今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、文芸評論家・思想家高山樗牛の亡くなった日です。
高山樗牛(たかやま ちょぎゅう)は、1871年(明治4年1月10日)に羽前国鶴岡(現在の山形県鶴岡市)で、旧庄内藩士の父・斎藤親信、母・芳の次男として生まれましたが、本名は次郎と言いました。1872年(明治5)、2歳のときに伯父・高山久平の養子になり、高山姓となります。
官吏であった養父の転任に従って、山形、福島と移りますが、少年期から投書雑誌『穎才新誌』や地元新聞に投稿するなど文才を発揮しました。福島中学中退後、東京英語学校を経て、1887年(明治20)に仙台の第二高等中学(後の第二高等学校)に入学し、同人誌や山形日報などに評論、紀行などを発表します。
1893年(明治26)、東京帝国大学文科大学哲学科に入学、翌年に日就社の懸賞募集に応募、歴史小説『滝口入道』が当選し「読売新聞」に掲載されました。1995年(明治28)に雑誌「帝国文学」創刊とともに上田敏らと編集委員となり、次いで雑誌「太陽」の文芸部主任として、理想主義的文学を高く評価する評論を執筆します。
1896年(明治29)に大学を卒業後、第二高等学校の教授になり、一時、中央論壇から離れました。しかし、翌年に校長排斥運動をきっかけに辞任し、博文館に入社して雑誌「太陽」編集主幹になりながら、東京帝国大学や東京専門学校に出講します。
日清戦争後、井上哲二郎らとともに“日本主義”を鼓吹し、国家至上主義を説く評論を多く書きました。1900年(明治33)に文部省から美学研究のため海外留学を命じられたものの、洋行の送別会後に喀血し、入院・療養生活に入ります。
その後、ニーチェの死に際し大いに感化を受け、『文明批評家としての文学者』、『美的生活を論ず』(1901年)などを発表し、個人主義へ転換しました。1902年(明治35)に論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与されましたが、肺結核の病状が悪化して東大講師を辞任、理想の人格を日蓮に見いだすようになり、『日蓮上人とは如何なる人ぞ』などを執筆します。
その中で、同年12月24日に神奈川県平塚の病院でおいて、数え年32歳の若さで亡くなりました。
〇高山樗牛の主要な著作
・小説『滝口入道』(1894年) 読売新聞の懸賞当選
・『わが袖の記』(1897年)
・『文明批評家としての文学者』(1901年)
・『美的生活を論ず』(1901年)
・『平家雑感』(1901年)
・『平相国』(1902年)
・『日蓮上人と日本国』(1902年)
・『日蓮と基督』(1902年)
・『日蓮上人とは如何なる人ぞ』(1902年)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1953年(昭和28) | 日本とアメリカ合衆国が「奄美群島返還協定」に調印する | 詳細 |
1975年(昭和50) | 国鉄最後の蒸気機関車(SL)牽引による定期貨物列車が夕張線で運転される | 詳細 |