今日は、平安時代中期の1045年(寛徳2)に、第69代の天皇とされる後朱雀天皇が亡くなった日ですが、新暦では2月7日となります。
後朱雀天皇(ごすざくてんのう)は、1009年(寛弘6年11月25日)に京都において、一条天皇の第三皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれましたが、名は敦良(あつなが)と言いました。1011年(寛弘8)に父・一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位しましたが、1016年(長和5)に三条天皇が亡くなり、兄の敦成親王(後一条天皇)が即位します。
1017年(寛仁元年)に敦明親王が皇太子を辞退したため、その後を受けて9歳で皇太子(皇太弟)となりました。1021年(寛仁5年)に藤原道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内、1025年(万寿2)に第一皇子:親仁親王(のちの後冷泉天皇)が生まれましたが、2日後に嬉子は産後の肥立ちが悪く急逝します。
1027年(万寿4年)に藤原道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内、1034年(長元7)に第二皇子:尊仁親王(のちの後三条天皇)が誕生しました。1036年(長元9年4月17日)に、兄の後一条天皇が没し、第69代とされる天皇として即位、1037年(長暦元)には関白頼通の養女嫄子(一条皇子敦康親王の女)を皇后とします。
1040年(長久元)に「荘園整理令」を発議しましたが、結果的には権門擁護策に終わりました。1045年(寛徳2)に病気により、親仁親王(後冷泉天皇)に譲位し、太上天皇となったものの、2日後の1月18日に京都において出家後、数え年37歳で亡くなり、陵墓は京都円乗寺陵とされています。
尚、詩歌を良くし、『新撰朗詠集』に漢詩句を残し、和歌は後の勅撰衆に9首入集し、日記『後朱雀院御記』も逸文のみが伝わってきました。
<代表的な歌>
・「春雨の ふりしくころは 青柳の いとみだれつつ 人ぞ恋しき」(新古今和歌集)
・「ほのかにも しらせてしがな 春霞 かすみのうちに おもふ心を」(後拾遺和歌集)
・「あやめ草 かけし袂の ねをたえて さらにこひぢに まどふ頃かな」 (後拾遺和歌集)
・「こぞのけふ 別れし星も 逢ひぬめり などたぐひなき わが身なるらん」(後拾遺和歌集)
☆後朱雀天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1009年(寛弘6年11月25日) 京都で、一条天皇の第三皇子(母は藤原道長女中宮彰子)として生まれる
・1011年(寛弘8年6月22日) 父・一条天皇が亡くなり、三条天皇が即位する
・1016年(長和5年1月29日) 三条天皇が亡くなり、兄の敦成親王(後一条天皇)が即位する
・1017年(寛仁元年) 敦明親王が皇太子を辞退したため、その後を受けて9歳で皇太子(皇太弟)となる
・1021年(寛仁5年) 藤原道長の六女で叔母にあたる嬉子が東宮妃として入内する
・1025年(万寿2年8月3日) 嬉子との間で、第一皇子:親仁親王(のちの後冷泉天皇)が生まれる
・1025年(万寿2年8月5日) 嬉子は産後の肥立ちが悪く急逝する
・1027年(万寿4年) 藤原道長の外孫で従姉妹の禎子内親王が入内する
・1027年(万寿4年12月) 藤原道長が没する
・1030年(長元2年) 禎子との間で、第一皇女:良子内親王が生まれる
・1032年(長元5年) 禎子との間で、第二皇女:娟子内親王が生まれる
・1034年(長元7年7月18日) 禎子との間で、第二皇子:尊仁親王(のちの後三条天皇)が誕生する
・1036年(長元9年4月17日) 兄の後一条天皇が没し、第69代とされる天皇として即位する
・1037年(長暦元年1月) 興福寺僧徒が東大寺東南院を破壊する
・1037年(長暦元年2月) 三条皇女禎子内親王(母は道長の女妍子)を皇后とする
・1037年(長暦元年3月) 関白頼通の養女嫄子(一条皇子敦康親王の女)を皇后とする
・1038年(長暦2年) 嫄子との間で、第三皇女:祐子内親王が生まれる
・1039年(長暦3年) 嫄子との間で、第四皇女:禖子内親王が生まれる
・1040年(長久元年6月) 「荘園整理令」を発議するが、結果的には権門擁護策に終わる
・1040年(長久元年11月) 京中で放火が頻発する
・1045年(寛徳2年1月16日) 病気により、親仁親王(後冷泉天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1045年(寛徳2年1月18日) 京都において出家後、数え年37歳で亡くなる
・1045年(寛徳2年4月20日) 藤原延子との間で、第五皇女:正子内親王が生まれる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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