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 今日は、戦国時代の明応5年に、第105代の天皇とされる後奈良天皇が生まれた日ですが、新暦では1497年1月26日となります。
 後奈良天皇(ごならてんのう)は、京都の権中納言勧修寺政顕の屋敷で、後柏原天皇の第2皇子(母は豊楽門院藤原藤子)として生まれましたが、名は知仁(ともひと)と言いました。1512年(永正9)に親王宣下され、続いて元服の儀が行われます。
 1526年(大永6年4月29日)に、父・後柏原天皇が亡くなったのにともない践祚し、同年6月9日に第105代とされる天皇として即位しました。しかし、朝廷が最も衰微していた時期で、内戦が起きて混乱していて、財政難もあって即位式を出来ず、10年後の1535年(天文5)に北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく、紫宸殿にて挙行します。
 1540年(天文9)に戦乱や災害で飢饉、疫病に苦しむ庶民のため、疾病終息を発願して自ら『般若心経』を書写し、24ヶ国の一宮社に宸筆を奉納しました。1542年(天文11年)に法華宗帰洛の綸旨を下し、1545年(天文14年8月)には、伊勢神宮へ宣命を奉り、大嘗祭を行い得ないことを謝し、国力の衰微、時運の非なることを告げ、聖運の興隆と民戸の豊饒を祈願します。
 1553年(天文22年)に上杉謙信が京都へ上って謁見した折に、御剣と天盃、隣国追討の命令文章を下賜しました。学を好み、清原宣賢・五条為学らより漢籍を吉田兼右・三条西実隆・同公条より日本の古典を学び、古典の書写、保存に努めています。
 また、日記『天聴集』や歌集『後奈良院御集』、なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』なども残しましたが、1557年(弘治3年9月5日)に、京都において、数え年61歳で亡くなり、墓所は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされました。

<後奈良天皇の代表的な歌>

・「しづたまき よろづを棄てぬ 古(いにしへ)の 道しある世に くりかへしてむ」(後奈良院御製集)
・「愚かなる 身も今さらに そのかみの かしこき世々の あとをしぞ思ふ」

〇後奈良天皇の主要な著作

・日記『天聴集』
・日記『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』
・歌集『後奈良院御集』
・歌集『後奈良院御百首』
・なぞなぞ集『後奈良院御撰何曾』

☆後奈良天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1497年1月26日(明応5年12月23日) 京都の権中納言勧修寺政顕の屋敷で、後柏原天皇の第2皇子(母は豊楽門院藤原藤子)として生まれる
・1512年(永正9年4月8日) 親王宣下される
・1512年(永正9年4月26日) 元服の儀が行われる
・1517年(永正14年5月29日) 第一皇子として方仁親王(のちの正親町天皇)が誕生する
・1526年(大永6年4月29日) 後柏原天皇の崩御にともない践祚する
・1526年(大永6年6月9日) 第105代とされる天皇として即位する
・1535年(天文5年2月26日) 紫宸殿にて即位式を行う
・1540年(天文9年6月) 疾病終息を発願して自ら『般若心経』を書写し、24ヶ国の一宮社に宸筆が奉納される
・1542年(天文11年) 法華宗帰洛の綸旨を下す
・1545年(天文14年8月) 伊勢神宮への宣命を上げる
・1551年(天文20年1月) フランシスコ・ザビエルが京都に上がり、拝謁を望むが叶わず
・1553年(天文22年) 上杉謙信が京都へ上って謁見し、御剣と天盃、隣国追討の命令文章を賜る
・1557年(弘治3年9月5日) 京都において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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