今日は、平安時代中期の976年(天延4)に、第67代の天皇とされる三条天皇の生まれた日ですが、新暦では2月5日となります。
三条天皇(さんじょうてんのう)は、京都において、冷泉天皇の第二皇子(母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子)として生まれましたが、名は居貞(おきさだ)と言いました。983年(永観元)に七歳で母を失いましたが、986年(寛和2)に花山天皇が出家し懐仁親王(一条天皇)に譲位時に、元服して皇太子に立てられます。
990年(永祚2)に外祖父藤原兼家が亡くなり、翌年に藤原済時の娘娍子を妃とし、994年(正暦5)には敦明親王が誕生しました。1011年(寛弘8)に危篤状態の一条天皇は崩御数日前に譲位し、36歳にして第67代とされる天皇として即位します。
翌年に藤原道長の次女妍子が入内して中宮となり、1013年(長和2)に妍子が禎子内親王を出産しました。1014年(長和3年)に眼病を患い、内裏から出火し、翌年にも内裏が焼亡するという災難が続きます。
藤原道長としばしば対立し、眼病を理由に譲位を迫られ、とうとう第1皇子敦明親王を皇太子にすることを条件に、在位4年半の1016年 (長和5年1月) に、一条天皇皇子で道長女彰子の生んだ敦成親王(後一条天皇)に譲位し、太上天皇となりました。1017年(寛仁元)に出家しましたが、同年5月9日に、京都において数え年42歳で亡くなりっています。
尚、陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町の北山陵とされました。また、歌も良くし、勅撰集に八首入集して、「心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」は『小倉百人一首』にも採られています。
<代表的な歌>
・「あしびきの 山のあなたに 住む人は 待たでや秋の 月を見るらむ」(新古今和歌集)
・「月かげの 山の端分けて 隠れなば そむくうき世を 我やながめむ」(新古今和歌集)
・「秋にまた 逢はむ逢はじも 知らぬ身は 今宵ばかりの 月をだに見む」(詞花和歌集)
〇三条天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・976年(天延4年1月3日) 京都において、冷泉天皇の第二皇子(母は摂政太政大臣藤原兼家の長女・贈皇太后超子)として生まれる
・983年(永観元) 七歳で母を失う
・986年(寛和2年6月23日) 花山天皇が出家し懐仁親王(一条天皇)譲位時に、元服して皇太子に立てられる
・986年(寛和2年7月16日) 11歳で外祖父藤原兼家の後押しで東宮となる
・990年(永祚2年7月2日) 外祖父藤原兼家が亡くなる
・991年(正暦2年) 藤原済時の娘娍子を妃とする
・994年(正暦5年) 敦明親王が誕生する
・1011年(寛弘8年6月13日) 危篤状態の一条天皇は崩御数日前に譲位し、36歳で第67代とされる天皇として即位する
・1012年(長和元年2月) 藤原道長の次女妍子が入内して中宮となる
・1013年(長和2年) 妍子が禎子内親王を出産する
・1014年(長和3年) 眼病を患う
・1014年(長和3年) 内裏が焼亡する
・1015年(長和4年11月) 内裏が焼亡する
・1016年(長和5年1月) 藤原道長が摂政となる
・1016年(長和5年1月29日) 道長の勧めに従い第二皇子の後一条天皇に譲位し、太上天皇となる
・1017年(寛仁元年4月) 出家する
・1017年(寛仁元年5月9日) 京都において数え年42歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
985年(永観3) | 天台宗の僧・比叡山中興の祖良源の命日(新暦1月26日) | 詳細 | |||||
1868年(慶応4) | 戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まる(新暦1月27日) | 詳細 |