今日は、昭和時代中期の1952年(昭和27)に、作曲家中山晋平の亡くなった日です。
中山晋平(なかやま しんぺい)は、明治時代前期の1887年(明治20)3月22日に、長野県下高井郡新野村(現在の中野市)で、名主だった旧家の父・中山實之助、母・ぞうの四男として生まれました。子供の時に父を亡くし、養蚕をする母親に女手一つで育てられ、長野師範学校講習科を修了します。
1903年(明治36)に下高井郡瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員となりましたが、1905年(明治38)に教職を辞し、上京して島村抱月の書生となりました。1908年(明治41)に東京音楽学校予科に入学、翌年に本科のピアノ科に進み、1912年(明治45)に卒業、東京都浅草の千束小学校音楽専科教員となりながらも、作曲を続けます。
「芸術座」の旗揚げに関わり、1914年(大正3)にトルストイの「復活」の劇中歌『カチューシャの唄』を初めて作曲し、松井須磨子の歌によって大流行となって一躍有名となりました。翌年のツルゲーネフ「その前夜」の劇中歌『ゴンドラの唄』もヒットし、その後も劇中歌を作りましたが、1918年(大正7)の島村抱月の死去により、「芸術座」が解散することになります。
1919年(大正8)に斎藤佐次郎による児童雑誌「金の船」に童謡を発表するようになり、翌年から野口雨情と組んで多くの童謡を作曲しました。その中で、『シャボン玉』(1923年)、『あの町この町』(1924年)、『証城寺の狸囃子』(1924年)、『雨ふりお月さん』(1925年)などの愛唱歌が生まれます。
一方で、『船頭小唄』(1921年)、『須坂小唄』(1923年)、『波浮の港』(1928年)などの歌謡曲や新民謡も発表して、“晋平節”といわれる数多くのヒット曲を生み出しました。1928年(昭和3)に日本ビクター蓄音機会社と専属契約を結び、翌年に西條八十とコンビで作った『東京行進曲』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録し、その後の『東京音頭』(1932年)も大ヒットします。
1942年(昭和17)に日本音楽文化協会理事長に就任、1944年(昭和19)には日本音楽著作権協会理事長となりました。太平洋戦争後は、ほとんど作曲をしませんでしたが、1948年(昭和23)に日本音楽著作権協会会長、1950年(昭和25)には日本民謡協会理事となっています。
1952年(昭和27)1月3日には第2回NHK紅白歌合戦の審査委員長を務めたものの、同年12月30日に、病気のため、入院先の熱海国立病院において、65歳で亡くなりました。
〇中山晋平の主要な作曲作品
・劇中歌『カチューシャの唄』(1914年)
・劇中歌『ゴンドラの唄』吉井勇作詞(1915年)
・劇中歌『さすらいの唄』(1917年)
・歌謡曲『船頭小唄』野口雨情作詞(1921年)
・童謡『てるてる坊主』浅原鏡村作詞(1921年)
・童謡『砂山』北原白秋作詞(1922年)
・新民謡『須坂小唄』野口雨情作詞(1923年)
・童謡『肩たたき』西條八十作詞(1923年)
・童謡『シャボン玉』野口雨情作詞(1923年)
・童謡『背くらべ』海野厚作詞(1923年)
・童謡『あの町この町』野口雨情作詞(1924年)
・童謡『証城寺の狸囃子』野口雨情作詞(1924年)
・童謡『雨ふりお月さん』野口雨情作詞(1925年)
・童謡『アメフリ』北原白秋作詞(1925年)
・新民謡『波浮の港』野口雨情作詞(1928年)
・歌曲『出船の港』野口雨情作詞(1928年)
・歌曲『鉾をおさめて』時雨音羽作詞(1928年)
・歌謡曲『東京行進曲』西条八十作詞(1929年)
・新民謡『十日町小唄』(1929年)
・童謡『鞠と殿様』西条八十作詞(1929年)
・新民謡『東京音頭』西条八十作詞(1932年)
・新民謡『天竜下れば』長田幹彦作詞(1933年)
☆中山晋平関係略年表
・1887年(明治20)3月22日 長野県下高井郡新野村に父實之助、母ぞうの四男として生まれる
・1903年(明治36) 下高井郡瑞穂村柏尾尋常小学校の代用教員となる
・1905年(明治38) 延徳尋常小学校の教職を辞し、上京して島村抱月の書生となる
・1908年(明治41) 東京音楽学校予科に入学する
・1909年(明治42) 本科のピアノ科に進む
・1912年(明治45) 東京音楽学校本科(ピアノ)を卒業、東京都浅草の千束小学校音楽専科教員を務める傍ら作曲を行う
・1914年(大正3) トルストイ「復活」の劇中歌「カチューシャの唄」を初めて作曲する
・1915年(大正4) ツルゲーネフ「その前夜」の劇中歌『ゴンドラの唄』もヒットする
・1917年(大正6) 江南敏子と結婚する
・1918年(大正7) 島村抱月の死去により「芸術座」が解散する
・1919年(大正8) 斎藤佐次郎による児童雑誌「金の船」に童謡を発表する
・1920年(大正9) 児童雑誌「金の船」に野口雨情と組んで多くの童謡を掲載する
・1921年(大正10) 『船頭小唄』を出して、大ヒットする
・1922年(大正11) 児童雑誌「コドモノクニ」に童謡を掲載、浅草千束尋常小学校を退職し、作曲に専念する
・1923年(大正12) 新民謡第1号の『須坂小唄』を作曲する
・1924年(大正13) 児童雑誌「コドモノクニ」に『あの町この町』が発表される
・1925年(大正14) 児童雑誌「コドモノクニ」に『雨降りお月さん』が発表される
・1927年(昭和2) 長野県中野町の『中野小唄』を作曲する
・1928年(昭和3) 日本ビクター蓄音機会社と専属契約を結び、作品を吹き込む
・1929年(昭和4) 西條八十とコンビで作った『東京行進曲』は佐藤千夜子の歌唱で25万枚のレコード売り上げを記録する
・1932年(昭和7) 『丸の内音頭』をはじめ、音頭ものの作曲をはじめる
・1936年(昭和11) 妻敏子が死去する
・1937年(昭和12) 鹿児島出身の元芸妓で歌手の新橋喜代三(今村タネ)と再婚する
・1939年(昭和14) 日本ビクター(株)相談役を委嘱され、大日本音楽著作権協会が設立し監事となる
・1942年(昭和17) 日本音楽文化協会理事長に就任する
・1944年(昭和19) 戦局悪化で熱海の西山町に疎開、日本音楽著作権協会理事長となる
・1948年(昭和23) 日本音楽著作権協会会長となる
・1950年(昭和25) 日本民謡協会理事となる
・1952年(昭和27)1月3日 第2回NHK紅白歌合戦の審査委員長を務める
・1952年(昭和27)12月30日 入院先の熱海国立病院で、膵臓炎のため、65歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1927年(昭和2) | 上野~浅草に日本初の地下鉄(現在の東京メトロ銀座線)が開通(地下鉄記念日) | 詳細 |
1930年(昭和5) | 小説家開高健の誕生日 | 詳細 |