ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

2019年12月

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 今日は、昭和時代中期の1960年(昭和35)に、哲学者・倫理学者・文化史家・評論家和辻哲郎の亡くなった日です。
 和辻哲郎(わつじ てつろう)は、明治時代前期の1889年(明治22)3月1日に、兵庫県神崎郡砥堀村(現在の姫路市)において、倫理学者で医師の父・和辻瑞太郎の次男として生れました。旧制姫路中学校(現在の兵庫県立姫路西高校)、第一高等学校を経て、1909年(明治42)に東京帝国大学文科大学哲学科へ入学します。
 在学中に谷崎潤一郎、小山内薫らと第2次「新思潮」の同人となり、1912年(明治45)に卒業後、同大学院へ進学しました。『ニイチェ研究』 (1913年) ,『ゼエレン・キェルケゴオル』 (1915年) など実存主義者の研究を発表し、日本におけるその先駆者となります。
 1917年(大正6)に奈良を旅行し、古寺を巡り、その旅行記を『古寺巡礼』(1919年)として出版して、日本文化の探求へも進み、『日本古代文化』(1920年)、『日本精神史研究』(1926年)などを出しました。また、東洋大学講師、法政大学教授を経て、1925年(大正14)には京都帝国大学助教授となり京都市左京区に転居します。
 1927年(昭和2)から翌年にかけて、ドイツ留学し、1931年(昭和6)には京都帝国大学教授となりました。翌年、『原始仏教の実践哲学』で京都大学より文学博士号を取得、1934年(昭和9)には東京帝国大学文学部倫理学講座教授に就任し、東京市本郷区に転居します。
 その後、『風土』(1935年)、『孔子』(1938年)などを出版し、思想史・文化史的研究にすぐれた業績を上げました。太平洋戦争後は、雑誌『世界』の創刊に関わり、1949年(昭和24)に大学を定年退官し、日本学士院会員となります。
 翌年日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)、1951年(昭和26)に『鎖国』で読売文学賞、1953年(昭和28)に『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞、1955年(昭和30)に文化勲章と数々の栄誉にも輝きました。人と人との関係たる間柄の学としての独自の倫理学を築き、晩年は皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師も務めたものの、1960年(昭和35)12月26日に、東京において、71歳で亡くなっています。

〇和辻哲郎の主要な著作

・『ニイチェ研究』(1913年)
・『ゼエレン・キェルケゴオル』(1915年)
・『古寺巡礼』(1919年)
・『日本古代文化』(1920年)
・『日本精神史研究』(1926年)
・『原始キリスト教の文化史的意義』(1926年)
・『原始仏教の実践哲学』(1927年)
・『人間の学としての倫理学』(1934年)
・『風土』(1935年)
・『続日本精神史研究』(1935年)
・『倫理学』3巻(1937~49年)
・『孔子』(1938年)
・『ホメロス批判』(1946年)
・『国民統合の象徴』(1948年)
・『鎖国』(1950年)第2回読売文学賞受賞
・『埋もれた日本』(1951年)
・『日本倫理思想史』2巻(1952年)毎日出版文化賞受賞
・『桂離宮』(1955年)
・『日本芸術史研究(歌舞伎(かぶき)と操浄瑠璃(あやつりじょうるり))』(1955年)
・『自叙伝の試み』(1961年)

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 今日は、江戸時代後期の天明3年に、俳人・画家与謝蕪村の亡くなった日ですが、新暦では1784年1月17日となります。
 与謝蕪村(よさ ぶそん)は、江戸時代中期の1716年(享保元)に、摂津国毛馬村(現在の大阪府大阪市都島区)の豊かな農家に生まれましたが、本名は谷口(のち与謝)信章と言いました。十代の頃に父と母を亡くし、家を失って、20歳ごろ江戸に出て絵画や俳諧を志し、その2年後に、夜半亭(早野)巴人の門人となります。
 27歳の時に、巴人が亡くなったので、江戸を出て下総国結城(現在の茨城県結城市)に住む同じ巴人の弟子の砂岡雁宕の元に身を寄せました。それから、10年もの間、松尾芭蕉の『奥の細道』の足跡を訪ねるなど東北地方、関東地方を遍歴し、画人・俳人としての基礎を固めましたが、その間29歳の時に蕪村と名乗るようになります。
 1751年(宝暦元)に京都に移って、45歳頃に結婚、しだいに画人・俳人としての名声を高め、1770年(明和7)には夜半亭二世となり、俳壇の宗匠の列に連なりました。1773年(安永2)には句集『明烏』を刊行して俳諧新風を大いに鼓吹、また、池大雅と合作の『十便十宜』を描き、画人としても一流とされます。
 主催する発句会には多くの人が参集するようになり、松尾芭蕉を祖とする蕉風の流派を復興させようと努めましたが、1784年1月17日(天明3年12月25日)に、京都において、病気により、数え年67歳で亡くなりました。

<代表的な句>

・「五月雨や 大河を前に 家二軒」
・「夏河を 越すうれしさよ 手に草履」
・「菜の花や 月は東に 日は西に」
・「春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな)」
・「冬鶯 むかし王維が 垣根かな」
・「しら梅に 明くる夜ばかりに なりにけり」(辞世) 

〇与謝蕪村の主要な著作

・句集『其雪影』
・句集『明烏』(1773年)
・句集『一夜四歌仙』
・句集『続明烏』
・句集『桃李 (ももすもも) 』(1780年)
・句集『五車反古』
・句集『花鳥篇』
・句集『続一夜四歌仙』
・俳体詩『春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)』
・句日記『新花摘(しんはなつみ)』
・『夜半楽』
・句集『蕪村句集』
・『玉藻集』

〇与謝蕪村の主要な絵画作品

・画帖『十便十宜図』(1771年)川端康成記念会蔵 国宝
・襖4面、四曲屏風一隻『紅白梅図』角屋もてなしの文化美術館蔵 国指定重要文化財
・四曲屏風一双『蘇鉄図』香川・妙法寺蔵 国指定重要文化財
・六曲一双『山野行楽図』東京国立博物館蔵 国指定重要文化財
・掛幅『竹溪訪隠図』個人蔵 国指定重要文化財
・巻子本2巻『奥の細道図巻』(1778年)京都国立博物館蔵 国指定重要文化財
・六曲一隻『野ざらし紀行図』個人蔵  国指定重要文化財
・六曲一隻『奥の細道図屏風』(1779年)山形美術館蔵 国指定重要文化財
・巻子本2巻『奥の細道画巻』(1779年)逸翁美術館蔵 国指定重要文化財
・掛幅『新緑杜鵑図』文化庁蔵 国指定重要文化財
・六曲一双『竹林茅屋・柳蔭騎路図』個人蔵  国指定重要文化財
・掛幅『春光晴雨図』個人蔵 国指定重要文化財
・掛幅『鳶烏図』北村美術館蔵 国指定重要文化財
・巻子『峨嵋露頂図』法人蔵 国指定重要文化財
・掛幅『夜色楼台図』個人蔵 国宝
・掛幅『富嶽列松図』愛知県美術館蔵 国指定重要文化財
・六曲一双『柳堤渡水・丘辺行楽図』ボストン美術館蔵
・『蜀桟道図』(1778年)シンガポールの会社蔵

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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、文芸評論家・思想家高山樗牛の亡くなった日です。
 高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)は、1871年(明治4年1月10日)に羽前国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)で、旧庄内藩士の父・斎藤親信、母・芳の次男として生まれましたが、本名は次郎と言いました。1872年(明治5)、2歳のときに伯父・高山久平の養子になり、高山姓となります。
 官吏であった養父の転任に従って、山形、福島と移りますが、少年期から投書雑誌『穎才新誌』や地元新聞に投稿するなど文才を発揮しました。福島中学中退後、東京英語学校を経て、1887年(明治20)に仙台の第二高等中学(後の第二高等学校)に入学し、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表します。
 1893年(明治26)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学、翌年に日就社の懸賞募集に応募、歴史小説『滝口入道』が当選し「読売新聞」に掲載されました。1995年(明治28)に雑誌「帝国文学」創刊とともに上田敏らと編集委員となり、次いで雑誌「太陽」の文芸部主任として、理想主義的文学を高く評価する評論を執筆します。
 1896年(明治29)に大学を卒業後、第二高等学校の教授になり、一時、中央論壇から離れました。しかし、翌年に校長排斥運動をきっかけに辞任し、博文館に入社して雑誌「太陽」編集主幹になりながら、東京帝国大学や東京専門学校に出講します。
 日清戦争後、井上哲二郎らとともに“日本主義”を鼓吹し、国家至上主義を説く評論を多く書きました。1900年(明治33)に文部省から美学研究のため海外留学を命じられたものの、洋行の送別会後に喀血し、入院・療養生活に入ります。
 その後、ニーチェの死に際し大いに感化を受け、『文明批評家としての文学者』、『美的生活を論ず』(1901年)などを発表し、個人主義へ転換しました。1902年(明治35)に論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されましたが、肺結核の病状が悪化して東大講師を辞任、理想の人格を日蓮に見いだすようになり、『日蓮上人とは如何なる人ぞ』などを執筆します。
 その中で、同年12月24日に神奈川県平塚の病院でおいて、数え年32歳の若さで亡くなりました。

〇高山樗牛の主要な著作

・小説『滝口入道』(1894年) 読売新聞の懸賞当選
・『わが袖の記』(1897年)
・『文明批評家としての文学者』(1901年)
・『美的生活を論ず』(1901年)
・『平家雑感』(1901年)
・『平相国』(1902年)
・『日蓮上人と日本国』(1902年)
・『日蓮と基督』(1902年)
・『日蓮上人とは如何なる人ぞ』(1902年)

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 今日は、戦国時代の明応5年に、第105代の天皇とされる後奈良天皇が生まれた日ですが、新暦では1497年1月26日となります。
 後奈良天皇(ごならてんのう)は、京都の権中納言勧修寺政顕の屋敷で、後柏原天皇の第2皇子(母は豊楽門院藤原藤子)として生まれましたが、名は知仁(ともひと)と言いました。1512年(永正9)に親王宣下され、続いて元服の儀が行われます。
 1526年(大永6年4月29日)に、父・後柏原天皇が亡くなったのにともない践祚し、同年6月9日に第105代とされる天皇として即位しました。しかし、朝廷が最も衰微していた時期で、内戦が起きて混乱していて、財政難もあって即位式を出来ず、10年後の1535年(天文5)に北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく、紫宸殿にて挙行します。
 1540年(天文9)に戦乱や災害で飢饉、疫病に苦しむ庶民のため、疾病終息を発願して自ら『般若心経』を書写し、24ヶ国の一宮社に宸筆を奉納しました。1542年(天文11年)に法華宗帰洛の綸旨を下し、1545年(天文14年8月)には、伊勢神宮へ宣命を奉り、大嘗祭を行い得ないことを謝し、国力の衰微、時運の非なることを告げ、聖運の興隆と民戸の豊饒を祈願します。
 1553年(天文22年)に上杉謙信が京都へ上って謁見した折に、御剣と天盃、隣国追討の命令文章を下賜しました。学を好み、清原宣賢・五条為学らより漢籍を吉田兼右・三条西実隆・同公条より日本の古典を学び、古典の書写、保存に努めています。
 また、日記『天聴集』や歌集『後奈良院御集』、なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』なども残しましたが、1557年(弘治3年9月5日)に、京都において、数え年61歳で亡くなり、墓所は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされました。

<後奈良天皇の代表的な歌>

・「しづたまき よろづを棄てぬ 古(いにしへ)の 道しある世に くりかへしてむ」(後奈良院御製集)
・「愚かなる 身も今さらに そのかみの かしこき世々の あとをしぞ思ふ」

〇後奈良天皇の主要な著作

・日記『天聴集』
・日記『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』
・歌集『後奈良院御集』
・歌集『後奈良院御百首』
・なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』

☆後奈良天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1497年1月26日(明応5年12月23日) 京都の権中納言勧修寺政顕の屋敷で、後柏原天皇の第2皇子(母は豊楽門院藤原藤子)として生まれる
・1512年(永正9年4月8日) 親王宣下される
・1512年(永正9年4月26日) 元服の儀が行われる
・1517年(永正14年5月29日) 第一皇子として方仁親王(のちの正親町天皇)が誕生する
・1526年(大永6年4月29日) 後柏原天皇の崩御にともない践祚する
・1526年(大永6年6月9日) 第105代とされる天皇として即位する
・1535年(天文5年2月26日) 紫宸殿にて即位式を行う
・1540年(天文9年6月) 疾病終息を発願して自ら『般若心経』を書写し、24ヶ国の一宮社に宸筆が奉納される
・1542年(天文11年) 法華宗帰洛の綸旨を下す
・1545年(天文14年8月) 伊勢神宮への宣命を上げる
・1551年(天文20年1月) フランシスコ・ザビエルが京都に上がり、拝謁を望むが叶わず
・1553年(天文22年) 上杉謙信が京都へ上って謁見し、御剣と天盃、隣国追討の命令文章を賜る
・1557年(弘治3年9月5日) 京都において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、戦国時代の元亀3年に、三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破った日ですが、新暦では1573年1月25日となります。
 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦国合戦の一つでした。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利します。
 徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死しました。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かい、落城は免れます。
 現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。
 ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いところでした。
 以下に、『信長公記』第5巻の三方ヶ原の戦いの部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『信長公記』第五巻より

身方ヶ原合戦の事

是れは遠州表の事。霜月[1]下旬、武田信玄、遠州二股の城[2]取巻くの由、注進[3]これあり。則ち、信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣のところに、早、二股の城[1]攻め落し、其の競ひに、武田信玄堀江の城[4]へ打ち廻り、相働き候。家康も浜松の城[5]より御人数出だされ、身方ケ原[6]にて足軽ども取合ひ、佐久間・平手を初めとして、懸けつき、互に人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。武田信玄、水股の者[7]と名付けて、三百人ばかり、真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ[8]て、推し大鼓[9]を打ちて、人数かゝり来たる。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵。
十二月廿二日、身方ケ原[6]にて数輩討死これあり。さる程に[10]、信長公、幼稚より召し使はれ侯御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り[11]、遠州に身を隠し、居住侯らひし。是れ叉、一番合戦に一手[12]にかゝり合ひ、手前[13]にて比類なき[14]討死なり。爰に希代[15]の事ある様子は、尾州清洲の町人、具足屋[16]玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参られ侯折節、武田信玄、堀江の城[4]取り詰め、在陣の時に侯。定めて、此の表相働くべく侯。さ侯はぱ一戦に及ぶべく侯間、早々罷り[17]帰り侯へと、四人衆達つて異見侯へば、是れまで罷り[17]参り侯のところを、はづして罷り[17]帰り侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り[17]帰らず、四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
家康公中筋[18]切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、身方が原[3]のきし道[19]の一騎打ちを退かせられ侯を、御敵、先に待ち請け、支へ[20]侯。馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り侯。是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず、浜松の城[5]堅固に御拘へなさる。信玄は勝利を得、人数打ち入れ[21]侯なり。

【注釈】

[1]霜月:しもつき=11月。
[2]二股の城:ふたまたのしろ=二俣城。現在の浜松市天竜区に城跡がある。
[3]注進:ちゅうしん=事件を急いで目上の人に報告すること。
[4]堀江の城:ほりえのしろ=堀江譲。現在の浜松市西区舘山寺町に城跡がある。
[5]浜松の城:はままつのしろ=徳川家康の居城で、現在の浜松市中区に城跡がある。
[6]身方ケ原:みかたがはら=三方ヶ原。現在の浜松市北区三方原町のあたり。
[7]水股の者:みずまたのもの=足軽のことか?
[8]つぶてをうたせ=小石を投げること。
[9]推し大鼓:おしだいこ=戦場で、進軍や攻撃開始の合図に打ち鳴らす太鼓。かかり太鼓。
[10]さる程に:さるほどに=さて。ところで。
[11]憑み奉り:たのみたてまつり=頼りにして。
[12]一手:ひとて=一隊。一組。
[13]手前:てまえ=他人の目の前。人の見る前。
[14]比類なき:ひるいなき=比べようもない。例えようもない。
[15]希代:きたい=世にもまれなこと。めったに見られないこと。また、そのさま。
[16]具足屋:ぐそくや=甲冑の商売人。武具商。
[17]罷り:まかり=貴人の前や貴所から退くこと。退出。行くこと。
[18]中筋:なかすじ=戦線の中央部の意味。
[19]きし道:きしみち=岸道。崖道。山際の道。
[20]支へ:ささへ=じゃまをする。立ちふさがる。
[21]人数打ち入れ:にんずううちいれ=軍勢を納めること。

<現代語訳>

三方ヶ原合戦の事

 これは遠州方面の出来事である。11月下旬、武田信玄が遠州二俣城を取り囲んだとの報告がもたらされた。ただちに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として出陣させ、軍勢が遠州浜松に到着し参陣したが、すでに二俣城は攻め落とされ、その勢いに乗じて、武田信玄は堀江城へまわって、攻略中であった。徳川家康も、浜松城から軍勢を出されて、三方ヶ原で最初に足軽による攻め合いとなり、佐久間・平手を初め、その他の者も懸けつけてきて、双方が軍勢を繰り出しての一戦となった。武田信玄は水股の者(足軽?)と呼ぶ兵300人ほどを先頭に立てて、彼らに小石を投げさせ、かかり太鼓を打ち鳴らして、攻撃してきた。最初の合戦では、平手甚左衛門とその家臣の者、家康公の御身内衆の成瀬藤蔵が討ち死にした。
 12月22日、三方ヶ原にて数名の者が討ち死にした。ところで、信長公が幼い時より召し使われていた御小姓衆の長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎の四人は、信長公の御勘当を受けて、家康公を頼りにして、遠州に身を隠して、居住していた。これまた、最初の合戦の一隊としてに攻めかかり、人々の眼前にて比べようもない討ち死にをとげた。この時に世にもまれなことがあったが、尾州清洲の町人で、武具商の玉越三十郎という、年の頃24、5歳の者のことである。四人衆の見舞いとして、遠州浜松へ来ていた折に、武田信玄が堀江城に攻めかかっている、在陣の時であった。「きっと、この浜松方面へも仕掛けてくるであろう。そうならぱ、一戦にとなる前に、早々に退去して帰りなさい。」と、四人衆が強いて忠告したならば、「ここまでやってきたところを、放棄して立ち返ったならば、以後、口を聞いてくれる人はいまくなってしまいでありましょう、四人衆が討死するならば、ご一所すべきでしょう。」と言い切って帰らず、四人衆といっしょに切り込んで、枕を並べて討死したのであった。
 家康公は、戦線の中央部へ切り込み、軍の中に乱れ入って、左手に逃れ、三方ヶ原の山際の道を一騎で退却していったが、敵は退却の先にも待ちかまえて、立ちふさがってきた。家康公は馬上より弓で射倒して駆け抜けた。家康公の弓の手柄は、今に始まったことではないが、その後浜松城に籠り、堅固に守りを固めた。信玄は勝利を得て、軍勢を納めたことである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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