今日は、昭和時代中期の1965年(昭和40)に、作曲家・指揮者山田耕筰の亡くなった日(山田耕筰忌)です。
山田耕筰(やまだ こうさく)は、1886年(明治19)6月9日に、東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)で、旧板倉藩士だった医師の父の子として生まれました。1896年(明治29)10歳の時に実父を亡くし、その遺言で、巣鴨宮下(現在の南大塚)にあった自営館(後の日本基督教団巣鴨教会)に入館し、13歳まで施設で苦学します。
関西学院を経て1904年(明治37)に東京音楽学校に入学し、予科から本科声楽科、研究科へと進みました。1910年(明治43)からベルリン高等音楽学校に留学し、ブルッフらに作曲を師事、1914年(大正3)に帰国後は日本最初の交響楽団である東京フィルハーモニー管弦楽団を創設して、自作を指揮、発表します。
1917年(大正6)から1年半、米国に滞在してカーネギー・ホールで自作の管弦楽曲による2度の演奏会を開催しました。帰国後、1920年(大正9)に日本楽劇協会を発足させてオペラ運動を興し、1922年(大正11)には北原白秋と共同編集の月刊「詩と音楽」誌を創刊、連作歌曲を発表します。
1924年(大正13)に日本交響楽協会(のちのNHK交響楽団の母体)を設立し、1926年(大正15)からは定期演奏会を開始、また、指揮者として全国を巡演、交響楽の普及にも努めました。1936年(昭和11)にフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を受け、翌年には相愛女子専門学校(現在の相愛大学)教授に就任、1940年(昭和15)には演奏家協会を発足させ、自ら会長に就任します。
1942年(昭和17)に帝国芸術院会員となり、1944年(昭和19)には、日本音楽文化協会会長にもなりました。太平洋戦争後は、1948年(昭和23)に脳溢血で左半身不随となりますが再起し、1950年(昭和25)に日本指揮者協会会長に就任、1954年(昭和29)には文化功労者、1956年(昭和31)には文化勲章を受章します。
1963年(昭和38)頃まで作曲活動を続け、教科書の編纂などにもたずさわり、日本の洋楽普及に多大な貢献をしたものの、1965年(昭和40)12月29日に東京都世田谷区の自宅において、79歳で亡くなりました。
〇山田耕筰の主要な作曲作品
・交響曲『かちどきと平和』(1912年)
・交響詩『曼陀羅(まんだら)の華(はな)』(1913年)
・交響詩『暗い扉(と)』(1913年)
・舞踊詩劇『マリア・マグダレーナ』(1916年)
・歌曲『六騎』(1922年)
・歌曲『からたちの花』北原白秋作詞(1925年)
・歌曲『この道』(1927年)
・歌曲『赤とんぼ』三木露風作詞(1927年)
・オペラ『堕(お)ちたる天女』(1929年)
・オペラ『黒船』(1940年)
・歌曲『幽韻』
・歌劇『夜明け』
・歌曲『病める薔薇』
・童謡『あわて床屋』
・歌曲『野ばら』
・歌曲『ペイチカ』北原白秋作詞
・歌曲『待ちぼうけ』北原白秋作詞
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1941年(昭和16) | 民俗学者・植物学者南方熊楠の命日 | 詳細 |
1993年(平成5) | 「生物の多様性に関する条約」が発効する | 詳細 |