purokino01

 今日は、昭和時代前期の1929年(昭和4)に、日本プロレタリア映画同盟(略称:プロキノ)が創立された日です。
 日本プロレタリア映画同盟(にほんプロレタリアえいがどうめい)は、「全日本無産者芸術団体協議会」の傘下に結成された映画制作団体(略称:プロキノ)でした。前身は、1928年(昭和3)3月25日に結成された「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」で、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部が設けられ、同年6月の機関紙「戦旗」誌上の佐々元十論文「玩具・武器─撮影機」にて「プロレタリアート解放のための映画の組織的生産」が提案されます。
 同年12月に「全日本無産者芸術団体協議会」と改組される際に、専門部が独立することとなり、翌年2月2日に創立大会が開催され、佐々元十、岩崎昶、北川鉄夫らが参加、綱領として、「一.プロレタリア映画生産発展のために闘う。一.一切の反動的映画の批判克服のために闘う。一.映画に加わる政治的抑圧撤廃のために闘う。」が決められました。同年3月8日の右翼に暗殺された労働農民党の山本宣治代議士の告別式で、『山本宣治告別式』、『山宣渡政労農葬』を撮影します。
 1930年(昭和5)4月5日に東京で「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第2回大会が開催され、当面のスローガンとして、(一) プロレタリア映画を工場農村へ!、(二) プロキノの組織の拡大強化!、(三) プロレタリア映画の日常的製作と上映組織の確立!、(四) プロレタリア映画上映の徹底的自由の獲得!の4つが掲げられました。同年5月31日に東京の読売講堂で「第一回プロレタリア映画の夕」を開催、日本プロレタリア音楽同盟の合唱隊が出演しましたが、千名を超える人々が押しかけて入りきらず、6月13日に同じ場所、同じ内容で2回目が開催されています。
 同年7月に新興映画社編『プロレタリア映画運動の展望』を刊行、8月には「プロレタリア映画」を発刊(1931年まで)し、翌年4月23日の「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第3回大会では、行動綱領として、(一) 労働者農民開放の為の映画運動の遂行、(二) プロレタリア映画運動の国際的な提携、(三) プロレタリア映画の生産発表の自由獲得、(四) ブルジョア映画の批判克服、(五) プロレタリア映画の確立を決めました。本部(東京)の他に、東京、京都、大阪、高知、山形、金沢などに支部を持ち、メンバーも200名を超え、現像編集のためのラボまで設置しています。
 また、支持組織として、「プロキノ友の会」、「キノ・リーグ」を持ち、人々の中に「映画サークル」を広げ、1931年(昭和6)10月に発刊した大衆的機関紙「映画クラブ」は、最高時発行部数6千部を記録しました。映画作品としては、東京メーデーを記録した『第12回東京メーデー』(1931年)、富山県の大沢野村小作争議を記録した『土地』(1931年)、大学におけるスポーツ教育の不備、一般学生への運動設備開放を訴えた『スポーツ』(1932年)、東京市電争議を記録した『全線』(1932年)、労働者と農民が一致団結する生活共同組合を描いた『労農団結餅』(1932年)などが製作されています。
 しかし、1932年(昭和7)に「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第4回大会を開催するものの、即時解散させられ、官憲による弾圧が強まって、プロキノメンバーの検挙が増加、映画制作が困難となっていきました。1934年(昭和9)には、指導部の検挙により組織的活動も不可能となり、同年4月12日に解散させられるに至ります。

〇「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」とは?

 昭和時代前期の1928年(昭和3)3月25日に結成(初代委員長藤森成吉)された、プロレタリア芸術運動(労働者階級に根差した芸術を確立しようとする運動)の団体で、エスペラント語のNippona Proleta Artista Federacioの頭文字を組み合わせた略称を用い、NAPF(ナップ)とも呼ばれ、機関紙『戦旗』 (1928年5月~1931年12月) を発行しました。1928年(昭和3)3月15日に、三・一五事件(社会主義運動への弾圧事件)が起こり、プロレタリア芸術運動も大きな打撃を受けます。しかし、それに対抗して活動を強化すべく、それまで、プロレタリア芸術運動の分野で分裂していた「日本プロレタリア芸術連盟」(中野重治ら)と「前衛芸術家連盟」(蔵原惟人ら)が合同して、文学部、演劇部、美術部、音楽部、映画部、出版部の6専門部を設け、それらの領域でプロレタリア芸術運動を確立すべく活動しました。同年12月には、それぞれの部を独立させ、「日本プロレタリア作家同盟」(ナルプ)、「日本プロレタリア劇場同盟」(プロット)、「日本プロレタリア映画同盟」(プロキノ)、「日本プロレタリア美術家同盟」(ヤップ)、日本プロレタリア音楽家同盟(PM)などの諸組織の協議体となり、「全日本無産者芸術団体協議会」と改称したものの、略称ナップはそのまま使用しました。さらに、芸術運動機関誌として新たに『ナップ』 (1930年9月~1931年11月) を創刊します。その後、いっそう弾圧が厳しくなる中で、1931年(昭和6)にプロレタリア文化団体の総結集をねらいとして、発展的に解消し、運動は「日本プロレタリア文化連盟」(略称:コップ)に引継がれました。

〇「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」製作の主要な映画

・『山本宣治告別式』(1929年)
・『山宣渡政労農葬』(1929年)
・『こども』(1930年)
・『墨田川』(1930年)
・『第11回東京メーデー』(1930年)
・『第12回東京メーデー』総指揮:岩崎昶(1931年)
・『土地』監督:高周吉(1931年)
・アニメーション『三匹の小熊さん』監督:岩崎昶(1931年)
・アニメーション『奴隷戦争』脚本:北川鉄夫(1931年)
・『スポーツ』(1932年)
・『全線』脚本・演出:古川良(1932年)
・『労農団結餅』(1932年)

〇「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」の大会と綱領・スローガン

<創立大会>(1929年2月2日)
【綱領】
一. プロレタリア映画生産発展のために闘う。
一. 一切の反動的映画の批判克服のために闘う。
一. 映画に加わる政治的抑圧撤廃のために闘う。

<第2回大会>(1930年4月5日)
【スローガン】
(一) プロレタリア映画を工場農村へ!
(二) プロキノの組織の拡大強化!
(三) プロレタリア映画の日常的製作と上映組織の確立!
(四) プロレタリア映画上映の徹底的自由の獲得!

<第3回大会>(1931年4月23日)
【スローガン】
(一) プロレタリア映画運動の基礎を工場・農村へ!
(二) 映画の共産主義的大衆化へ!
(三) 映画・写真の配給網、上映網の確立と組織化!
(四) プロレタリアートのカムパニアへの映画・写真による積極的参加!
【行動綱領】
(一) 労働者農民開放の為の映画運動の遂行
(二) プロレタリア映画運動の国際的な提携
(三) プロレタリア映画の生産発表の自由獲得
(四) ブルジョア映画の批判克服
(五) プロレタリア映画の確立

☆「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」関係略年表

・1927年(昭和2)5月1日 トランク劇場映画班、佐々元十がパテ・ベビーで『1927年メーデー』を単独撮影する
・1927年(昭和2)6月 「日本プロレタリア映画連盟」が結成される
・1928年(昭和3)3月 プロレタリア劇場映画班が『野田争議実況』を撮影する
・1928年(昭和3)3月25日 「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」が結成され、映画部が誕生する
・1928年(昭和3)4月 プロレタリア劇場と前衛劇場が統一され、東京左翼劇場が設立されたのに伴い、プロレタリア劇場映画班は左翼劇場映画部となる
・1928年(昭和3)6月 「戦旗」誌上の佐々元十論文「玩具・武器─撮影機」にて「プロレタリアート解放のための映画の組織的生産」を提案する
・1928年(昭和3)12月 「全日本無産者芸術連盟(ナップ)」は「全日本無産者芸術団体協議会」と改組され、専門部が独立することとなる
・1929年(昭和4)2月2日 佐々元十、岩崎昶、北川鉄夫らで「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」が結成される(プロキノ創立大会)
・1929年(昭和4)3月8日 労働農民党の山本宣治代議士が殺害の告別式で、『山本宣治告別式』、『山宣渡政労農葬』を撮影する
・1929年(昭和4)9月 映画雑誌「新興映画」(新興映画社)を発刊する(翌年6月まで)
・1930年(昭和5)4月5日 東京で「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第2回大会が開催される
・1930年(昭和5)5月1日 『第11回東京メーデー』を撮影する
・1930年(昭和5)5月31日 「第一回プロレタリア映画の夕」(於:読売講堂)を開催、日本プロレタリア音楽同盟の合唱隊が出演する
・1930年(昭和5)6月13日 「第二回プロレタリア映画の夕」(於:読売講堂)を開催する
・1930年(昭和5)7月 新興映画社編『プロレタリア映画運動の展望』を刊行する
・1930年(昭和5)8月 「プロレタリア映画」を発刊する(1931年まで)
・1930年(昭和5) 新興映画社編『世界プロレタリア映画物語集 第1輯』を刊行する
・1931年(昭和6)4月23日 「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第3回大会が開催される
・1931年(昭和6)5月1日 『第12回東京メーデー』を撮影する
・1931年(昭和6) 富山県の大沢野村小作争議を記録した『土地』(監督:高周吉)を撮影する
・1931年(昭和6) アニメーション『三匹の小熊さん』(婦人之友社、作画:村山知義)を監督岩崎昶、撮影並木晋作で製作する
・1931年(昭和6) 北川鉄夫脚本のアニメーション『奴隷戦争』を製作する
・1931年(昭和6)10月 大衆的機関紙「映画クラブ」を発刊する
・1931年(昭和6)12月7日 日本プロレタリア映画同盟編『プロレタリア映画のために』を京都共生閣より刊行する 
・1932年(昭和7) 「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第4回大会を開催するも、即時解散させられる
・1932年(昭和7) 大学におけるスポーツ教育の不備、一般学生への運動設備開放を訴えた『スポーツ』を撮影する
・1932年(昭和7) 東京市電争議を記録した『全線』(脚本・演出:古川良)を撮影する
・1932年(昭和7) 上野耕三が労働者と農民が一致団結する生活共同組合を描いた『労農団結餅』を製作する
・1932年(昭和7) 音画芸術研究所がプロキノ京都支部にいた松崎啓次、木村荘十二によって設立される
・1932年(昭和7) 官憲による弾圧が強まり、プロキノメンバーの検挙が増加。映画制作が困難となる
・1933年(昭和8) 「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第5回大会の開催が中止される
・1933年(昭和8)6月1日 プロキノの篠勝三と能登節雄が製作を応援した木村荘十二監督「河向ふの青春」が公開される
・1934年(昭和9) 「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」第6回大会が非合法で開催されるが、指導部の検挙により組織的活動が不可能となる
・1934年(昭和9)4月12日 「日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)」が解散させられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

749年(天平21)社会事業に尽力した法相宗の僧行基の命日詳細
1942年(昭和17)大日本国防婦人会・愛国婦人会・大日本聯合婦人会を統合し、大日本婦人会が発足詳細