し、更にアイヌ語の地名を参考にして国名・郡名を選定しています。
ところが、1870年(明治3年3月)に、新政府によるアイヌ解放が果たされないことなど、北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上して辞職しました。それでも、終身15人扶持を給され、以来著作のかたわら諸州を漫遊し、1885年(明治18年)、68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行なっています。
画家、書道家、歌人、登山家としても知られましたが、1888年(明治21年)2月10日に、東京神田五軒町の自宅で脳溢血により、数え年71歳で亡くなりました。
〇松浦武四郎の主要な著作
・『蝦夷日誌』
・『再航蝦夷日誌』
・『三航蝦夷日誌』
・『東西蝦夷山川地理取調図』(1859年)
・『東西蝦夷山川取調日誌』(1859年)
・『近世蝦夷人物誌』
・『石狩日誌』
・『唐太日誌』
・『久摺日誌』
・『後方羊蹄日誌』
・『知床日誌』
・『壺の石』
・『於幾能以志』
☆松浦武四郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)
・1818年(文化15年2月6日) 伊勢国一志郡須川村(現在の三重県松阪市小野江町)で、郷士の父・松浦桂介と母・とく子の四男として生まれる
・1830年(天保元) 津の儒者平松楽斎の塾に入り、猪飼敬所、梁川星巌らの知己を得る
・1833年(天保4年) 16歳の時、江戸に行き、その後諸国を遊歴する
・1838年(天保9年) 平戸で僧となり文桂と名乗る
・1844年(弘化元年) 還俗して蝦夷地探検に出発する
・1845年(弘化2年) 場所請負人和賀屋孫兵衛手代庄助と変名し、東蝦夷、知床岬まで到達する
・1846年(弘化3年) 樺太詰となった松前藩医・西川春庵の下僕として同行し、北海道を探査する
・1849年(嘉永2年) 国後島・択捉島を探検する
・1855年(安政2年) 江戸幕府から蝦夷御用御雇に抜擢される
・1856年(安政3年) 箱館奉行支配組頭、向山源太夫手付として東・北・西蝦夷地を巡回する
・1857年(安政4年) 東西蝦夷山川地理取調御用を命ぜられ、主要河川をさかのぼり内陸部をも踏査する
・1859年(安政6年) 『東西蝦夷山川地理取調図』を完成させる
・1859年(安政6年) 御雇を辞任、以後約10年間著作活動に専念する
・1868年(明治元年) 新政府から東京府付属に任命される
・1869年(明治2年6月) 新政府から「蝦夷開拓御用掛」とされる
・1869年(明治2年8月) 新政府から開拓判官に任じられ、蝦夷地に「北海道」と命名する
・1870年(明治3年3月) 北海道の開拓の方針を巡って、従五位の官位を返上して辞職するが、終身15人扶持を給される
・1870年(明治3年) 北海道人と号して「千島一覧」という錦絵を描く
・1885年(明治18年) 68歳より富岡鉄斎からの影響で奈良県大台ケ原に登り始め、自費で登山道の整備、小屋の建設などを行なう
・1888年(明治21年)2月10日 東京神田五軒町の自宅で脳溢血により、数え年71歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1647年(正保4) | 武将・茶人・作庭家小堀政一(遠州)の命日 | 詳細 |
1907年(明治40) | 文芸評論家亀井勝一郎の誕生日 | 詳細 |