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 今日は、大正時代の1920年(大正9)に、官営八幡製鉄所で争議(八幡製鉄所争議)が起き、職工2万4千名がストライキに入った日です。
 八幡製鉄所争議(やわたせいてつじょそうぎ)は、1920年(大正9)に官営八幡製鉄所(現在の新日本製鉄八幡製鉄所)で起きた労働争議で、太平洋戦争前では、川崎・三菱神戸造船所争議に次ぎ、日本で2番目に大きな争議でした。1918年(大正7)夏に賃上げを要求する動きが起き、秋には待遇改善を要求した1万数千名の自然発生的サボタージュが起こります。
 翌年8月に職工西田健太郎は労働組合の設立を計画して解雇されましたが、同年10月16日には中町の弥生座で「日本労友会」(会員600名)の発開式が行われました。同年12月末に製鉄所が職工の重大な収入源であった時間外勤務を規制する「職工規則」の改定を発表すると、労友会は賃金3割増額、割増金の平等支給、勤務時間短縮などを求めて闘争準備に入り、翌年1月には労友会の浅原会長が単身上京して、製鉄所長と会見、「会社側が自発的に職工の要求をいれないと、公然と要求書を提出する」と、勧告します。
 製鉄所側は交渉を拒否し、労友会幹部ら6名を解雇、2月4日に労友会の幹部4人が「嘆願書」形式で、①臨時手当および臨時加俸を本給になおして支給されたい。②割増し金は従来三日以上の欠勤者にたいしては付けられなかったが、これを廃し、日割りをもって平等に支給されたい。③勤務時間を短縮せられたい。④住宅料を家族をもつものには四円、独身者に二円を支給されたい。⑤職工の現在賃金にたいして三割を増給されたい。の5項目要求を提出しました。しかし、「嘆願書」の受理が拒否されたので、翌日未明から労友会は2万4千名を率いてストに突入、治安当局は、このストライキを鎮圧することにし、警官隊がぞくぞくと、八幡に動員され、憲兵も出動、同日午前10時には労友会本部が襲われるなどして、会長浅原健三、副会長西田健太郎ら300人以上が検束されます。
 製鉄所側は、7、8両目を臨時休業にすると公表し、具体的には何の回答もしない中、はげしい弾圧により、同月8日には労働者の結束はくずれ、翌9日になると、ほとんど全員にちかい労働者が就業することになりました。その中で、2月23日には、労友会の協議会が開かれ、満場一致で再ストライキを議決し、代表者が再度長官と会見し折衝を3時間余続けましたが、一歩も進展しなかつたため、夜からサボタージュがはじまり、翌24日に再度ストに突入します。
 2月25日に製鉄所側がロックアウト(エ場閉鎖)を宣言し、在郷軍人の労働者がかりあつめられて入所、警察ははげしい弾圧を加え、製鉄所側は、切り崩しにやっきとなりました。その結果、3月2日には大半が就業し、争議は終了することとなったものの、同月4日までに224名が馘首され、裁判所は「治安警察法」違反の騒擾罪で、浅原会長ら70名を起訴(のち29名が有罪となる)されます。
 ストライキは破られたものの、4月上旬には製鉄所は時間短縮(12時間2交代→9時間3交代)と約11%の賃上げをはじめ、労働者側の要求をほとんど入れた「職工優遇案」を発表しました。
 以下に、この争議について書かれた、『大阪朝日新聞』1920年(大正9)2月6日付記事と新建社版『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』浅原健三著(1930年2月15日発行)の冒頭部分を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇八幡製鉄所とは?

 官営八幡製鉄所は、明治時代中頃に近代工業が発達してきたのと日清戦争を契機とする鉄鋼需要増加に応え、軍備増強および産業資材用鉄鋼の生産増大をはかるため、1896年(明治29)の第9回帝国議会で官営製鉄所建設案が可決、「製鉄所官製」が公布されたことに基づいて建設が決まりました。日清戦争による清国からの賠償金の一部を使用し、ドイツ人技師グーテホフヌングスヒュッテの指導を受けて、翌年から福岡県遠賀郡八幡村(現在の北九州市八幡東区)で建設が始まります。
 筑豊炭田を後背に抱え、石炭を大量・迅速に調達できることと鉄鉱石の輸送・運搬に適した港を持っていることなどから適地と考えられました。1899年(明治32)に、中国湖北省ターイエ(大冶)鉄鉱山の鉄鉱を原料とする長期契約が結ばれ、日本初の近代的銑鋼一貫工場とされます。
 1901年(明治34)2月5日に東田第一高炉で火入れが行われ、同年11月18日に作業開始式が行われて、操業が始まりました。当初は農商務省の管轄でしたが、日露戦争後は飛躍的発展を遂げて全国の鉄鋼生産の7~8割を占めるようになり、1925年(大正14)には商工省の所管となります。
 そして、1934年(昭和9)に、民間製鉄5社と合併し、半官半民の日本製鉄となりました。太平洋戦争後の1950年(昭和25)に、「過度経済力集中排除法」の適用を受けて、日本製鉄は、富士製鉄と八幡製鉄に分割されますが、1970年(昭和45)に、再び富士製鉄と合併して新日本製鐵となり、2012年(平成24)には、新日本製鐵と住友金属工業が合併し、新日鐵住金八幡製鐵所となって現在に至ります。
 尚、2007年(平成19)11月30日には、経済産業省から八幡製鐵所関連遺産が「近代化産業遺産」に認定され、2015年(平成27)には、官営八幡製鉄所関連の旧本事務所、修繕工場、旧鍛冶工場(福岡県北九州市)、遠賀川水源地ポンプ室(福岡県中間市)の4資産が「明治日本の産業革命遺産:製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界遺産(文化遺産)に登録されました。

〇八幡製鉄所争議関係略年表

・1918年(大正7)夏 賃上げを要求する動きが起きる
・1918年(大正7)秋 待遇改善を要求した1万数千人の自然発生的サボタージュが起こる
・1919年(大正8)8月 職工西田健太郎は労働組合の設立を計画して解雇される
・1919年(大正8)10月16日 中町の弥生座で「日本労友会」(会員600名)の発開式が行われる
・1919年(大正8)12月末 製鉄所が職工の重大な収入源であった時間外勤務を規制する職工規則の改定を発表すると、労友会は賃金3割増額、割増金の平等支給、勤務時間短縮などを求めて闘争準備に入る
・1920年(大正9)1月 労友会の浅原会長が単身上京して、製鉄所長と会見、「会社側が自発的に職工の要求をいれないと、公然と要求書が提出されますぞ」と、勧告する
・1920年(大正9)2月 製鉄所が労友会幹部ら6名を解雇する
・1919年(大正8)2月4日 労友会の幹部4人が「嘆願書」形式の要求を提出する
・1919年(大正8)2月5日 嘆願書の受理が拒否されたので、労友会は2万4千名を率いてストに突入する
・1919年(大正8)2月8日 争議団幹部が検挙されるなどのはげしい弾圧のため、労働者の結束が崩れる
・1919年(大正8)2月9日 ストライキが中止され、平常に復する
・1919年(大正8)2月23日 労友会の協議会が開かれ、満場一致で再ストライキを議決し、夜からサボタージュがはじまる
・1919年(大正8)2月24日 製鉄所側が要求をすべて拒否したため、再度ストに突入する
・1919年(大正8)2月25日 製鉄所側がロックアウト(エ場閉鎖)を宣言し、在郷軍人の労働者がかりあつめられて入所する
・1919年(大正8)3月2日 製鉄所側のロックアウト、弾圧、スト破り、切り崩し等の結果、争議は終了する
・1919年(大正8)3月 製鉄所は224人の首を切り、裁判所は「治安警察法」違反の騒擾罪で、浅原ら70人を起訴(のち29人が有罪となる)する
・1919年(大正8)4月上旬 製鉄所は時間短縮(12時間2交代→9時間3交代)と約11%の賃上げをはじめ、労働者の要求をほとんど入れた「職工優遇案」を発表する

〇戦前の主要な労働争議(ストライキ)一覧

・1907年(明治40)2月 足尾銅山争議
・1911年(明治44)12月~ 東京市電争議 6,000人参加
・1917年(大正6)6月 三菱長崎造船所争議
・1920年(大正9)2月 八幡製鉄所争議 2万4千人参加
・1920年(大正9)6~8月 三菱・川崎造船所争議 3万8千人参加
・1925年(大正14)12月~ 別子銅山争議 約1,400人参加
・1926年(大正15)1~3月 共同印刷争議(60日間)約2,000人参加
・1926年(大正15)4月~ 浜松の日本楽器争議(105日間)約1,200人参加
・1927年(昭和2)4月~ 野田醤油労働争議(216日間)約1,400人参加
・1927年(昭和2)8月~ 山一林組製糸争議 約1,300人参加 
・1930年(昭和5)春 鐘紡争議
・1930年(昭和5)9月 東洋モスリン亀戸工場争議 約2,500人参加
・1932年(昭和7)3月 東京地下鉄争議

☆『大阪朝日新聞』1920年(大正9)2月6日付記事から

 八幡製鉄所の同盟罷工 一万三千の職工一斉の業務を抛ち
 大陽鉱炉の火は悉く消え 五百の煙突 煙を吐かず 
 右の如く突然同罷工をなすに至りし原因は、製鉄所の職工より成れる同市日本労友会が先般幹事会議を開き、時間短縮その他につき決議なし、四日午前九時、吉村、福住、鳥井の三代表者は、左のごとき嘆願書を製鉄所長官に提出せんとしたり
 一、臨時手当及び加給を本俸に直し支給せられたき事
 一、割増金は従来三日以上の欠勤者にたいしては付与せざりしが、之を廃し、日割を以て平等に支給されたき事
 一、勤務時間を短縮せられたき事
 一、住宅料を家族を有するものには四円、独身者には二円を支給されたき事
 一、職夫の現在賃金に対して三割を支給せられたき事

新建社版『溶鉱炉の火は消えたり 八幡製鉄所の大罷工記録』浅原健三著(1930年2月15日発行)より

一 死の工都
 大溶鉱炉の火が落ちた。
 東洋随一を誇る八幡製鉄所、黒煙、天を蓋ひ、地を閉ざしてゐた大黒煙が、ハタと杜絶えた。それで、工都八幡市の息は、バッタリ止つた。
 死の工場、死の街。墓場。
 広茅(こうぼう)七十余万坪、天を衝いて林立する三百有八十本の大小煙突から吐き出される、永久不断にと誰もが思ひ込んでゐた、黒、灰、白、鼠色の煙が、たたぬ、一と筋も立ち昇らない。延長実に百二十哩(マイル)の構内レールを、原鉱、石炭、骸炭、銑鉄、銅塊、煉瓦、セメント、等、々、各種の原料と製品とを、工場から工場へ、引込線から引込線へ、埠頭から埠頭へと運ぶために、間断なく構内を駆け廻ってゐる幾十輌の機関車から吐き出される煤煙も絶えた。
 煙のない煙都。卒塔婆の如く黙然とつ立った大煙突!八幡は窒息した。
 囂々(ごうごう)と鳴りわたる工場の大騒音。ボイラーの音、シャフトの声、調帯(ベルト)の唸り、ハンマーの響き、エンジンの呻き、炸裂する音、燃ゆる音、流れる音、落ちる音、捲き揚がる音、引き落とす音、投げつけられた音、叩かれた音。音、声、唸り、響き、呻き、轟き、その全てが熄んだ。
 音なき大工場は、墓場だ。
 夜が来た。電燈が灯らない。溶鉱炉、平炉、転炉から九天に放射する火の柱はサット消えた。灼熱の鉱石は、溶鉄は、炉の底に、黒く、冷たく死んでゐる。
 光がない。闇だ。真暗だ。
 火が消え、煙が絶え、音が熄んだ。火の町、煙の町、光の町、音響の町、八幡市は屍だ。
 何という寂しさだ。深海の真底の如き沈黙!
 電車も息を殺して靜かに歩む。道行く人の足音もない。人々はヒソヒソと囁く。
 八幡市は寂然たる逮夜だ。
 時は、大正九年二月五日。ストライキだ。二万の労働者は一斉に工場から出て行った。
 明治三十年二月設立告示。三十四年起業。公称投下資本一億二千万円。構内面積七十余万坪。周囲三里余。職員一千四百、職工一万七千、臨時職夫7千人。総員二万五千人が汗と脂にまみれ、骨を削り、肉を割いて三十五万キロの銑、三十五万キロの鋼を造る。日本随一の官設工場に、突如! 反×の叫びがあがった。俄然! 虐げられた者は鉄鎖を握つて起ち上がつた。
 (以下略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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