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 今日は、江戸時代中期の1701年(元禄14)に、真言宗僧・国学者・歌人契沖の亡くなった日ですが、新暦では3月4日となります。
 契沖(けいちゅう)は、江戸時代前期の1640年(寛永17)に、摂津国川辺郡尼崎(現在の兵庫県尼崎市)で、尼崎青山氏に仕えた下川(しもがわ)家の、父・元全(もとさだ)の第3子(母は間氏の出)として生まれました。11歳で出家し、大坂今里妙法寺の定(かいじょう)の弟子となり、13歳で高野山に上り東室院快賢(とうしついんかいけん)について修業します。
 23歳で大坂の曼陀羅院の住職となり、24歳で阿闍梨位を得、その間に下河辺長流の知遇を得て学問的な示唆を受け、古典に親しみ始めました。27歳の頃、諸国修行の旅に出て、大和室生、高野を経て、30歳頃より和泉の名家伏屋家などに寄食、この間和漢の典籍を読破したとされます。
 1677年(延宝5)に延命寺・覚彦に安流灌頂を受け、1679年(延宝7)には大坂に戻り、再び妙法寺の住持となりました。1690年(元禄3)51歳の頃、妙法寺を弟子の如海に譲り、自分は大阪高津の円珠庵に退き、古典研究等に没頭、多くの著述を成します。
 その過程で、徳川光圀の知遇を得、水戸家の嘱をうけて万葉集の注釈をし、『万葉代匠記』を書きあげ、続いて、古代歌謡の注釈書『厚顔抄』(1691年成立)、古今和歌集の注釈書『古今余材抄』(1692年成立)、伊勢物語の注釈書『勢語臆断』などを著しました。その他、『和字正濫鈔』などで歴史的仮名遣いの基礎を確立し、『勝地吐懐編』など歌枕研究も行い、また新古今調で写実的な和歌を詠み、『契沖和歌延宝集』、『漫吟集』等を出し、随筆『円珠庵雑記』なども残します。
 国学発展の基礎を築き、後世に大きな影響を与えることとなりますが、1701年(元禄14年1月25日)に、大坂の円珠庵において、数え年62歳で亡くなりました。

<代表的な和歌>

・「和歌の浦に 至らぬ迄も きの國や 心なくさの やまと言の葉」
・「はつせのや 里のうなゐに 宿とへば 霞める梅の 立枝をぞさす」(漫吟集類題)
・「ふじのねは 山の君にて 高御座 空にかけたる 雪のきぬがさ」(漫吟集類題)
・「出でてこし わが故里を 人とはば いづれの雲を さしてこたへん」(漫吟集類題)

〇契沖の主要な著作

・注釈書『万葉代匠記』(1690年)
・注釈書『厚顔抄』(1691年成立)
・注釈書『古今余材抄』(1692年成立)
・注釈書『新勅撰評註』
・注釈書『勢語臆断』
・注釈書『源註拾遺』(1696年成立)
・注釈書『百人一首改観抄』
・国語学書『和字正濫鈔』(1693年成立、1695年刊)
・国語学書『和字正濫通妨抄』(1697年成立)
・歌枕研究書『勝地吐懐編(しょうちとかいへん)』
・歌集『漫吟集(まんぎんしゅう)』
・歌集『契沖和歌延宝集(えんぽうしゅう)』
・随筆『河社(かわやしろ)』
・随筆『契沖雑考』
・随筆『円珠庵雑記』

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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