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 今日は、安土桃山時代の1593年(文禄2)に、第106代の天皇とされる正親町天皇の亡くなった日ですが、新暦では2月6日となります。
 正親町天皇(おおぎまちてんのう)は、1517年(永正14年5月29日)に、京都において、後奈良天皇の第一皇子(母は万里小路賢房の女栄子)として生まれましたが、名は方仁(みちひと)と言いました。1533年(天文2)に親王宣下および元服の儀を挙げ、1557年(弘治3)には、後奈良天皇が亡くなって践祚します。
 しかし、即位礼も財源難ですぐには実行できず、1559年(永禄2)に安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用として銭2000貫の献納を受け、翌年やっと即位礼を実施しました。1567年(永禄10)に織田信長に今後の軍事行動を鼓舞する綸旨を出し、それに応じて翌年信長は、天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧します。
 その援助によって、宮城の修補、供御田の回収、諸節会の復興などが行なわれました。それに報いる形で、1570年(元亀元)の信長と朝倉義景・浅井長政との戦い、1573年(天正元年)の信長と足利義昭との戦いの和睦の勅命を出し、翌年には、信長に蘭奢待の切り取りを許可しています。
 さらに、1577年(天正5)に信長に右大臣を宣下し、1580年(天正8)には信長と石山本願寺との戦いにおける和睦の勅命を出しました。1582年(天正10)の本能寺の変で信長が没すると後継の豊臣秀吉の援助によっても、応仁の乱以来紊乱した皇室の式典の整備や御料の献上などが行なわれ、1585年(天正13)には秀吉を関白に任じています。
 1586年(天正14)に孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して太上天皇となり、仙洞御所に隠退したものの、1593年(文禄2年1月5日)に京都において、数え年77歳で亡くなり、陵墓は京都深草北陵とされました。尚、三条西公条・実枝に和歌・古典の指導を受け、和歌御会等の開催にも積極的だったとされています。

〇正親町天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1517年(永正14年5月29日) 京都において、後奈良天皇の第一皇子(母は万里小路賢房の女栄子)として生まれる
・1533年(天文2年12月) 親王宣下され、元服する
・1552年(天文21年4月23日) 第一皇子誠仁親王(陽光院)が生まれる
・1557年(弘治3年10月) 後奈良天皇の崩御に伴って践祚する
・1559年(永禄2年2月) 安芸吉田城主毛利元就に献金を依頼する
・1559年(永禄2年4月) 安芸国の戦国大名・毛利元就から即位料・御服費用として銭2000貫の献納を受ける
・1559年(永禄2年5月) 上杉謙信が上洛して拝謁する
・1560年(永禄3年1月27日) 即位礼を挙げる
・1565年(永禄8年) キリスト教宣教師の京都追放を命じる
・1567年(永禄10年11月) 織田信長に今後の軍事行動を鼓舞する綸旨を出す
・1568年(永禄11年) 織田信長は、正親町天皇を保護するという大義名分により、京都を制圧する
・1570年(元亀元年) 織田信長と朝倉義景・浅井長政との戦いの和睦の勅命を出す
・1573年(天正元年) 織田信長と足利義昭との戦いの和睦の勅命を出す
・1574年(天正2年) 織田信長に蘭奢待の切り取りを許可する
・1576年(天正4年) 興福寺別当の人事を巡り織田信長と対立し、伝奏蟄居という処分者を出す
・1577年(天正5年) 織田信長に右大臣を宣下する
・1580年(天正8年3月) 織田信長と石山本願寺との戦いにおける和睦の勅命を出す
・1582年(天正10年) 武田征討後、織田信長の要請を認めて将軍任官を勅許したが実現しなかった
・1585年(天正13年) 豊臣秀吉を関白に任じる
・1586年(天正14年7月24日) 第一皇子誠仁親王(陽光院)が亡くなる
・1586年(天正14年11月7日) 孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位して太上天皇となり、仙洞御所に隠退する
・1593年(文禄2年1月5日) 京都において、数え年77歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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