今日は、江戸時代中期の1713年(正徳3)に、狩野派の画家狩野常信の亡くなった日ですが、新暦では2月21日となります。
狩野常信(かのう つねのぶ)は、江戸時代前期の1636年(寛永13年3月13日)に、京都において、木挽町狩野家の祖となった狩野尚信の長男として生まれましたが、幼名は三位(通称は右近)と言いました。父・尚信に画法を学び、1650年(慶安3)に父の尚信が没した後、15歳で木挽町(こびきちょう)狩野家を継ぎ、同年に剃髪、養朴と号し、江戸幕府第3代将軍徳川家光にお目見えします。
叔父・狩野探幽の薫陶を受け、1674年(延宝2)に探幽が没すると、江戸狩野派の総帥となりました。幕府の奥絵師として、1682年(天和2)に20人扶持を拝領し、朝鮮通信使に贈る屏風二双の制作、訳官・洪世泰の肖像画を描いたりします。
1704年(宝永元)に孔子廟に七十二賢像を描いた功で法眼となり、宝永年間には狩野派の最高指導者として紫宸殿の『賢聖障子』を描きました。内裏造営と江戸城修理の功績を賞され、1709年(宝永6)に法印となり、翌年には200石を加増され、1711年(正徳元)の朝鮮通信使来日の際には、前より増えた屏風三双を手掛けます。
研究心に富み、古画の模写にも努め美術史的にも貴重な『常信縮図』60巻(東京国立博物館蔵)を残しました。探幽以来の狩野派の様式を集大成し、画界における世襲的地位を確固たるものとし、また中院通茂に和歌を学び能くしましたが、1713年(正徳3年1月27日)に、江戸において、数え年78歳で亡くなっています。
尚、弟子として新井寒竹常償(津軽藩御用絵師)、長谷川養辰常時、大石古閑常得、永井慶竺常喜(薩摩藩御用絵師)などを育て、後世には元信・永徳・探幽と共に狩野派の四大家の一人と称されるようになりました。
〇狩野常信の主要な作品
・『日蓮聖人像』 (1654年)香川県三豊市・本門寺蔵 香川県有形文化財
・『鳳凰図屏風』東京芸術大学大学美術館蔵
・『瀟湘八景図』陽明文庫蔵
・『西王母東方朔図屏風』
・襖絵『山水図』大徳寺玉林院蔵
・『常信縮図』
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