今日は、平成時代の1998年(平成10)に、日本人初のノーベル化学賞を受賞した化学者福井謙一の亡くなった日です。
福井謙一(ふくい けんいち)は、大正時代の1918年(大正7)10月4日に、奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれました。旧制今宮中学校、旧制大阪高等学校を経て、1938年(昭和13)に京都帝国大学工学部工業化学科に入学します。
1941年(昭和16)に卒業後、大学院へ入学すると共に、短期将校として燃料研究所へ入所して軍務につき、航空添加燃料イソオクタンの製造研究に従事しました。1943年(昭和18)に、京都帝国大学工学部燃料化学科講師となり、太平洋戦争後の1945年(昭和20)に助教授となります。
1948年(昭和23)に「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」によって工学博士となり、1951年(昭和26)には教授となりました。翌年に有機化学反応に関与する電子のふるまいを解明した「フロンティア電子理論」を発表して注目を集め、1954年(昭和29)に第2報が発表されます。
1962年(昭和37)に「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞、1964年(昭和39)に「HOMO-LUMO相互作用の理論」、1970年(昭和45)に化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表しました。1970年(昭和45)に京都大学評議員、1971年(昭和46)には工学部長となり、1981年(昭和56)には米国科学アカデミー外国人客員会員にも選ばれます。
1981年(昭和56)に文化功労者となり、文化勲章も受章、同年12月には、「フロンティア電子理論」により、日本人初のノーベル化学賞(ノーベル賞としては日本人6人目)をロアルド・ホフマン博士と共同受賞しました。1982年(昭和57)に京都大学退官後、名誉教授となると共に、京都工芸繊維大学学長となります。
1990年(平成2)に学術審議会会長、1995年(平成7)には日本学術振興会会長ともなりましたが、1998年(平成10)1月9日に京都において、満79歳で亡くなりました。
〇福井謙一の主要な著作
・『量子化学』(1968年)朝倉書店
・『化学反応と電子の軌道』(1976年)丸善
・『学問の創造』(1984年)佼成出版社
・『教育への直言』(1985年)パンリサーチインスティテュート
・『21世紀日本の選択』(1994年)ダイヤモンド社
・『哲学の創造』梅原猛との共著(1996年)PHP研究所
・『複雑系の経済学』(1997年)ダイヤモンド社
☆福井謙一の関係略年表
・1918年(大正7)10月4日 奈良県生駒郡平城村(現在の奈良市)で、工場経営・外国貿易を営む父・福井亮吉の長男として生まれる
・1930年(昭和5)3月 大阪市玉出第二尋常小学校を卒業する
・1935年(昭和10)3月 旧制今宮中学校を卒業する
・1938年(昭和13)3月 旧制大阪高等学校を卒業する
・1941年(昭和16)3月 京都帝国大学工学部工業化学科卒業、同大学院入学。同時に短期将校として燃料研究所へ入所する
・1943年(昭和18)8月 京都帝国大学工学部燃料化学科講師(1966年 石油化学科に改組)となる
・1943年(昭和18)12月 正七位となる
・1945年(昭和20)9月 京都帝国大学工学部燃料化学科助教授となる
・1948年(昭和23)6月 工学博士(「化学工業装置の温度分布に関する理論的研究」)となる
・1951年(昭和26)4月 京都大学工学部燃料化学科教授(高温化学講座)となる
・1952年(昭和27) フロンティア軌道理論 (frontier orbital theory) を発表
・1954年(昭和29) フロンティア軌道理論の第2報を発表する
・1962年(昭和37)5月 「共役化合物の電子状態と化学反応に関する研究」で日本学士院賞を受賞する
・1964年(昭和39) HOMO-LUMO相互作用の理論を発表する
・1966年(昭和41) 高圧化学講座が炭化水素物理化学講座に改称される
・1970年(昭和45) 化学反応の経路解析に関する「反応の理論」を発表する
・1970年(昭和45)11月 京都大学評議員となる
・1971年(昭和46)4月 京都大学評議員を辞める
・1971年(昭和46)4月 京都大学工学部長となる
・1973年(昭和48)3月 京都大学工学部長を退任する
・1981年(昭和56) 米国科学アカデミー外国人客員会員に選ばれる
・1981年(昭和56)11月 文化功労者となり、文化勲章も受章する
・1981年(昭和56)12月 ノーベル化学賞を受賞する
・1982年(昭和57)4月 京都大学退官 京都大学名誉教授となる
・1982年(昭和57)6月 京都工芸繊維大学学長となる
・1988年(昭和63)5月 京都工芸繊維大学学長を退任する
・1988年(昭和63)6月 京都工芸繊維大学名誉教授、財団法人基礎化学研究所所長となる
・1988年(昭和63)11月 勲一等旭日大綬章を受章する
・1989年(平成元)6月 ロンドン王立協会外国人会員となる
・1990年(平成2)2月 学術審議会会長となる
・1995年(平成7)9月 日本学術振興会会長となる
・1998年(平成10)1月9日 京都において、満79歳で亡くなる
・1998年(平成10)1月 従二位が贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1891年(明治24) | 第一高等中学校講師の内村鑑三が教育勅語への拝礼を拒否したため免職となる | 詳細 | |||||
1918年(大正7) | 日本最悪の雪崩災害である三俣の大雪崩が起きる | 詳細 |