今日は、平安時代中期の1041年(長久2)に、公卿・歌人藤原公任の亡くなった日ですが、新暦では2月4日となります。
藤原公任(ふじわら の きんとう)は、966年(康保3)に関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれました。980年(天元3)に清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙され、翌年に従四位下、982年(天元5)に従四位上、983年(天元6)に讃岐守を兼ね、985年(寛和元)には正四位下に昇叙します。
漢詩・和歌・管弦に優れ、986年(寛和2)には、円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟(漢詩・和歌・管弦の3艘の舟)に併せ乗る名誉を得ました。989年(永延3)に蔵人頭となり、992年(正暦3)には、27歳で参議となって公卿に列します。
藤原道長と親しくなり、道長主催の歌合や遊興にはよく出席し和歌を披露し、999年(長保元)秋の嵯峨遊覧では大覚寺の滝がなくなったのを惜しみ、「滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞えけれ」と詠じたことは有名で、後に「小倉百人一首」にも採られました。1001年(長保3)に中納言兼左衛門督となり、正三位に昇叙、1005年(寛弘2)に従二位、1009年(寛弘6)には44歳で権大納言、1012年(寛弘9)には正二位に昇叙されます。
有職故実に通じて『北山抄』を著し、『新撰髄脳』、『和歌九品』などの歌学書を書き、秀歌選として『金玉集』、『深窓秘抄』を撰び、『和漢朗詠集』の撰者となり、名筆家としても知られました。しかし、1024年(万寿元)に権大納言を辞し、1026年(万寿3)には洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たします。
多才博識で知られ、道長全盛時の歌壇を代表する指導者の位置を占めていましたが、1041年(長久2)1月1日に、数え年76歳で亡くなりました。尚、勅撰集には『拾遺集』以下に91首入集しています。
<藤原公任の代表的な歌>
・「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」(小倉百人一首)
・「小倉山嵐の風の寒ければもみぢの錦きぬ人ぞなき」(大鏡)
・「春きてぞ人もとひける山里は花こそ宿のあるじなりけれ」(拾遺集)
・「うき世をば峰の霞やへだつらむなほ山里は住みよかりけり」(千載集)
〇藤原公任の主要な著作
・故実書『北山(ほくざん)抄』
・私選集『拾遺抄』
・歌学書『新撰髄脳(しんせんずいのう)』
・歌学書『和歌九品(くほん)』
・秀歌選『三十六人撰』
・秀歌選『金玉集』
・秀歌選『深窓秘抄』
・私撰集『和漢朗詠(ろうえい)集』
・私撰集『如意宝集』
・家集『公任集』
☆藤原公任関係略年表(日付は旧暦です)
・966年(康保3) 関白頼忠の長男(母は醍醐天皇皇子代明親王の娘厳子)として生まれる
・980年(天元3年2月25日) 清涼殿にて円融天皇出御の元で元服し、正五位下に叙される
・980年(天元3年3月3日) 禁色となる
・980年(天元3年7月1日) 侍従となる
・981年(天元4年1月7日) 従四位下に昇叙される
・982年(天元5年5月8日) 従四位上に昇叙される
・983年(天元6年1月26日) 兼讃岐守となる
・983年(天元6年12月13日) 左近衛権中将、讃岐守如元
・984年(永観2年2月1日) 兼尾張権守となる
・985年(寛和元年11月21日) 正四位下に昇叙される
・986年(寛和2年3月5日) 兼伊予権守となる
・986年(寛和2年10月) 円融上皇の大井河遊覧に参加し、3舟に併せ乗る名誉を得る
・989年(永延3年2月23日) 蔵人頭となる
・990年(永祚2年4月5日) 兼備前守となる
・992年(正暦3年8月28日) 参議となってて公卿に列する
・993年(正暦4年1月13日) 兼近江守となる
・993年(正暦4年) 一条天皇の大原野神社への行幸に不参する事件を起し、一時参内を止められる
・994年(正暦5年) 藤原道兼の養女(実は昭平親王の娘)と結婚する
・995年(長徳元年8月28日) 兼左兵衛督
・995年(長徳元年9月21日) 兼皇后宮大夫(皇后・藤原定子)となる
・996年(長徳2年1月) 兼讃岐守となる
・996年(長徳2年7月14日) 兼右衛門督・検非違使別当となる
・998年(長徳4年1月25日) 兼備前権守となる
・998年(長徳4年10月23日) 兼勘解由長官となる
・999年(長徳5年1月7日) 従三位に昇叙される
・999年(長徳5年閏3月29日) 勘解由長官を辞する
・999年(長徳5年5月6日) 藤原道長邸の改築に伴う祝宴に参加する
・999年(長徳5年9月12日) 道長に随行して西山に紅葉を尋ねる
・999年(長徳5年10月27日) 藤原彰子入内に際して、屏風歌を詠進する
・1001年(長保3年8月25日) 中納言となる
・1001年(長保3年10月3日) 兼左衛門督となる
・1001年(長保3年10月10日) 正三位に昇叙される
・1001年(長保3年12月7日) 検非違使別当を辞する
・1001年(長保3年12月16日) 皇后宮大夫(藤原定子崩御)を辞し、兼皇太后宮大夫(皇太后・藤原遵子)となる
・1005年(寛弘2年7月21日) 従二位に昇叙される
・1009年(寛弘6年3月4日) 権大納言となる
・1012年(寛弘9年2月14日) 兼太皇大后宮大夫(藤原遵子太皇太后贈号)
・1012年(寛弘9年4月) 長女を藤原教通に嫁がせる
・1012年(寛弘9年12月22日) 正二位に昇叙される
・1017年(寛仁元年6月1日) 太皇太后宮大夫を辞する
・1021年(寛仁5年1月28日) 兼陸奥出羽按察使となる
・1023年(治安3年) 次女(遵子の養女)を亡くする
・1024年(翌治安4年) 長女(藤原教通室)を亡くする
・1024年(万寿元年12月12日) 権大納言を辞し、陸奥出羽按察使となる
・1025年(万寿2年1月) 邸宅の四条宮が焼亡する
・1026年(万寿3年1月4日) 洛北長谷(現在の京都市左京区岩倉長谷町)の解脱寺で出家を果たす
・1040年(長久元年12月) 瘡湿に罹る
・1041年(長久2年1月1日) 数え年76歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
646年(大化2) | 「改新の詔」が発布される(新暦1月22日) | 詳細 | |||||
1946年(昭和21) | 昭和天皇が「新日本建設に関する詔書」(人間宣言)で自己の神格を否定する | 詳細 | |||||