今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、思想家・作家・ジャーナリスト・社会運動家大杉栄の生まれた日です。
大杉栄(おおすぎ さかえ)は、愛媛県那珂郡丸亀(現在の香川県丸亀市)において、代々庄屋の家系で軍人だった父・大杉東、母・とよの次男として生まれました。少年時代を新潟県新発田市で過ごしたのち、1899年(明治32)に名古屋陸軍地方幼年学校フランス語科に入学しましたが、上官に反抗して在学2年で退学処分となります。
1902年(明治35)に上京して順天中学校に入学し、翌年には東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科に進みました。在学中から足尾鉱毒事件の被害民救援運動に触れ、幸徳秋水、堺利彦らの非戦論に共鳴、「社会主義研究会」に出席、平民社に出入りし、社会運動に参加するようになります。
1905年(明治38)に東京外国語学校仏語学科選科を修了し、翌年にかけて東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開きました。1906年(明治39)に電車値上反対の市民大会に参加し、電車焼き討ち事件に関与したとして、兇徒聚集罪により初めて逮捕されましたが、3ヶ月で保釈されます。
その後も『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴、翌年のクロポトキンの翻訳「青年に訴ふ」が「新聞紙条例」違反となり起訴され収監、1908年(明治41)のいわゆる屋上演説事件で「治安警察法」違反となり逮捕、山口義三(孤剣)の出獄歓迎の集会に端を発した赤旗事件で入獄と、様々な弾圧が繰り返されました。その間に、大逆事件が起きましたが入獄中だったので免れ、1912年(大正元)に荒畑寒村と共に『近代思想』を発刊、1914年(大正3)には『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き運動を広げようとします。
しかし、『平民新聞』や『近代思想』は連続して発禁となり、1917年(大正6)末には伊藤野枝と『文明批評』を創刊、1919年(大正8)には「東京労働同盟会」から機関紙『労働運動』を創刊しました。徐々にアナキズム色を鮮明にしていき、1923年(大正12)のベルリンの無政府主義者大会に出席のために密出国し、フランスパリ近郊のメーデーに参加して検挙、強制送還されます。
同年9月1日に起きた関東大震災の混乱の中で、同月16日に柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の橘宗一と共に憲兵に連行され、憲兵大尉甘粕正彦らに殺害されました。
〇大杉栄の主要な著作
・『獄中記』(1919年)
・『正義を求める心』(1921年)
・翻訳『昆虫記』第1巻ファーブル作(1922年)
・『自叙傳』(1923年)
・『日本脱出記』(1923年)
・翻訳『相互扶助論 進化の一要素』クロポトキン作(1924年)
・『自由の先駆』
・翻訳『一革命家の思出』クロポトキン作
・翻訳『相互扶助論』クロポトキン作
・翻訳『種の起源』ダーウィン作
☆大杉栄関係略年表
・1885年(明治18)1月17日 愛媛県那珂郡丸亀(現在の香川県丸亀市)において、代々庄屋の家系で軍人だった父・大杉東、母・とよの次男として生まれる
・1899年(明治32) 名古屋陸軍地方幼年学校フランス語科に入学する
・1901年(明治34) 在学二年で退学処分となる
・1902年(明治35) 上京して順天中学校に入学する
・1903年(明治36) 東京外国語学校(現東京外国語大学)仏文科に入学する
・1904年(明治37)3月 「社会主義研究会」に出席する
・1905年(明治38)3月 週刊『平民新聞』の後継紙である『直言』に堺利彦が書いた紹介記事によりエスペラントを知る
・1905年(明治38)7月 東京外国語学校仏語学科選科を修了する
・1906年(明治39) 東京市本郷にある習性小学校にエスペラント学校を開く
・1906年(明治39)3月 電車値上反対の市民大会に参加し、電車焼き討ち事件に関与したとして、兇徒聚集罪により初めて逮捕される
・1906年(明治39)6月 保釈される
・1906年(明治39)11月 『光』紙掲載の「新兵諸君に与ふ」で新聞紙条例違反で起訴される
・1907年(明治40)2月 日刊『平民新聞』に「欧洲社会党運動の大勢」を発表する
・1907年(明治40)3月 クロポトキンの翻訳「青年に訴ふ」が「新聞紙条例」違反となり起訴され収監される
・1908年(明治41)1月17日 いわゆる屋上演説事件で治安警察法違反となり逮捕される
・1908年(明治41)4月 中国人留学生の劉師培の家で留学生にエスペラントを教える
・1908年(明治41)6月22日 錦輝館に於ける山口孤剣の出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘(赤旗事件)でまたもや逮捕される
・1909年(明治42) 日本社会主義同盟の創設に参加する
・1912年(大正元)10月 荒畑寒村と共に『近代思想』を発刊する
・1914年(大正3)10月 『平民新聞』を発刊し、定例の研究会を開き運動を広げようとする
・1916年(大正5) 復活させた『近代思想』も廃刊となる
・1916年(大正5)11月 以前からの恋愛相手であった神近市子からに刺されるという日陰茶屋事件が起き、重症を負う
・1917年(大正6)9月 長女魔子が誕生する
・1917年(大正6)末 野枝と『文明批評』を創刊する
・1918年(大正7)2月 同志たちとの関係修復を図り、研究会も再び定期的に開き、サンディカリズムの立場で労働運動への影響を強める
・1918年(大正7)8月 は九州、関西を周り、大阪では米騒動の騒乱を目の当たりにする
・1919年(大正8)1月 近藤憲二らが主催し、毎回労働者も参集していた北風会と研究会を合同する
・1919年(大正8)6月~8月 「労働運動の精神」をテーマに講演を続ける
・1919年(大正8)10月 「東京労働同盟会」と改称し機関紙『労働運動』創刊号を発行する
・1920年(大正9)10月 密かに日本を脱出して、中華民国の上海で開かれた社会主義者の集まりに参加する
・1920年(大正9)12月9日 社会主義者同盟結成に向けて鎌倉の大杉宅に地方からの出席者を中心に40名余り集まる
・1921年(大正10)1月 『労働運動』(第二次)を刊行する
・1921年(大正10)2月 腸チフスを悪化させ入院する
・1921年(大正10)6月 『労働運動』紙は13号で廃刊となる
・1921年(大正10)12月 アナキストだけで『労働運動』(第三次)を復刊させる
・1922年(大正11)2月 八幡市(現・北九州市)での八幡製鉄所罷工二周年記念演説会に参加する
・1922年(大正11)8月 富川町で「自由労働者同盟」を結成、新潟、中津川での朝鮮人労働者虐殺の実態調査に赴く
・1922年(大正11)10月 ギロチン社を古田大次郎らと結成する
・1922年(大正11)12月 ドイツのベルリンで開かれる予定の国際アナキスト大会に参加のため再び日本を脱出する
・1923年(大正12)1月5日 上海からフランス船籍の船に乗車し、中華民国経由で中国人に偽装してフランスに向かう
・1923年(大正12)2月13日 マルセイユ着、大会がたびたび延期されフランスから国境を越えるのも困難になる中、大杉はパリ近郊のサン・ドニのメーデーで演説を行い、警察に逮捕されラ・サンテ監獄に送られる
・1923年(大正12)7月11日 裁判後に強制退去となり、神戸に戻る
・1923年(大正12)8月末 アナキストの連合を意図して集まりを開く
・1923年(大正12)9月16日 柏木の自宅近くから伊藤野枝、甥の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1874年(明治7) | 民撰議院設立建白書が出される | 詳細 | |||||
1995年(平成7) | 兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が起き、死者・行方不明者 6,437人を出す | 詳細 | |||||